第54話 その笑顔は見惚れるほどに

 声が聞こえる。心に響く、声。


 この声が聞きたかった。この声を聞きたくて、ずっと魂を彷徨わせていたのだ。


 ゆっくりと瞼を開ける。ぼんやりと女の顔が現れる。女は、皮肉げに釣り上がった目を、赤く腫らせていた。


「朝斗!」


 女、夕奈はポロポロと涙を流しながら、僕の幼い手を握りしめる。


「目が覚めたんだね! ああ、良かった!」

「ここ、は?」

「病院のICUだよ。君は、『螺旋の会』の拠点から、緊急搬送されたんだ」


 そう言われてみて、見上げる。見知らぬ天井。だが、『螺旋の会』のアジトと違い、不気味さは全く感じられない。落ち着いた明るさを持つ白色の天井だ。そこでようやく自分の身体が、清潔そうなベッドの上に寝かされていることに気付いた。


 父さんとの対峙から、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 ろくに睡眠を取っていないのか、夕奈の顔は少しやつれている。だが、疲れよりも安堵が勝っているようだ。


「まったく、心配したんだよ!」

「怒っているのか?」


 聞き返すと、夕奈は細く整えられた眉をしかめた。身をベッドの上に乗り出し、僕の両頬をつねる。髪飾りの銀猫も、自分の子どもに叱るかのように、目を尖らせていた。


「当然だよ! お父さんを相手に大立ち回りをやらかしたんだって? 由香ちゃんから全て聞いたよ。どうしてそんな無茶をしたんだい!」

「あれは、あの状況では、ああするしかなかったんだ」

「だからって、相手を挑発するようなことを言うかい、普通。まったく、君は昔から大人しいくせに、変なところで意地を張るんだから」


 くどくどと説教をする夕奈。それを聞きながら、今更ながら後悔する。また、夕奈を置いて死んでしまうところだった。何よりも、こいつから月夜という生き甲斐を奪ってはいけない。


「父さんはどうなった?」

「無事に逮捕されたよ。それから、守岡誠もね。彼は、暴れることも逃げることもせず、警察に投降したそうだ」


 良かった。これ以上、被害が出ることはなくなったわけだ。と、別の人間が顔を出して来る。母さんだ。こちらも、かなり憔悴しているようだった。


「夕奈。月夜が目を覚ましたの?」

「母さん?」


 言ってから、「しまった」と焦る。間違えて「母さん」と呼んでしまった。だが、当の母さんは気にした様子を見せない。心配げな顔を僕に近づけると、いつものように頬と頬を擦り合わせて来る。


「月夜月夜月夜月夜月夜月夜ぉぉぉっ!」

「あ痛たたたぁっ!」


 右腕の銃創が、突き刺すように痛む。鋭い電撃が右腕から脳まで走ってきて、目から火花が飛び散りそうだ。それを見て、夕奈が苦笑を洩らした。


「お母さん、その辺りで抑えて。朝斗が痛がっているよ」

「ああっ、ご、ごめんなさい」


 溢れる涙でベッドを濡らしながら、母さんはどうにか僕から離れる。だが僕は、痛みをこらえるどころではなかった。

 何しろ夕奈は今、爆弾発言を口走ってしまったのだから。


「おい、夕奈。僕が『朝斗』だってこと」

「うん。全て、話したよ」


 夕奈は頷き、傍らの母さんに対して、信頼と感謝の込められた視線を向ける。母さんは思いつめた表情で僕と目を合わせた。


「あなたが『朝斗』だってことを、あの新興宗教のアジトであなたから聞いて……戻ってから、夕奈から事情を全部聞いたわ」

「……」

「正直言って、とても驚いたわ。それでもね、私にとっては、あなたは可愛い孫なのよ。今は息子でもありながらね」


 母さんは、幼い顔に泣き笑いを浮かべた。それを見て、僕は母さんを侮っていたのだと気付かされる。母さんには、もっと早くに僕が「朝斗」だと明かすべきだったのだ。母さんなら、今のようにきちんと受け止めてくれたはずだった。


「さあ、看護士さんに、朝斗が起きたことを報告しに行ってくるね」

「あ、夕奈」


 ICUを出て行こうとする夕奈を、僕は呼び止めた。夕奈は小首を傾げながら、こちらを振り向く。


「うん? 何だい」

「あの後、僕を追って来てくれたんだな」


 あの後、とは僕らが誘拐されてから、という意味だ。


「当然さ。たとえ世界中のどこにいたとしても、ボク達はお互いの居場所が分かるんだよ」


 夕奈は優しく微笑む。こう言っては何だが……木漏れ日のように美しかった。

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