第二章 クチナシとアカシヤ Ⅹ

 四月――晴れてわたしは、美咲ノ杜高校一年生となった。

 入学式が終わったあと、わたしは、制服姿のまま、郊外の病院を訪ねた。

 時間は、黄昏どき。

 美鈴さんのベッドは、窓から射す淡い光の中で、静かな影をつくっていた。

病室に入っていくと、美鈴さんは、ベッドの上で顔だけをこちらに向けた。

「――春花か?」

「残念でした。小羽子だよ」

「ああ、そうか、ごめん……ちょっとだけ、うとうとしてたもんだから」

「わたし、見た目で“お母さんに似てる”とか言われることって、あんまりないんだけどな。それに、ほら、見て」

 わたしは、スカートのプリーツをつまみ、その場でくるっとまわった。

「ね、これ、新しい高校の制服だよ」

 美鈴さんは、そんなわたしを黙って見ている。

「なによ、馬子にも衣装、とか言わないの?」

「言わないよ」

 そう言って、美鈴さんは微笑んだ。

「高校入学、おめでとう」

「ありがとう」

 わたしは、窓の外に目を向けた。病院の敷地の向こうは大きな川で、遊歩道になった堤に沿って桜並木が続いている。桜は、今を盛りと咲き誇っていた。

「へえ、この部屋、ほんとに桜が見えるんだね」

「だろ? 特等席なのさ」

 夕映えに照らされて輝く川面と桜並木は、どこか幻想的で、とてもきれいだった。

人を、どこか遠くへつれていってしまう光……ふっとそんなことを思い、あわてて頭を振る。

 なに考えてるのよ、小羽子のボケナス。

 わたしは、混乱を追い払うように窓のカーテンを引いた。

「なんだか、ちょっと冷えてきたよね。部屋、もう少し暖かくしてもらおうか。あ、そうだ、なにかほしいものある? 飲み物とか――」

 振りむいてたずねると、美鈴さんが、ぽつりとつぶやいた。

「そうだね……今だったら……どこにでもいける切手、かな」

「え?」わたしは、首をかしげた。「なに? 切手?」

「あはは、なんでもない。ただのうわごとだよ」

「ちょっと変だよ、美鈴さん」

「あたいは、昔からちょっと変なんだよ。知ってるだろ?」

 美鈴さんが、ははは、と笑う。

「それよかさ、考えてみたら、アリ子に入学祝い、まだあげてなかったね」

「え? いいよ、別にそんなの」

「ほんとはさ……お祝いに、とっておきの店につれてってやろうと思ってたんだけど、それは、ちょっと無理っぽい」

「だから、そんなのいいって」

「いいから、聞きなよ……お祝いは、ちゃんと用意してるんだ。でも、その前にクエストだよ」

「クエスト?」

「お宝やごほうびをもらうには、クエストをクリアしなきゃいけない、ってのがお約束だろ?」

「なんのこと言ってるの? 意味、わかんないよ」

「だからさ、アリ子は、今から……あたいの言うクエストを……受けるんだ」

 そこまで話して、美鈴さんは、大きくせきこんだ。美鈴さんの呼吸が、一気に荒くなる。

「いいよ、もうしゃべらないで」

「ちゃんと……お聞き……いいかい、キーワードを……いうよ」

「お願い、ねえ、もう話さないで」

「さがして……ごらん…………くちな……し……と……」

 え? クチナシ?

「あか……しや……」

 美鈴さんが、ふたたび激しくせきこむ。

 ごほっごほっという喉から吐き出されるくぐもった音が、病室に響く。

 あわててナースコールしようとしたわたしの腕を、美鈴さんの手がとめた。

「だいじょう……ぶ……だから」

 わたしは泣いていた。

「バカ! なにがクエストよ!」

「ああ……アリ子に怒られた……」

 わたしは、ベッドの上に覆いかぶさるようにして、美鈴さんを抱きしめた。

 どれだけ、そうしていたのだろう。廊下に足音が響き、部屋をのぞいた看護師さんが、面会時間の終了を告げた。いつの間にか、美鈴さんは、小さな寝息をたてて眠っていた。

 クチナシとアカシヤ――その不思議な言葉を、美鈴さんの口から聞いたのは、そのとき、たった一度だけ。そして、今もわたしは、その言葉の前で迷子になり続けている。


 四月のなかばを過ぎて、美鈴さんの容体(ようだい)が急激に悪化した。

 お医者さんから「山場」という言葉を告げられたのは、四月の終わり。

 テレビのニュースも、クラスメイトのおしゃべりも、“そんなこと知らないよ”という顔で、最近人気のスイーツショップや、目前に迫ったゴールデンウィークの話題を追いかけていた。

 そして、その日――三時限目が終わったところで、職員室を経由して母から「すぐ病院にきて」という連絡が入った。

 わたしは、先生に断り、そのまま走るように学校を出て病院へ向かった。

 病室に駆けこんだとき、母は、リノリウムの床に座りこんで、美鈴さんのベッドに寄りそっていた。美鈴さんは、すでに意識を失った状態だった。

 それから、美鈴さんと母とわたしがともに過ごした時間を、わたしは一生忘れない。

 母とわたしは、ふたりして美鈴さんの手をとり、美鈴さんに声をかけ続けた。わたしたちは、それぞれの思い出を美鈴さんに話した。

 美鈴さんがやってきた日のこと、ジャングルジムのこと、運動会のこと、そして旅行のこと。思い出は、次々にあふれ出てきて、とまることがなかった。

 話し続けていれば、それに応えて、美鈴さんがもう一度笑ってくれる。

 ふたりで、そんな奇跡を信じた。

 奇跡は、起きなかった。

 ううん、そうじゃない――あの日、わたしたちは、美鈴さんのそばで、同じ時間(とき)を生きた。

 美鈴さんといっしょにいられたこと、その手のぬくもりに触れたこと。

 そのすべてが、わたしたちにとっての奇跡だった。神様がくれた時間だった。

 たった数時間だったかもしれない。でも、それは、今もわたしの中で、永遠の宝物として光り輝き続けている、大切な大切な時間だ。


 わたしは、美鈴さんに「さよなら」を言わなかった。

 美鈴さんにもらったたくさんの時間も、言葉も、わたしの中でちゃんと生き続けてる。

 今もわたしは、美鈴さんが残した宿題をいくつも抱えこんだまま、美鈴さんの声といっしょに歩いている。うろうろと迷い、戸惑っているばかりで、わからないことばかりで、悩むたび、立ちどまるたび、結局また、美鈴さんの声に励まされる。

 ――バカだね、アリ子。いつまで、ウジウジと考えこんでるんだい。

 いつだって、その声が、わたしの背中を、ぽん、と押してくれる。

“ほら、歩きだしてごらん”と言ってくれる。

 そう、わたしは、今もまだ、美鈴さんの叱咤にたよりきってる不肖の弟子だ。


 ねえ、美鈴さん。

 あのとき、渡り廊下でわたしの背中を押してくれたのも、あなたなんでしょ?

今いるその場所から、一歩だけ踏みだしてごらん。

 ちゃんと自分のその足で、自分の光を見つけてごらん、って……。

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