第7話

 秋良は、コーヒーカップを口に運び、苦い液体を一口喉に通す。その秋良の喉仏の動きに合わせ、真奈美も固唾を飲んだ。


「悩める善良な夫婦の為に、君の子宮を貸し出して欲しい」


 真奈美は、聞いてはいけなかったことを聞いてしまった気になった。怖さが頂点に達して気分が悪くなってきた。


「臓器売買なの?」

「まさか…。たとえ爪の先であろうとも、君の身体を切り取ったりしない。貸し出す前も後も、健全な身体のままだ」

「まさか新手の売春?」

「売春なんて時代遅れなビジネスじゃ、港区の一等地に洒落たオフィスを構えられないよ」


 秋良は、青ざめる真奈美の顔をのぞき込み、唇の隅にわずかな笑みを浮かべた。


「非合法ではあるが、うちは国内で唯一、日本人の、日本人による、日本人の為の代理出産をコーディネートする会社なんだ」


 真奈美は憤然として席を蹴った。


「こんな話まともじゃないわ」


 真奈美は秋良にそう言い放つと、テーブルナプキンを叩きつけ、肩を怒らせて出口に向かって歩いて行った。秋良はそんな彼女の反応と行動にも慌てることなく、静かに後ろ姿を見送った。誰でもこんな話を聞けば、最初は真奈美と同じ反応を示す。それは幾度かのリクルートで経験済みだ。しかし、秋良は解っていた。選択の余地のないものだけにこの話をするのだ。しばらく様子を見ることにしよう。



 真奈美はガーデンプレイスの広場を歩いていた。歩きながらも、秋良の話しで引き起こされた悪寒が、なんとかおさまるように必死で別なことを考えようと試みていた。他のことをと思えば思うほど一層の悪寒が彼女を襲う。暴力団が彼女の身体を手に入れようとしていたのなら、毅然と拒否をしたその瞬間に不快感から逃れることができる。しかし、あのアポロンが、あたかも日常のありふれた会話のごとく、身の毛もよだつような事を平然と話していたことがショックで、それがいつまでも彼女に悪寒がまとわりついている理由になっていた。


「痛いっ!」


 歩いているうちに、真奈美はヒールを広場の敷石の間に引っ掛けて、足をひねってしまった。片足を庇いながら、近くのベンチにたどり着くと、ベンチに腰掛けてひねった足をさする。改めて自分の靴を、そして可憐なスカートを眺めた。


 久しぶりに女であることを思い出させてくれた男に、その女の一部を金で貸し出せと言われた。しかしよりにもよって、その身体の一部とは子宮なのだ。


『悩める善良な夫婦の為に』


 真奈美は、秋良の言った言葉を、もう一度自分の口でなぞってみた。背筋がまた寒くなった。そんな希薄なオブラートのような偽善で包まれている分、売春なんかより一層忌まわしいことのような気がする。たとえどんな理由があったとしても、偽善につつまれたビジネスに自分自身の身体が利用されるようなことがあってはならない。


 やはりあの事故は、自分をおびき出すために仕込まれていた。なんで自分がターゲットになったのか。真奈美は服の上から、両手の手のひらで自分の乳房を覆ってみた。その母性は手のひらにすっぽりと収まってしまう。どうも外見的な母性が際立っているわけではないようだ。アポロンは自分のことを相当詳しく知っていた。自分のことをあそこまで調べ上げ、経済的苦難で空いた穴を、すっぽりと埋めるように設計された報酬を提示してくるとは…。つまり、自分は周到に準備された罠にハマったのか。もう逃げられないウサギと思われているのか。とんでもない。どんなに生活が苦しくとも、人間として踏み出してはいけない線があるのだ。もうアポロンに会うこともない。彼女は夜空を見上げて、秋良の緑がかった瞳を想った。悪寒がするような話しが出る前までは、本当は楽しかったのに…。


 彼女のスマートフォンが鳴った。着信はミナミからだった。


「もしもし、ミナミ。遅くなってごめん。もう帰るから…」

「お姉ちゃん…」


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