第25話 去る者、来たる者
「暑い……」
並木はビニール張りの畳の上にアグラをかいて、汗を拭き拭き、他のスタッフ兼キャストと慣れない針仕事をしていた。
縫っているのは、
本来なら
ところが、全員キャストの素舞台芝居という演出になってしまったために、背景幕を覆う
だが、五十鈴はこれも使うことにした。波を演じる役者の後ろに、波布を操る役者を配置するのだ。
こうすることで、観客は舞台で起こっていることが、あくまでも作りごとだということを見せつけられるのだという。
それが本当にその通りか、並木には分からない。ただ、自信たっぷりに言い切る五十鈴が頼もしく見えた。
「センパイ、ちょっと休みましょう」
いきなり頬に冷たいペットボトルを押し付けられる。
「悪い、沙……」
振り向くと、そこには五十鈴がいた。
「悪かったね、私で」
皮肉っぽく笑いの奥には、例の「部内恋愛禁止」が透けて見える。
沙はというと、部室の隅でせっせと針金を編んで、王妃ガートルードが最期に口をつける、毒の入った盃を作っていた。
部室が開いた以上、わざわざ自宅で作った物を持参しなければならない理由はない。
オフィーリアの棺、墓掘りのスコップ、ハムレットの持つ本……。
地区大会までせいぜい2週間とちょっとしか残されていない今、小道具と衣装の準備のためにできることは人海戦術しかなかった。
「済まんな、急ごしらえになる」
「いいよ、これでOK……そうでなくちゃいけないのよね、今回は」
そう言うと、部室の中を見渡す。
「肝心なのは、頑丈に、安全に作ること……頼むね、部長」
そこへやってきた者があった。
「久しぶり、翁さん」
他の誰よりも先に沙の名前を口にしたのは、笠置誠だった。
続いて、並木に向き直る。
「話があるんだけど」
ムキになったのは五十鈴である。
「私には一言ないわけ?」
「勝手ながら、今日で演劇部をやめさせていただきます」
間髪入れず慇懃に答える笠置に、素っ頓狂な声を上げたのは五十鈴だけではない。
「はア?」
この部室にいる者全員が唖然とする中、笠置は背中を向けて帰ろうとする。さすがに、並木は止めた。
「おい、それで終わりかよ」
「用件はそれだけだから」
再び沙に向かって、無駄に明るい笑顔を向ける。
「じゃあ、頑張って」
沙はというと、返事もしない。黙々と針金を押し曲げて、毒杯の形を整えている。
笠置は溜息をついた。
「……冷たいね」
「別に、付き合ってたわけでも何でもないから」
ようやく口を開いた沙が、作業の手を止めて向き直った。
「嫌だって言う人を引き留めるつもりは、私にもないんだ。よくあることだし、こういうのって。だから、どうしてって聞くつもりもないし、もちろん、責める気もないよ」
返す言葉もない笠置だけでなく、部室の中にいる誰もが黙り込んでいた。もちろん、並木も何を言っていいのか分からない。
だが、誰がご注進に及んだのか、ステージにいたキャストたちがものすごい勢いで怒鳴り込んで来た。
真っ先に掴みかかったのは、美浪だった。
「どういうことだ笠置いいいい!」
両脇から止めに入った比嘉と苗木が、両腕の一振りで畳の上に薙ぎ倒される。とばっちりもいいところだった。
部室内は暑いので、顧問に頼んで会議室のカギを借りた。顧問はどうした風の吹き回しか、冷房使用の許可まで学校に取っていた。
おかげで、冷静に話ができる。
部室の中では沙を除く部員たちが、笠置に轟轟の非難を浴びせていた。だが、今では落ち着いて席に着き、足を組んだり片肘や頬杖をついたり、思い思いの横着な姿勢で、いちばん奥の席に立たされた笠置の釈明を聞いていた。
「今回のテストで、成績が下がったんだ……進路決定前の最後のテストで」
そこからくだくだと長い言い訳が始まったが、要約すると、受験勉強に専念したいということだった。
話が終わって、会議室中に溜息が漏れた。しばしの沈黙の後、五十鈴が口を開いた。
「要するに、地区大会出る余裕もなくしたわけね」
笠置は、哀しげに口元を歪めた。
「県大会行かないつもりなら、考えてもいいけど?」
五十鈴が言葉に詰まった。気持ちは分かる。演出としては舞台に上がってほしいが、地区大会どまりでいいとは言えない。
人を自己撞着に陥らせる、狡猾な罠だった。この辺り、笠置は決してバカではない。
その思いを口にしたのは、2年の相模だった。
「笠置さん、頭いいじゃないですか。聞きましたよ、こないだの模試、志望校A判定だったって」
