愛される幼子

第34話 愛情の結晶とは

 妙にぎこちない空気のまま、マンションの自宅へ着く。このマンションは十四年前にも訪れたことがあるが、改めて見ると記憶に比べて外壁の染みが増えていた。

 自宅の玄関には今朝から変わらず、悪意が塗りたくられた紙が貼られている。夕奈はそれらを無視し、玄関のカギを開けた。

 それから、隣に立つ僕の背中を軽く押す。


「ただいま。ほら、朝斗も。『ただいま』って言いなさい」

「た、ただいま」


 何とも慣れない。月夜の人格が復活すれば、こんな違和感から解放されるのだろうか。


「この暑さのせいで、ケーキが傷んでいないか心配だなぁ」


 夕奈はケーキを台所の冷蔵庫に入れると、スーツの上着を脱ぐ。その代わりに、真っ白なエプロンを身につけた。ただそれだけのことなのに、とても清潔感があるように見えるのは、本人に備わっている雰囲気のおかげだろうか。


「すぐにお昼ごはんを作るからね」


 そう言い置いて、夕奈は冷蔵庫を開ける。今ある食材から、献立を考えているのだろう。すっかり母親が板についているようだ。


 一方の僕は手持無沙汰になり、とりあえず居間のソファに腰掛けた。すると、テレビのすぐ隣の壁に飾られた、一枚の画用紙の存在に気付く。クレヨンで描かれた絵だ。きっと、月夜が描いた作品なのだろう。


 その絵には、二人の女性が描かれていた。共に笑顔を浮かべ、並び立っている。幼児の作品らしく、技術的には拙い。だが、それを補って余りあるほどの、深い愛情が込められているのを感じ取れた。


「これは、夕奈と母さんを描いた絵か?」


 夕奈の話によると、この家で母さんを含めて三人で暮らしているらしい。月夜が家族をテーマにして絵を描くのは、自然なことだろう。月夜が二人のことを大好きなのだと伝わってくる絵だ。


 その絵から視線を離すと、部屋の隅に置かれた段ボール箱が目に入った。黒のマジックで側面に「おもちゃばこ」と書いたのは、おそらく夕奈だろう。

 何となく気になり、箱の前に立って中を漁る。出てきたのは、積み木や飛行機の玩具、世界中で人気の某クマのぬいぐるみなど。これは偏見だが、男の子ならヒーローものの人形の一つや二つ、愛用していそうなのだが。夕奈が買い与えていないのか、あるいは単に月夜が好まないからか。


 そうして僕は、自分の息子のことを何も知らないのだ、と改めて気づかされる。

 今日、この身体の主導権を握ってしまったばかりなので、当然ではある。それに、息子であるという自覚など、まだない。だが、このまま無知のままでいても、親としての情が勝手に湧いてくるわけでもないだろう。


 ならば、まずは知ろうと努力をすべきだ。


「なあ、夕奈。月夜の写真ってあるか」

「おやおや、月夜の成長記録が知りたいのかい。いいよ、ちょっと待っててね」


 昼食の準備に取り掛かろうとしていた夕奈は、意外そうな顔をしながら、寝室へと入って行く。再び台所へ帰って来ると、その手に淡い黄緑色の表紙のアルバムを持っていた。


「ほら、これが月夜の写真だよ」


 夕奈は笑顔でアルバムを僕に手渡すと、調理に戻った。僕は隣の居間のソファに座り、アルバムを開く。


 アルバムは、まだ生まれたばかりの赤子の写真から始まっていた。分娩室で撮ったものなのか、ほんの小さな新生児が産声をあげている姿が写っている。これが、僕の息子。どうもまだ現実感がないが、真実なのだ。認めるほかない。

 ページをめくっていくに従い、写真の中の赤子は次第に成長していった。髪の毛も増え、身体も大きくなる。つり上がった目は、父と母のどちらに似たのか。さらにページを重ねると、月夜が居間を這っている様子が写っていた。そのすぐ下には、「はじめての這い這い記念」という文が添えられている。


 写真の中の月夜は、遠慮がちに微笑んだり、涙ぐんだり。この子の控えめな性格が窺える。一緒に写る夕奈や母さんの表情は、本当に嬉しそうだ。ささやかではあるが、あたたかい家庭がアルバムの中にあった。


(彼女が再び笑うことができるようになったのは、あなた。つまり、『月夜君』を産んでからのことなんです)


