第二章 クチナシとアカシヤ Ⅳ

 自分で言うのもなんだけれど、わたしには、反抗といえるほどの反抗を、母にした記憶があまりない。感覚としては、反抗のしかたをちゃんと身につける前に、その季節を通り越してしまった、というのが近いかもしれない。要は、反抗のタイミングを逸してしまったのだ。

 そんなわけでわたしは、生まれてから十六年間、「手のかからない子」の看板をはずすことなく、今日にいたってしまっている。

 それでも、小学校の高学年ともなれば、突然の成長や、身体と心のアンバランスにとまどうことも増える。自分でも「なんでこんなこと」と思うような理由で、母と衝突してしまうことが、ときおりあった。

 悪いのは自分、とわかっているのに、でも、どうやって謝ったらいいのかわからない。そんなとき、さりげなく手をさしのべてくれるのは、やっぱり美鈴さんだった。

 その日も、わたしは、母とちょっとした言いあいになり、ぷい、と家を出してしまった。その言いあいの内容も思い出せないから、大したことでなかったのはまちがいない。

 もちろん、どこへいくという当てもないわたしは、結局、公園のジャングルジムにのぼって、ゆっくりと明るさを失っていく空をぼんやり見ていた。

 突然、「なにやっとるんじゃ、アリ子」という声が下からした。

 見おろすと、コンビニの袋をぶらさげた美鈴さんがいて、にかっと笑っていた。

「アフリカを懐かしがってるチンパンジーかと思ったぞ」

「わたしのどこがチンパンジーなのよ!」

 わたしが、むっとしたまま答えると、美鈴さんは、「ジャングルにのぼりたがるのは、お猿さんと決まっとろうが」と言いながら、自分もジャングルジムに手をかけた。

 そのまま、アルミパイプの格子をひょいひょいとのぼって、ジムの上までたどりつくと、美鈴さんは「よっこらしょ」と言いながら、わたしの隣に腰かけた。

「よっこらしょ、っていうのは、オバサンなんだよ」

「ははは、いくらでも好きなこと抜かせ」

 かわいげのないわたしの言葉を、美鈴さんは、あっさり笑いとばした。

「ああ、なんか、ここっていいな」

 美鈴さんは、そう言って、大きく伸びをした。

「ジャングルジムってさ、なんか変な名前だよな。なんでこれが、ジャングルなんだよ、って思わないかい?」

 そんなこと、考えたこともなかったわたしは、「そうかなあ」とだけ答えた。

「だけどさ、こうしてると、ああ、そうか、って思うんだ。あたいたちのご先祖様は、まだジャングルにいたころ、木の上で、こんな風景を見てたんだな、って」

「ご先祖様の見てた風景。あっ、そうか……」

「子どもがジャングルジムにのぼりたがるわけが、なんとなくわかるなあ。ちょっとだけ懐かしいんだよ、この景色って」

 わたしは、さっき美鈴さんが言った「アフリカを懐かしがってるチンパンジー」という言葉を思い出し、また少しむっとした。

「この景色はさ、あたいたちのご先祖様がもっと自由で、もっと空に近い場所にいたころに、ずっと見ていた景色なんだよな……。そう思うと、なんとなく胸キュンな気分になっちまう」

「胸キュン?」

「ああ、なんかこう、切なくなるっていうかさ」

 そんなふうに言われると、今、目の前に広がっているなんでもない公園の景色が、ちょっとだけ、いつもとちがうものに思えてくるから不思議だ。

「アリ子、木のぼり男爵、って知ってるかい」

「ううん、知らない」

「あたいが大好きなお話の主人公さ。十二歳のときに、カタツムリ料理を食べたくない、って理由で木にのぼって、それから一生を木の上で暮らした男爵のお話なんだ」

「一生? ずっと木からおりなかったの?」

「ああ、そうさ」と、美鈴さんはうなずいた。

「ここにいると、そうか、男爵さんもこういう景色を見てたのか、って思うよ。男爵さんが、この景色といっしょになにを見つけたかったのかも、なんとなくわかる気がしてくる。あたいたちはさ、この世界にあたいたちを縛ってる約束から逃げることなんてできないし、鳥みたいに空を飛びまわれるわけでもない。それでも、やっぱりほしいんだよ。心が求めちまうんだ。この世界の重さから、少しだけ自由な場所、少しだけ空に近い場所をさ」