再び、会議室が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。そこには、笠置への非難の底に潜む嫉妬までもが感じられる。
沙の言葉を借りれば、「緑の目をした怪物」は、笠置だけではないということだろう。
だが、当の本人はそんなことを気にする余裕もない。
「だから何だっていうんだよ!」
普段の冷めた態度からは考えられないような咆哮が、会議室を揺るがした。さっきまで騒ぎ立てていた、演劇部員一同が静まり変える。
その顔と言う顔を見渡したうえで、笠置は重々しい口調で言った。
「合否判定信じていいのは、全国トップのヤツだけだ」
「それって、これのこと?」
沙が笠置のカバンの中から、分厚い冊子を取り出した。
「ちょっと、あの……」
さっきまで強気でいたのが腰砕けになったのには、ちょっとズキっときた。やはり、笠置も沙に好意を持っているらしい。
もっとも、沙のほうはそんなことを気にした風もない。パラパラとページをめくる。
「いや、私もこういうのもらったんだけど、何なのかよく分からなくて」
奈々枝が、ちょっと見せて、とページを覗き込んでくる。
「あ……でも、笠置先輩の名前も載ってるじゃないですか」
「100位ぐらいのところにな」
努めて平静を装いはするが、どこか得意げにも見える。
同じように沙に寄り添う陽花里はというと、ランキング上位を目で追っているようだった。
「え~と、全国トップは、と」
そんなことが分かったところで、どうなるわけでもない。苗木は立ち上がって、話の軌道修正を図ることにした。
「あのさあ、今は……」
確かに地区大会を目前にしている。1分1秒でも惜しい。追い詰められた笠置が、今日明日の間に復帰の決断をするはずがない。
とにかく、ここで可能なことを全てやっておこうと思ったとき、模試データの冊子をちらりと見た佐伯幸恵が、一言つぶやいた。
「オキナイサゴ」
部屋中が再び静まり返ったところで、その名の主の一言が全てを決めた。
「あ……」
ものも言わずに笠置が逃げ去った後の会議室には、異様な空気が漂っていた。
誰のものともしれない囁き合いが、ひそひそと聞こえる。
「そりゃまあ……な」
「明らかにコナかけてたもんな……」
「それで完敗じゃあ……」
「それにしても……」
一同の視線が沙に集中するのを察して、並木は宣言した。
「はい、じゃあ、稽古戻って!」
ひとり、またひとりと、部員たちは会議室を後にする。
1年生でありながら3年の模試で全国トップを取った沙に、畏怖の眼差しを投げかけながら。
最後まで席を立たなかったのは、並木と五十鈴だけだった。
五十鈴は、むしろ迷惑そうに尋ねた。
「確かに凄いけど……何でそんなことしたの、わざわざ」
「いや、面白そうだったんで……いろいろやってるうちに」
深い溜息と共に、五十鈴は並木に尋ねた。
「どうする? レイアーティーズ」
「代役立てるしかないだろ」
他に方法はない。だが、五十鈴が気にしているのは、そんなことではなかった。
「あのちっちゃいのをレイアーティーズにしたの、何のためよ」
ハムレットがデカいからだった。
「諦めろ」
「敢えて真逆の体格の役者選んだのに、台無しじゃない」
「そうはいっても、あんな……」
小柄で華奢な男はそうそういない。
そうそう……?
そこで並木は気付いた。
「あ……」
五十鈴も叫ぶ。
「ああっ!」
その意味を察したのか、沙は事もなげに答えた。
「やりますよ、よろしければ」
急遽、レイアーティーズの代役が決まった沙の立ち居振る舞いの鮮やかさに、並木は息を呑んだ。
《王はどこにいる! 君たちは入ってくるな、外にいろ》
舞台に暴れ込んでくるなり喚きちらし、袖に向かって叫ぶ。
そこにはレイアーティーズに先導された暴徒たちがいることになっている。
感情のとりことなって、リーダーを冷静に見られくなった者たちが。
《見下げ果てた王よ、父を俺に返せ!》
クローディアスをはったと見据える沙の声は甲高い。だが、肌に突き刺さるような気迫というよりも、ポローニアスを殺されて我を忘れた息子の青臭い興奮だけが見て取れた。
観客の感情ではなく、思考に訴えかける。
こんな力が沙の小柄な身体に潜んでいたのかと思うと、興奮とある種の恐怖とで、身体がゾクっと震えた。
五十鈴はとみれば、何かに取りつかれたように真剣な眼で、クローディアスとのやり取りを見つめている。
そうやって稽古が進むうちに並木は、いつのまにか顧問が背後に立っているのに気付いていた。
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