 研究室で聞いた長瀬の言葉が蘇った。隣の台所へ行って、包丁を片手に調理している夕奈に問いかける。


「月夜はお前のこと、好きか?」

「母親としては、好きでいてほしいね。家にいる間は、ほとんどボクの傍から離れようとしないよ。『おかーさん』って舌足らずな声で呼びながら、遠慮がちにボクのズボンを握る。それが、たまらなく愛おしくてね。このまま素直に育ってほしいと祈っている。『父親』に似て、自分の言いたいことを満足に言えず、引っ込み思案なところがあるのが、悩みの種なんだけどね」

「嫌味か、それは」

「いやいや、そんなつもりは全然ないよ」


 楽しそうに息子のことを語る夕奈。その様子は、大切な宝物を胸に抱いているようにも見える。十四年前にはなかった、母の顔だ。

「本当に、朝斗にも月夜に会ってあげてほしいんだ。あの子は、ずっと君に会いたがっていたから」

「夕奈」


 すると夕奈はネギを切り刻む手を止め、声のトーンを一段階落とす。


「月夜……ボクも、早く会いたいよ」


 夕奈の表情から、明るさが剥がれ落ちる。その奥から出てきた表情は、行方不明になった子どもの帰りを不安げに待つ、母親そのものだった。外ではどんなに気丈に振舞っていても、我が家で息子の話題を持ち出すと、さすがに本音が出てしまうようだ。


 それを見た僕は、自分の愚かさをようやく自覚する。今朝起きてからずっと、夕奈や世界の変化に触れ、月日の流れに対して戸惑ってばかりいた。


 だが、この事態に誰よりも焦っているのは、僕ではなく夕奈だ。十四年も夕奈を放っておきながら、今更のこのこと現れてさらに悲しませている。あのケーキも本当なら、夕奈は月夜本人を祝うために買ってきたものだから。一刻も早くこの身体の主導権を、月夜に返すべきなのだ。


 月夜。会ったことのない、僕の息子。その子のことを知るためにも、夕奈が背負った悲しみを知るためにも――僕は無神経と知りつつ、あえて今朝と同じ質問をする必要がある。


「どうして人工授精してまで、僕との子を産もうと思ったんだ? お前なら、他にいい男を見つけることもできただろうに」


 そう言うとしばらくの間、ぎこちない沈黙がキッチンを包んだ。それから夕奈は、包丁をまな板の上に置きながら、ポツリと漏らす。


「……朝斗よりも、いい男の人なんていないよ」

「そんなことはない。お前は、僕のことなんて忘れて、楽になってよかったんだ」


 夕奈は華があり、高校に入ってからは多くの男子から好意を寄せられていた。父さんの一件のせいで、多くの人が夕奈を冷たい目で見ているのは、確かだ。離れていった男は数多いだろう。それでも、夕奈のことを一人の女として愛する男だっていたはず。それなのにどうして、十四年も僕のことを引きずり、僕の子を産んだのだろうか。けっして明るい道ではないことは、分かり切っているのに。


「さっき同じ質問があったとき、ボクは言ったよね? 『未練だ』って。そう、未練なんだ。ボクは、朝斗のへの想いを捨て切れず、未練を引きずって生きていた。朝斗に会いたかった。それなのに、いくら『魂の絆』を頼りに探しても、朝斗は見つからない。そうこうしているうちに、朝斗との思い出は過去となっていく。忘れたくないのに、記憶が風化してしまう。朝斗との絆が消えてしまう。それだけは嫌だって泣いて……それで、思ったんだ。『朝斗の子を産めば、朝斗との絆を繋ぎとめられるんじゃないか』って」


 蛇口を捻り、手を洗う夕奈。勢いよく流れ出る水が、シンクの排水口へと注がれていく。


「そんなバカなこと……」


 夕奈の狂気にも等しい話に対して、僕は耳を疑わずにはいられなかった。

 その話が本当なら、月夜は「朝斗」の代用品として、この世に生まれて来たことになる。夕奈は月夜ではなく、「朝斗」の影を見ながら育てていたのか。それでは、月夜があまりに不憫だ。そう言いそうになるが、夕奈が話を続けようと口を開いたため、僕は仕方なく引きさがる。


