第25話 去る者、来たる者

「暑い……」

 並木はビニール張りの畳の上にアグラをかいて、汗を拭き拭き、他のスタッフ兼キャストと慣れない針仕事をしていた。

 縫っているのは、波布なみぬのである。

 本来なら背景幕ホリゾントに青緑色の#64ロクヨン辺りをUHOアッパーホリゾントライトLHOロアーホリゾントライトで当てて、その前で上手と下手についたスタッフが揺れる水平線を表現するのに使うはずだった。

 ところが、全員キャストの素舞台芝居という演出になってしまったために、背景幕を覆う大黒幕おおぐろまくが閉められることとなり、この波布も意味がなくなってしまった。

 だが、五十鈴はこれも使うことにした。波を演じる役者の後ろに、波布を操る役者を配置するのだ。

 こうすることで、観客は舞台で起こっていることが、あくまでも作りごとだということを見せつけられるのだという。

 それが本当にその通りか、並木には分からない。ただ、自信たっぷりに言い切る五十鈴が頼もしく見えた。

「センパイ、ちょっと休みましょう」

 いきなり頬に冷たいペットボトルを押し付けられる。

「悪い、沙……」

 振り向くと、そこには五十鈴がいた。

「悪かったね、私で」

 皮肉っぽく笑いの奥には、例の「部内恋愛禁止」が透けて見える。

 沙はというと、部室の隅でせっせと針金を編んで、王妃ガートルードが最期に口をつける、毒の入った盃を作っていた。

 部室が開いた以上、わざわざ自宅で作った物を持参しなければならない理由はない。

 オフィーリアの棺、墓掘りのスコップ、ハムレットの持つ本……。

 地区大会までせいぜい2週間とちょっとしか残されていない今、小道具と衣装の準備のためにできることは人海戦術しかなかった。

「済まんな、急ごしらえになる」

「いいよ、これでOK……そうでなくちゃいけないのよね、今回は」

 そう言うと、部室の中を見渡す。

「肝心なのは、頑丈に、安全に作ること……頼むね、部長」


 そこへやってきた者があった。

「久しぶり、翁さん」

 他の誰よりも先に沙の名前を口にしたのは、笠置誠だった。

 続いて、並木に向き直る。

「話があるんだけど」

 ムキになったのは五十鈴である。

「私には一言ないわけ?」

「勝手ながら、今日で演劇部をやめさせていただきます」

 間髪入れず慇懃に答える笠置に、素っ頓狂な声を上げたのは五十鈴だけではない。

「はア?」

 この部室にいる者全員が唖然とする中、笠置は背中を向けて帰ろうとする。さすがに、並木は止めた。

「おい、それで終わりかよ」

「用件はそれだけだから」

 再び沙に向かって、無駄に明るい笑顔を向ける。

「じゃあ、頑張って」

 沙はというと、返事もしない。黙々と針金を押し曲げて、毒杯の形を整えている。

 笠置は溜息をついた。

「……冷たいね」

「別に、付き合ってたわけでも何でもないから」

 ようやく口を開いた沙が、作業の手を止めて向き直った。

「嫌だって言う人を引き留めるつもりは、私にもないんだ。よくあることだし、こういうのって。だから、どうしてって聞くつもりもないし、もちろん、責める気もないよ」

 返す言葉もない笠置だけでなく、部室の中にいる誰もが黙り込んでいた。もちろん、並木も何を言っていいのか分からない。

 だが、誰がご注進に及んだのか、ステージにいたキャストたちがものすごい勢いで怒鳴り込んで来た。

 真っ先に掴みかかったのは、美浪だった。

「どういうことだ笠置いいいい!」

 両脇から止めに入った比嘉と苗木が、両腕の一振りで畳の上に薙ぎ倒される。とばっちりもいいところだった。


 部室内は暑いので、顧問に頼んで会議室のカギを借りた。顧問はどうした風の吹き回しか、冷房使用の許可まで学校に取っていた。

 おかげで、冷静に話ができる。

 部室の中では沙を除く部員たちが、笠置に轟轟の非難を浴びせていた。だが、今では落ち着いて席に着き、足を組んだり片肘や頬杖をついたり、思い思いの横着な姿勢で、いちばん奥の席に立たされた笠置の釈明を聞いていた。

「今回のテストで、成績が下がったんだ……進路決定前の最後のテストで」

 そこからくだくだと長い言い訳が始まったが、要約すると、受験勉強に専念したいということだった。

 話が終わって、会議室中に溜息が漏れた。しばしの沈黙の後、五十鈴が口を開いた。

「要するに、地区大会出る余裕もなくしたわけね」

 笠置は、哀しげに口元を歪めた。

「県大会行かないつもりなら、考えてもいいけど?」

 五十鈴が言葉に詰まった。気持ちは分かる。演出としては舞台に上がってほしいが、地区大会どまりでいいとは言えない。

 人を自己撞着に陥らせる、狡猾な罠だった。この辺り、笠置は決してバカではない。

 その思いを口にしたのは、2年の相模だった。

「笠置さん、頭いいじゃないですか。聞きましたよ、こないだの模試、志望校A判定だったって」

 再び、会議室が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。そこには、笠置への非難の底に潜む嫉妬までもが感じられる。