 美鈴さんは、澄んだ目で、公園を取りかこむ木々の、さらにもっと遠くを見つめていた。

 わたしが、そのときの美鈴さんの話をどれだけ理解できていたかというと、正直、まるで自信がない。わたしはただ、美鈴さんの話を聞きながら、そのきれいな横顔をずっと見ていたのだ。

 その美鈴さんが、急にわたしのほうを向いたので、どきっとしてしまった。

「なあんてね。なんか、詩人になっちまったけどさ」

 不意に吹く風が、美鈴さんの束ねた髪を、気持ちよさそうになびかせる。

「『あどけない話』っていう詩があるんだ。『智恵子は東京に空が無いという。ほんとの空が見たいという』……」

「あ、それ、聞いたことある」

「でも、これから話すのは、あどけない空の話、じゃなくて、くだらない空の話」

 美鈴さんは、きれいな飴色の光を放ちはじめた空へ、ふたたび視線を向けた。

「初めて福岡に出たときのことだよ。部屋さがしなんてしたこともなくてさ、とりあえず駅前の不動産屋にいったら、『〈格安・貸しアパート〉空あります』っていう張り紙があった。迷わずその店に飛びこんださ。『すいません! この空(そら)のあるアパート、紹介してください!』ってね」

 その瞬間のことを思い出すように、美鈴さんは笑った。

「お店の人は、ぽかんとして、そのあと大笑いだよ。あたいもすぐ、バカな勘違いに気づいたけどね。紹介してもらったそのアパートは、町はずれで、今にも崩れそうなぼろアパートだった。三畳一間、風呂なし。窓の向こうは町工場の外壁。そりゃ、安いはずさ。……でもさ、窓の近くにごろんと寝っ転がると、小さな四角い空が見えるんだ。あたいは、それだけで充分満足した。この空は、あたいだけの空だ、と思った。それからは、どこに引っ越しても、まず最初にそうやって、窓の外に空をさがすのが、あたいの癖になっちまった……」

 美鈴さんは、ゆっくりと天をあおいだ。

「おしまい。ま、あたいの空へのあこがれなんて、そんなもんだってことさ」

「ふうん……」

 わたしは、それ以上の言葉を美鈴さんに返すことができなかった。けれど、ぜったい忘れない空の色があるように、美鈴さんの話は、わたしの心の奥深くに残った。

「ああ、そうだ」

 美鈴さんが、突然、かかえていたコンビニの袋に手を入れ、がさがさしはじめた。

 美鈴さんが取りだしたのは、かなり大きめのサイズのカップアイスだった。

「え? アイス?」

 確か、秋もなかばを過ぎたころで、積極的にアイスを食べたくなるような季節じゃなかったのは、まちがいない。

「これさ、シロクマアイスっていうんだ」

 美鈴さんが、ふたをとったアイスを見せてくれた。カキ氷状のアイスの上にフルーツや小豆餡がカラフルにトッピングされている。カップアイスにしては、かなりゴージャスな感じだ。

「鹿児島じゃ、けっこうポピュラーなんだぜ。鹿児島で食べる本場のシロクマは、もっと豪快だけどさ。コンビニでこのカップ見つけたもんだから、ついつい買っちまったよ」

 そう言いながら、早くも、木のスプーンですくったアイスをほおばる美鈴さん。

「ううん、やっぱ、うまか~。ジャングルジムの上でシロクマってのが、またなんとも乙だよ」

「ジャングルにシロクマはいないよね」と、ついかわいくないことを言ってしまうわたし。でも美鈴さんは「シロクマだって、たまには木にのぼりたくなるさ」とまったく気にかける様子がない。

「なんたって、この練乳と果物とあんこのコンビネーションがいいんだよな」

「なんだか、ほんとに幸せそうだね、美鈴さん」

「おうよ。おいしいものは人を幸せにする、ってのは、天地開闢(かいびゃく)以来、永遠不変の大法則じゃからねえ」

「もう、いちいち大げさなんだから」

 そんなわたしの言葉など意に介せず、美鈴さんは、さらにもまして幸せそうな顔で、アイスを口に運び続けた。頭がキーンとならないのだろうか、と、わたしはよけいな心配をした。