「さっそく朝斗の精子を人工授精してくれるよう、お母さんにお願いした。もちろん、お母さんは反対したよ。死んだ人間の、しかも実の兄の子を産むなんて、普通なら考えられないことだからね。それでもボクはひたすら頼み込んだ。今思うと、あのころのボクは狂っていたんだろう。何年もひたすら頭を下げて。六年前、とうとうお母さんは折れてくれた」


 母さんも、本当なら嫌だっただろう。娘が選んだのは、茨の道だ。けっして、光の当たる選択ではない。


(ボクは、エゴイストだ)


 昔、夕奈がそう自己分析していたのを思い出す。

 かつて僕達が通っていた高校のクラスメイト達は、僕達兄妹の距離感を「気持ち悪い」と評していた。「鏡に写った自分を見つめ、外の世界に目を向けない自己愛」とも言っていた。


 近親相姦は、禁じられた甘い罪。

 近親間の子を孕むことは、さらに穢れた罪。


 大多数の人間が、それらを当然だと信じて疑わない。それは、十四年経った今でも、変わらない戒律であるはずだ。


 兄妹を異性として見ることは、突き詰めていけば所詮エゴに過ぎない――ということなのか。そのエゴを、夕奈はずっと胸の中で溜めこんでいた。


 苦しくて、辛くて。それでも、自分を欺くことができなかったのだろう。


 こちらに振り向いた夕奈は、自虐的な笑みを浮かべた。


「醜いだろう? 過去にいつまでも縛られ、挙句の果てに禁忌を犯す。どうしようもない女だと、自分でもつくづく思うよ。ボクの勝手な妄執のせいで、お母さんにも負担をかけた。ボクはどこまでも、自分のことしか考えていなかったんだ。自分の犯した過ちが、周りの人にどれだけ迷惑をかけるか、想像すらもしていなかった。結婚をせずに一人で子どもを産むことの重大さも、まるで分かっていなかった」

「だが、それは」


 どうにかして言葉を探そうとするが、見つからない。


 夕奈は、僕に罵倒されることを覚悟している。軽蔑の眼差しを送られることも、物をぶつけられることも、全て承知の上でこの話をしているはずだ。


 大事なところで言い淀む僕を見下ろしながら、夕奈は自分の胸に手を置く。


「でもね、驚いたのはその後のことだった。人工授精が成功して、ボクの胎内に新しい命が宿ったとき。お腹の中から『魂の絆』を感じたんだ。朝斗から感じていた、あの『糸』を。さすがに、そこまでは全くの予想外だった」

「え、『糸』をか?」

「うん。君だって、今も感じているだろう?」


 思わず訝しがる僕に対し、夕奈は切れ長の瞳から真剣な眼差しを送ってくる。


 そういえば、今朝目覚めたときは状況が理解できていなかったから、『糸』を感じることを別に不思議だとは思わなかった。だがまさか、僕の遺伝子を受け継いだ子が、僕の『糸』まで引き継いで生まれ変わるとは……こんなことがあり得るものなのか。そう思いかけ、ふと思い出す。確か、守岡信太も『糸』を持っていたはずだ。僕は何度生まれ変わり、誰になろうとも、この『糸』をなくさないのか。


「お腹の中で胎児が成長するにつれ、その繋がりの『糸』の反応が強くなっていった。朝斗ではないけれど、魂で繋がっている我が子。つまり、朝斗の生まれ変わりということになる。そのことに気付くと、最初は嬉しかったよ。また朝斗に会えるって、本気で思っていた。でも、あの子がボクのお腹を遠慮がちに蹴るたびに、『お母さん、僕はお父さんじゃないよ』って訴えかけているように感じた。次第に、もしかしてボクは間違っているんじゃないか、という不安に襲われるようになった」

「……」

「やがて月日を経て生まれて来た月夜に触れたとき、その温もりを感じて『この子が生きているんだ』って強く実感した。ボクが抱いているのは、ボクの思い出の中にいる朝斗じゃない。現実で健気に息をする我が子なんだ……そう思ったら、涙を堪えられなかった。昔、君に言ったことがあるよね。『人が前世の記憶を忘れて生まれ変わるのは、新しい心で生きるためだ』って。息子が記憶と人格を真っ白にして生まれ変わったのに、君に説教をした張本人のボクが、誰よりも過去にしがみ付いていた。月夜をこの手で抱くことで、ようやくボクは、自分の過ちを認めることができたんだ。本当に遅かった」


