森に伏せるモノ

プロローグ 夜の森にて……

 見上げれば、満月の光が濃い紫の夜空に輝いている。

今になって、おびえたようにカンテラを振り回してみる。カンテラの光は物言わぬ周辺の木の幹をわずかに照らすばかりで、人の気配どころか木々のざわめきさえ聞こえない。誰にも見られていない。聞こえる音はと言えば、僅かばかりの衣擦きぬずれと小枝を木靴で踏みしめたときの乾いた音のみ。

 あまりに静かだ。

この風景ごとこの世ではないどこかへ迷い込んでしまったかのようだ。何か教養めいた知識がある司教様か旅の詩人であれば、気の利いた文句を思いつくのだろうが、あいにくとおいらは文字の読めないドン百姓とくる。それに、下手を打てばこれからアレに食い殺されてしまうかもしれないのだ。

 傍らにはつい先ほど絞めた鶏を置いて、今か今かと待ち望んでいる。

――――だが……そう、もしかすると本当にアレはおいらをこの村をも救ってくれるかもしれないのだ。


「おい、汝か我を呼ぶものは?」

 かすれ気味の声が森の静寂を破る。

ソレは風景に溶け込むようにしておいらを試すように睨んでいる。黒い影の塊のようなソレはおいらの側へと一歩二歩と歩み寄ってきた。

言い伝えの通り、人間のような輪郭から獣じみた臭いとごわついた毛が月明かりに煌めいていた。口元には新月のような白く鋭利な牙が闇の中に浮かび上がっていた。

 人ならぬものであることは確かだった。声が喉にとどまって出てこない。

「案ずるな、汝が我を害さぬ限りは何もせぬよ……」

「……」

「そう黙っていては分からん。我に用があるのだろう。長年この森に住まう我である。聞くだけは聞こう。さあ、申してみよ……」

 警戒の気配を悟られたのか、それでもかまわず声の主は更に二歩、三歩とにじり寄ってくる。不思議と恐怖心よりも何もかも打ち明けすがりたい気持ちが勝る。

 気が付けば今抱えている問題を洗いざらい話している。

 全てを語り終えてソレが満足げに笑みを浮かべる。

「よかろう、汝の望み叶えよう」

「本当か!」

「左様、案ずるな。その代わり――――」

 剛毛で覆われた腕が、いつの間にか絞めた鶏をかっさらってゆく。

「そう……汝は、相応の対価さえ忘れなければよい……」

新月のような煌めく牙が肉塊を引き裂き、細切れの血肉が地面へと零れ落ちる。次にそれを飲み下す不快な音が鼓膜に響く。思わず目を背け、地面へと視線をやるとカンテラの光はソレの影を浮かび上がらせていた。血肉に塗れた口元ががおいらにむかって獰猛に笑って見せる。

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