「お、そうだ」美鈴さんが、袋からもうひとつアイスを取りだした。「どうだい、アリ子も」

 わたしは、ぶるっと身体を震わせ「ううん、今日はいいよ」とことわった。

「そうかい。じゃあ、もうあげないよ」

 カップを袋にもどしながら、美鈴さんが、突然にやっとする。

「ほらほら、今“ひと口くらいは食べてみたいな~”って気分になっただろ」

 そう言われて、ほんのちょっとドキッとしてしまうわたし。

「なにを隠そう、これを“シロクマ効果”と呼ぶのだぞよ」

「……どうせ、今テキトーに考えたんでしょ」

 わたしが軽く流すと、美鈴さんは「なにをぬかす、日本のアイス学会においてもっとも重要な定理だぞ」とまじめな顔で力説する。

 それから、ふっといつもの人なつこい笑顔に戻って、美鈴さんはたずねた。

「だいたいさ、アリ子は、こんな時間にこんなところで、なにをしてたんだい?」

「え? それは、その……」

 あの袋の中、もしかしてぜんぶシロクマアイスなのかな……なんてことを考えながら、つい気をゆるめていたところに、不意打ちを食らってまごつくわたし。そんなわたしを見て、明らかにおもしろがっている美鈴さん。うう……やられた……。

「どうやらまた、春花にこっぴどくしかられたみたいだね」

「また、ってことないよ」

「ああ、そうか。めんごめんご」

 あっけらかんと笑い、美鈴さんは、スプーンを持った手を、すっとわたしに向けた。

「で、結論から言わせてもらうと、この場合、アリ子がぜんぶ悪い」

「え? なんで? なんでわたしの話も聞かないで決めるの?」

 わたしの抗議を軽く聞き流し、美鈴さんは、涼しい顔で前髪をかきあげた。

「そんなの、そうに決まってるからだよ」

「ひどい! なによ! 美鈴さんは、結局お母さんの味方なんじゃない!」

 そうは言ってみたものの、美鈴さんの指摘が全面的に正しいことは自分でもわかっているので、それ以上の反論ができない。

「あたいは、どっちの味方でもないよ」

 美鈴さんが、やわらかな笑顔でわたしを見た。

「ま、春花はあのとおり、筋金入りのいっこっもんだからさ、あたいだって、“もう少し、丸くなってもいいんじゃねえの”と思うことはしょっちゅうだ」

「いっこっもん、って?」

「頑固一徹ってことさ」

 わたしは、その言葉に、そうそう、そうなんだよね、と強く同意した。

「お母さんは、融通がきかないんだよ。頭かたいし、いっつも一方的だし」

「お、融通なんて、難しい言葉覚えたんだな。ま、そういうアリ子も最近、どんどんプチ春花になってきてるからなあ。そりゃあ、たまにはぶつからないほうが不思議ってなもんさ」

「それって、わたしが、お母さんに似てきてるってこと?」

「なんだ、自覚ないのか」

「ううん……そうなのかな。わかんない」

「あはは、そんなに考えこまなくたっていいよ。母子なんだからさ、いろいろ似てくるのは、当たり前の話じゃが。ま、ふたりをまとめて相手にしなきゃいけないあたいの苦労も、五割増しくらいになってるけどな」

「なんなの、それ」

 むすっとしていたはずなのに、結局気がつくと、わたしは笑っていた。

「でもさ、美鈴さんって、いくらお母さんに怒られても、ぜんぜん平気っぽいよね」

「あたいにとっちゃ、春花の小言は、もう空気とおんなじだもん。柳に風で、右の耳から左の耳に抜けてくだけだからね。どうせおいらは底抜けバケツ、入れたつもりがスポンのポン、さ」