 後悔を絞り出すように、夕奈は声を震わせる。


 女性は自分のお腹を痛めて、子を産む。その痛みと妊娠中の年月が、子への愛を育むのだという話を聞いたことがある。もしもそれが当てはまるなら、夕奈にとって胎児の月夜との間にあった『魂の絆』は、へその緒のように感じられたのかもしれない。


「腕の中で産声をあげる我が子は、本当に小さくて儚くて……生命を授かるのは、こんなにも尊いことなんだ、って教えられたよ。そして、月夜が本当に愛おしく感じられた。みっともなく涙を流しながら、この子に生涯愛情を注ぎ続けようって誓ったんだ。その決心には、贖罪の意味もある。でも何よりも一番の理由は、この我が子のためなら自分の命なんて惜しくない。そう本気で思うようになったからなんだよ」


 贖罪。研究室での長瀬の話を思い出した。夕奈は重い業を背負っている。己の自己中心的な行いを責め続けてきたのだ。だが、そんなこいつに対して僕が糾弾の言葉を浴びせる資格などない。僕は、こいつの脆く儚い心を守れず、十四年もの間放っていたのだから。


 夕奈は、こちらの目の前にしゃがむ。その黒曜石の瞳を涙で濡らしながら、僕をぎゅっと抱きしめた。その表情には、ケーキを買ったり、長瀬と話していたりしたときの、芝居がかった明るさは微塵もなかった。外に出ていたときの顔は、自分を奮い立たせるための仮面に過ぎない。こいつなりの精一杯の虚勢。それは、昔も今も変わらないようだった。


 僕の目の前にいる泣き虫な女こそが、夕奈の本当の素顔なのだ。


「確かに月夜は、ボクと朝斗が普通に愛し合って生まれた結晶じゃない。でもあの子はこの世でただ一人、かけがえのないボクと朝斗の子。……月夜を産もうと決心したときに、朝斗の代用として見ようとしていたのは、事実だよ。だけど、それは朝斗と月夜の二人に対して失礼だって気付いた。月夜が産まれてから、ボクはそういう目で見たことは一度もないよ。こんなダメな母親だけど、あの子を守りたい」

「だから月夜の中にある、僕の人格を封じていたんだな」

「……ごめん。それはそれで、朝斗に対して失礼だってことも承知しているよ」


 今の夕奈なら、月夜の前世の記憶を、故意に思い出させることもできたはずだ。それをしないのが、こいつが月夜のことを死んだ兄ではなく、息子として見ている証拠なのだろう。そう思うと、同時に罪悪感が肩に圧し掛かって来る。


「僕の方こそ、すまん。僕が表に出てきたせいで、お前達親子に迷惑をかけている。僕はもう、自分のせいで誰かに不幸になってほしくない。実の息子であるのなら、尚更だ」


 僕なんかのせいで、現世を生きる月夜が眠ってしまった。本来なら母親と一緒に、楽しい毎日を送っていられるはずなのに。このままでは、月夜の人生がメチャクチャになってしまう。


 僕の言葉に対して、何を思ったのだろうか。夕奈は僕を抱く腕をゆるりと解く。そのまま、顔を僕と同じ目線に合わせた。


「月夜が通っている保育園で行事があると、他の保護者達の中に父親が混じっているんだ。父と母に囲まれて、嬉しそうにしている園児達。それを、月夜は寂しそうに眺めていた。ボクが心配して声をかけると、ぎこちない笑顔で『なんでもないよ、おかーさん』って言うんだ。それを見るたびに、ボクは自分の浅はかさを呪いたくなる」


 自身の誕生の経緯について、まだ幼い月夜には理解できないだろう。だが、いつかは知るときがやって来る。月夜は、真実を受け止めることができるだろうか。あるいは、母を恨むかもしれない。そのときには同時に、父親である僕のことも憎むだろう。


「ボクのせいで、辛い思いばかりさせて。本当に、本当にごめんね、月夜……」


 夕奈は嗚咽を漏らしながら、僕の後ろ髪をそっと撫でる。その指はわずかに震えていた。僕を通し、月夜に対して言葉をかけているのだろう。流した涙は、月夜の誕生理由に対する負い目だけが原因ではない。何よりも己の母としての未熟さが、夕奈を苦しませているのだ――それくらいは、愚鈍な僕でも察することができた。

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