 沙の言葉を借りれば、「緑の目をした怪物」は、笠置だけではないということだろう。

 だが、当の本人はそんなことを気にする余裕もない。

「だから何だっていうんだよ!」

 普段の冷めた態度からは考えられないような咆哮が、会議室を揺るがした。さっきまで騒ぎ立てていた、演劇部員一同が静まり変える。

 その顔と言う顔を見渡したうえで、笠置は重々しい口調で言った。

「合否判定信じていいのは、全国トップのヤツだけだ」

「それって、これのこと?」

 沙が笠置のカバンの中から、分厚い冊子を取り出した。

「ちょっと、あの……」

 さっきまで強気でいたのが腰砕けになったのには、ちょっとズキっときた。やはり、笠置も沙に好意を持っているらしい。

 もっとも、沙のほうはそんなことを気にした風もない。パラパラとページをめくる。

「いや、私もこういうのもらったんだけど、何なのかよく分からなくて」

 奈々枝が、ちょっと見せて、とページを覗き込んでくる。

「あ……でも、笠置先輩の名前も載ってるじゃないですか」

「100位ぐらいのところにな」

 努めて平静を装いはするが、どこか得意げにも見える。

 同じように沙に寄り添う陽花里はというと、ランキング上位を目で追っているようだった。

「え~と、全国トップは、と」

 そんなことが分かったところで、どうなるわけでもない。苗木は立ち上がって、話の軌道修正を図ることにした。

「あのさあ、今は……」

 確かに地区大会を目前にしている。1分1秒でも惜しい。追い詰められた笠置が、今日明日の間に復帰の決断をするはずがない。

 とにかく、ここで可能なことを全てやっておこうと思ったとき、模試データの冊子をちらりと見た佐伯幸恵が、一言つぶやいた。

「オキナイサゴ」

 部屋中が再び静まり返ったところで、その名の主の一言が全てを決めた。

「あ……」

 

 ものも言わずに笠置が逃げ去った後の会議室には、異様な空気が漂っていた。

 誰のものともしれない囁き合いが、ひそひそと聞こえる。

「そりゃまあ……な」

「明らかにコナかけてたもんな……」

「それで完敗じゃあ……」

「それにしても……」

 一同の視線が沙に集中するのを察して、並木は宣言した。

「はい、じゃあ、稽古戻って!」

 ひとり、またひとりと、部員たちは会議室を後にする。

 1年生でありながら3年の模試で全国トップを取った沙に、畏怖の眼差しを投げかけながら。

 最後まで席を立たなかったのは、並木と五十鈴だけだった。

 五十鈴は、むしろ迷惑そうに尋ねた。

「確かに凄いけど……何でそんなことしたの、わざわざ」

「いや、面白そうだったんで……いろいろやってるうちに」

 深い溜息と共に、五十鈴は並木に尋ねた。

「どうする? レイアーティーズ」

「代役立てるしかないだろ」

 他に方法はない。だが、五十鈴が気にしているのは、そんなことではなかった。

「あのちっちゃいのをレイアーティーズにしたの、何のためよ」

 ハムレットがデカいからだった。

「諦めろ」

「敢えて真逆の体格の役者選んだのに、台無しじゃない」

「そうはいっても、あんな……」

 小柄で華奢な男はそうそういない。

 そうそう……?

 そこで並木は気付いた。

「あ……」

 五十鈴も叫ぶ。

「ああっ!」

 その意味を察したのか、沙は事もなげに答えた。

「やりますよ、よろしければ」

 

 急遽、レイアーティーズの代役が決まった沙の立ち居振る舞いの鮮やかさに、並木は息を呑んだ。

《王はどこにいる! 君たちは入ってくるな、外にいろ》

 舞台に暴れ込んでくるなり喚きちらし、袖に向かって叫ぶ。

 そこにはレイアーティーズに先導された暴徒たちがいることになっている。

 感情のとりことなって、リーダーを冷静に見られくなった者たちが。

《見下げ果てた王よ、父を俺に返せ!》

 クローディアスをはったと見据える沙の声は甲高い。だが、肌に突き刺さるような気迫というよりも、ポローニアスを殺されて我を忘れた息子の青臭い興奮だけが見て取れた。

 観客の感情ではなく、思考に訴えかける。

 こんな力が沙の小柄な身体に潜んでいたのかと思うと、興奮とある種の恐怖とで、身体がゾクっと震えた。

 五十鈴はとみれば、何かに取りつかれたように真剣な眼で、クローディアスとのやり取りを見つめている。

 そうやって稽古が進むうちに並木は、いつのまにか顧問が背後に立っているのに気付いていた。

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