「なんなの? その底抜けバケツって」

 噴きだしてしまってから、わたしは、「あ、でも」と言った。

「空気とおんなじってことは、それがなきゃ、生きてけないってこと?」

「ああ、そうか。うん、そうかもしれない。悲しいかな、あたいはもう、春花の小言なしには生きられない人間になっちまったんだ」

 そういう美鈴さんの顔は、もちろん、ぜんぜん悲しそうじゃなかった。

「美鈴さんとお母さんは、高校生のときに会ったんだよね」

「なんだい、唐突に」

「高校時代の美鈴さんやお母さんって、どんな感じだったのかな」

 それは、ずっと長い間、いつか聞きたいと思ってきたことだった。

「そりゃあ、決まってるだろ。純情可憐な夢見る乙女ふたりさ」

「ほんとう?」

「おいおい、なんでそこで疑うんだよ」

 口もとの練乳を指でぬぐったあと、美鈴さんは、その指先についた練乳をぺろりとなめた。

「純情も純情。鹿児島特産ダイコン娘&イモ娘さ。その名も、さつまガールズ、ってね。どっちがダイコンでどっちがイモかは、この際、きかないように」

「うん……きかない」

「ま、これでも地元じゃ、バリバリのジゴロと呼ばれてたんだけどな」

「ジゴロ、ってなに?」

「おっと、アリ子に教えるには、まだちょっと早いな。だからって、ぜったいお母さんにきいたりしちゃダメだぞ」

 美鈴さんが、人差し指をわたしのくちびるに押しあてた。わたしは、「うん、わかった」とうなずいた。美鈴さんの指は、すごく甘い、いい香りがした。

「ま、あたいはともかくさ、少なくとも、あんたのお母さんは、掛け値なしにあのころからまじめ一方の優等生だったよ。地味な銀縁のメガネで、髪をきっちり三つ編みにしてさ。スカーフのかたちも、スカートの丈も、ソックスの折りかえし方も、ぜ~んぶ学校案内の見本どおり。とにかく、生まじめが服を着て校内を歩いてる、そんな子だった」

「ふうん……」

「で、その反対に、不まじめが服を歩いてるようなずんだれ女があたい」

「ずんだ……?」

「ずんだれ。だらしがない、しまりがない。まるで、あたいのためにあるような言葉だろ?」

 美鈴さんは、木のスプーンで自分を指し、ガハハ、と笑った。

「そういう意味じゃ、ほんと、ふたりともぜんぜん変わってないな。あんたのお母さんは、相変わらずバカみたいにくそまじめ。そんでもって、あたいは、相変わらずバカそのもの」

 肯定していいものかどうか、子ども心に躊躇しながら、わたしは言った。

「でも、ふたりは親友なんでしょ?」

「まあ、春花があたいをそう思ってくれてるかどうかは、わからないけどな」

「性格がぜんぜんちがうのに、友だちって、なんか、ちょっと不思議」

「うんにゃ、そうでもないぞ。醤油と醤油をあわせても、醤油にしかならんけど、みりんと醤油をあわせたら、みりん醤油になる。ちがうものがくっつくと、もっとおいしくなるんだ」

「なんか、よくわかんないよ」

「ううん……じゃあさ、プリンに醤油をかけるとウニの味になる、ってのは知ってるかい」

「なに、それ……気持ち悪いよ。ていうか、なんでいつも醤油なの?」

「そりゃ、さしすせそは料理の基本だろ? いや、そうじゃなくて、別にそんな深い意味なんてないんだけどさ……ううん」

 美鈴さんは、スプーンを口にくわえ、かりかりと頭をかいた。

「ちょっと難しい言葉だけど、合縁奇縁っての、知ってるかい?」

「あいえんきえん……? ううん、知らない」

「人と人が出会ったり友だちになったりするのを“縁”っていうんだ。この縁っていうのはさ、算数の計算みたいには答えが出ない、なんていうか、まか不思議なものだってこと」

「うーん……わかんない」

「だからさ、わからなくていいんだよ。まか不思議なんだから」

 結局、美鈴さんにうまくごまかされてしまった気がした。

「ねえ、美鈴さん」

「うん? なんだい」

「さっき、夢見る乙女だったって言ってたよね」

「おうよ。言った、言った」

「そのころの美鈴さんの夢って、どんなだった?」

「ううん……日替わりでいろんな夢見てたからなあ。なにしろ、夢ってのは、見る分にはタダだろ。あたいは、このタダっていうのに、めっちゃ弱いんだよ」

 美鈴さんは、最後までとっておいたらしきパインを、ぱくりと口に放った。

「ところで、そういうアリ子には、なんか夢があるのかい?」

 わたしは、「ううん」と首を振った。「まだぜんぜん考えたことない」

「なんだよ、アリ子くらいの歳の子は、お花屋さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、そんな夢があるもんじゃないのかい」

「それはもっと、小さな子どもだよ」

「ふうん……そうなのかね」とつぶやき、美鈴さんは、わたしを見た。

 小学校の高学年というのは、むしろ「そういう無邪気な夢からは、もう卒業しなさい」と周囲からせまられ、その代わりに、漠然と目の前に広がる「将来」というものに、それぞれが向きあいはじめる、そんな時期なのだ。

 当時のわたしは、ほんとうに、自分が将来なにをしたいのかなんて、まるでわからなかった。

 実を言えば、今もそうなのだけれど……。

 だから、ふと、美鈴さんに夢のことをきいてみたくなったのだ。

「夢がない子ってだめ?」

 わたしは、おずおずとたずねた。すると、美鈴さんは、からからと笑った。

「そんなこたあないさ。身体(からだ)の育ち方が、一人ひとりみんなちがうみたいに、夢の生まれ方とか育ち方だって、みんなちがうんだよ。あせる必要なんてないんだ。あたいも、中学生くらいまで、胸がつるぺたで心配してたけど、今じゃそれこそ、じゃまっけなくらいだからね。夢もおんなじだよ。ふくらむときは、たのまなくても勝手にふくらんじまうもんさ」

 夢と胸の関係は、なんだかよくわからなかったけれど、美鈴さんの言葉は、少しだけわたしをほっとさせてくれた。

「だいたい、しょうもない夢ばっかり節操もなく見てると、あたいみたいに、ろくでもない人間になっちまうからね。なはははは」

 美鈴さんにつられて、わたしも笑った。

「じゃあさ、あたいが、アリ子くらいの子どもだったころの夢、知りたいかい?」

 わたしは、「うん」とうなずく。

「あたいの夢はね、フーテンの寅さんになることだったんだよ」

「フーテンの寅さん? 映画の?」

 そのころわたしは、『男はつらいよ』という映画を、まだ実際に観たことがなかった。それでも、「フーテンの寅さん」という主人公の名前くらいは、聞き覚えで知っていた。

「そう。姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します――なあんてね。あたいにとって、寅さんとスナフキンと一休さんは、心の師匠、永遠不滅の三大ヒーローなのさ」

 わたしは、「なんだか、変な組みあわせだなあ」と、心の中で思った。

「江戸っ子は、五月(さつき)の鯉の吹流し、口先ばかりでハラワタはなし、って知ってるかい」

「ううん。どういう意味?」

「江戸っ子は、口は悪くっても、腹の中には、きれいさっぱりなんにもない、ってことだよ。そういうのっていいだろ? あたいも、そういうふうに生きたいのさ。江戸っ子じゃないけどね」

 美鈴さんは充分そのとおりに生きてるよ――そう言ってあげたくなった。

「だけどさ、口先だけで中身がなんにもない、って意味もあるらしいんだよな、この言葉」

 美鈴さんは、けらけらと楽しそうな笑い声を空に響かせた。

「けっこう毛だらけ猫灰だらけ、お尻のまわりは糞だらけ。たいしたもんだよカエルのションベン、見あげたもんだよ屋根屋のふんどし、粋なねえちゃん立ちションベンとくらあ」

「なにそれ。きったなぁい」

「これはね、啖呵売(たんかばい)っていうんだよ」

「タンカバイ?」

「そうバイ。なあんてね。情に訴えてホロリと泣き落とす“泣き売”なんてのもあるけどね。啖呵売っていうのは、香具師(やし)の口上をつかった商法のことさ。ほかにもいっぱいあるんだぞ」

 ヤシ? 工場? 頭の中に、ヤシの木の茂った工場が浮かぶ。その工場では、タンカバイという不思議なものが次々につくられている。

「タンカバイって、もしかして、なにかの機械なの?」

「機械?」

 一瞬、きょとんとした美鈴さんの顔が、うれしそうにほころぶ。

「ああ、うん、そうだよ。空から天使を呼ぶための機械――空と、この世界とを結ぶ機械さ」

「天使を呼ぶ機械……」

 その不思議な言葉の響きは、わたしの心にゆっくり広がり、やがて静かにとけていった。

「さて、と」

 少し腰を浮かせて、美鈴さんがわたしを見た。

「もうすぐ日が暮れるぞ。このままここで、木のぼり男爵二世を続けるつもりじゃないだろ」

 わたしは、ふるふると首を振った。

「だったら、いいけどな。いつまでもこんなところでボケラ~っとしてると、風邪引いて、それこそ春花に大目玉を食らうぞ」

「そのわたしに、アイスを食べろ、って勧めたのはだれなのよ……」

「あ! そうか! いけね!」

 突然その場で立ちあがろうとした美鈴さんを、わたしはあわててその場に押さえた。

「危ないよ! ここ、ジャングルジムの上だよ!」

「ああ、そうだった。サンキュ、アリ子」

「ね、どうしたの?」

「考えてみたら、このシロクマアイス、春花へのまいないのつもりで買ったんだ。そのことを今の今まで忘れてたんだよ」

「まいない?」

「貢ぎ物、ってこと。春花も、このシロクマに目がないんだ。で、コンビニでこのアイスを発見してさ、よっしゃ、これでひとつ春花様のご機嫌とりをしよう、ってなことを思ったわけよ」

 アイスでご機嫌とり……なんか、せこい……。

 のぼってきたときと同じように、美鈴さんは、アルミパイプの格子をひょいひょい伝って、あっという間に地面に降り立った。

「じゃあ、先にアリ子ん家にいって、バッチリ春花の機嫌をよくしとくからさ。アリ子も、気が済んだらさっさともどってきて、お母さんに謝っちまいな」

 手を振りながら公園を走り去っていく美鈴さんに、わたしも手を振りかえした。

 なんで母と言いあいになったのか、その時点で、もう忘れていたような気がする。


 そのあとのことを、かいつまんで。

 家に帰ると、食堂のテーブルで母と美鈴さんが談笑していた。二人の前には、当然のようにシロクマアイスのカップがあった(美鈴さん、さっき丸々一個食べたばかりなのに……)。

「よお、どこいってたんだよ。あ、アリ子の分のアイスもちゃんと冷凍庫にあるぞ」

 白々しいことを言ったあとで、美鈴さんは、母には気づかれないよう、さりげなく親指を立てた。どうやら、ご機嫌とり作戦成功、の合図らしかった。

 意を決し、母の前に立って「お母さん、ごめんなさい」と頭をさげると、「わたしも悪かったわ。大人気(おとなげ)なかった」とあっさり返されたので、驚くというより拍子抜けしてしまった。

 母は、美鈴さんがいるくらいで、わたしへの態度を変えるほど甘い人ではない。その母が、自分も悪かった、と言ってくれるなんて……ただただ、シロクマのなごみ効果恐るべし、だった。

 ちなみにそのとき、美鈴さんが、にやにやしながら、ふたりのやりとりを観察していたのは、言うまでもない。

 それからしばらくの間、わたしは「木のぼり男爵」の話が気になって、そういう絵本や童話がないか、図書館の児童図書コーナーをさがしたのだけれど、見つけることができなかった。

 それと、何年かして、初めてテレビで『男はつらいよ』(寅さんが、九州・大分の温泉街で恋の指南役になるという話だった)を観ることができた。寅さんが、ほんとうに「粋なねえちゃん――」とか言っていたので、びっくりしてしまった。

 その映画を観ながら、わたしは、寅さんと妹のさくらさんの関係が、なんとなく美鈴さんと母の関係に似ているなあ、なんてことを、ふと思ってしまったのだった。

 そうそう、もうひとつ、忘れていた。あの日、美鈴さんが帰ったあと、結局わたしは、ひとつだけ母にきいてしまったのだ。「ねえ、ジゴロってなに?」と。

 とたんに、母の血相が変わった。

「あんた、いったいどこでそんな言葉覚えたの!?」

 けれども、そう言ったあとで、なにかに気づいたように、母の口もとがふっとゆるんだ。

「ははあん、美鈴だね、あんたにその言葉教えたの」

「……うん」

 わたしは、例によってあっさりと白状した。

「美鈴さん、高校生のころはジゴロと呼ばれてたって」

 母は、しわの寄った眉間に指を当て、「しょうがないわねえ。あの子は」とため息をついた。

「この子に変な言葉を教えないで、って、あれほど口をすっぱくして言ってるのに……」

 それから母は、腰をかがめ、わたしの目を見ながら言った。

「あのね、ジゴロっていうのはね、鹿児島で“いなかもの”っていう意味の言葉なの。でも、いい? こんな言葉、ぜんぜん覚える必要はないんだからね」

 でも、困ったことに、このジゴロという言葉は、今もわたしの中の辞書の登録にきっちりインプットされたままになっている。そして、ドラマや小説で「あいつはジゴロなのさ」なんてせりふが出てくると、つい、にやにや笑ってしまうのである。

 それと――駐車場の看板に「空あります」と書いてあったりすると、ついつい空を見あげてしまう、そんな癖がついてしまったのも、思えば、このときからだった。

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