十一.約束の星夜
ずっと、ずっと、呼ぶ声は聞こえていた。
でも。目を開けたくなかった。
頰に触れる手は温かく、肌を濡らす雫は温かかったけれど。
目を開けばまた、冷たい世界に逆戻りするのだと思った。
怖かった。
それでも帰りたいと願ったのは。
会いたいひとがいたからだ。
言葉を交わしたいひとが、いたからだった。
ぼうっと
視界が、それにつれて明瞭になる。
「——ティルシュ! 目を覚ましたっ!」
加減なしの大声で叫んで立ちあがったのは藍の髪の綺麗な青年、ジュラだ。そして彼の隣で険しく目を
「……クフォン、無事だったんだ、……よかった」
笑ったつもりだが上手くできなかったのかもしれない。なぜならそれを言った途端に、クフォンが怒りの形相で立ちあがったからだ。
「良かったじゃねぇ! 自分こそ俺様が命懸けで逃がしてやったってのに、なに死にかけてんだッ!」
鼓膜が破れかねない音量の
「てめぇ……人が心配してるってのになんだその態度」
「やめなよ、クフォン! ティルシュを脅してどうするのさ!」
ベッドに乗りあげ胸ぐらをつかみあげようとするクフォンの
ティルシュはといえば何がどうなっているのか本気でわからず、戸惑いと怯えから泣きだしそうな顔になっていた。
「ごめん、クフォン……心配かけた……」
細い声でかろうじて言ったティルシュの言葉に、クフォンの表情も変化する。とにかく生きてくれて良かったと応じた声は、涙まじりだった。
ジュラも泣き笑いのような顔でティルシュの手を取る。
「生きる気力を、手放しかけていたんだよ、ティルシュ。傷は塞いだのに全然目覚めなくて……みんな心配したんだよ」
てのひらに伝わる温もりには覚えがあった。
意識が深淵をさまよっていた間、ずっと心をつなぎとめてくれていたのはこれだったのだ、と。
「ありがとう」
込みあげてきた想いはそれしか形を結ばなかったが、ジュラはうなずいて笑ってくれた。隣に立って見おろすクフォンも、嬉しそうに笑ってくれた。
ぼうと視界が潤む。それが涙のせいだと、ややあって気がつく。
帰ってきて良かったと思った。
そんなふうにハルも思うのだろうかと、ぼんやり考えたりもした。
死の淵にまで落とされたことは
砂漠を旅した時の疲労感とも違う、意識を
それでもだんだんと眠りの闇も明るくなり、意識を保っていられる時間も長くなっていった。
わずかな覚醒の合間に少しずつだが食事をもらい、ようやく起きられるようになったのはさらに二日ほど経ったころだった。
代わる代わる様子を見にくる皆の姿に、自分がどれだけ心配をかけていたのか痛感する。
待っていてもらえる、という実感が、わかったような気がした。
手足はだいぶ軽くなっていた。
ゆっくりとベッドから降り、手を壁に添えつつ部屋を出て、階下へと向かう。そうしたら、目ざとく見つけたラシェールが慌てたように飛んできた。
「ティルシュ無理するな、まだ苦しいだろ」
「大丈夫です。それより、……今日は何日ですか?」
——気づかぬはずがあろうか。
昨夜、窓の外に輝いていた月は、ほぼ円に近かった。
おそらく今宵が、満月。
ジュラが、ティリーアが、待ち望んでいた約束の日。自分が協力すると宣言した、願いが叶うと言われる特別な夜。それが今夜なのだ。
であれば眠ってなどいられようか。
ラシェールは困ったように肩をすくめ、それから優しく笑った。視線を傾け、店の隅で短刀の手入れをしていたシエラを呼ぶ。
「シエラ。そろそろ行くんだろ?」
おう、という返事を確認し、ラシェールは
「さ、君も早く用意しなよ。着替えて、
ティルシュの口もとにも笑みがのぼる。高鳴る鼓動が、自分の生を強く感じさせてくれた。それがどれだけ貴重なことか、今なら解る。
この命に価値を与えてくれたのはもう両親だけではない。クフォンやジュラであり、今回の件で知り合った友たちだ。
切り捨てられそうになった生を惜しみ、拾いあげてくれた彼らだ。
生きる意味を教えてくれた友の恩に報いるため、今の自分ができる最善を尽くそうと、決意を心に刻み込んだ。
——奇跡の
その前にとシエラに詰め寄られ、本能的に身をすくませたティルシュに対し、彼が行なったのは謝罪と報告だった。
身を隠しつつ様子をうかがっていたクフォンは、城付きの護衛兵が港をうろついていることに気がついた。そこから当たりを付け、首謀者を探ろうとしたらしい。
その
騒ぎに気づいて駆けつけたクフォンが見たのは、まさに今、大切な
逆上した彼は身を隠すのも忘れ、剣を抜いて乱入し、護衛兵と斬り合いになり、その間にトゥースは逃げてしまったらしい。
飛びだしていったティルシュをジュラも追いかけてきていたので、竜族が施す治癒魔法により、消えかけていた命はかろうじてつなぎとめられた。それでも幾日も眠り続けていたのは、身体の傷のみならず、心にも深く傷を負ったからに他ならない。
魔法といえど癒すことのできない傷もあるのだと、思い知る。
斥候、あるいは物探しの魔法。居場所をさぐり当てる手段は幾らでもあり、実際に見つけられていたのだろう。
隙を与えたティルシュの
その詫びも兼ねて、彼は海賊王と協力し城の状況を調べあげてくれたらしい。
両親が軟禁されてはいるものの無事であるという知らせに、ティルシュはつい人目を
身内による
だが今は、今だけは。
陽炎が揺らめく地平を
彼女は、はじめて会った時と変わらず、夕焼けの砂漠に溶けいるように
ここに集うのは五人。時の司竜であるジュラ、今代の銀河の竜ラシェール、鍵を持つ者ティルシュ、ティリーアと、シエラ。
「待ったぜ、
シエラの感傷を砂まじりの風がさらい、散らしてゆく。ジュラが
「違うよ、シエラ。これは始まりだから。今から、始まるんだよ」
ティルシュは黙って宝剣の鞘を払う。今ならば、彼らと同じ思いで喜ぶことのできる自分がいる。
「眠る王を目覚めさせるお姫さま、か。あまりに
「いいえ、シエラ。わたしは億年の歳月すら覚悟していたのよ。これくらい、待ったうちに入らないじゃない」
「はは、そう来たか! おまえは本当にいい女だよ」
シエラが笑い、ティリーアは口もとに手を添えてはにかんだ。
ティルシュは無意識に手を握る。胸を焦がすこの
この甘やかな切なさを、生きている限り覚えていようと思った。
「いただいてもいい?」
それが何を
右肩にはジュラ、左肩にはラシェール。
視界の先に相対するのはシエラと、ティリーア。
すくむ心を奮いたたせ、ティルシュはひと足ぶん進み出て宝剣を差しだした。はじまりの証たる銀の刃は、夕暮れの
細く白い指がティルシュの手に重ねられ、ただそれだけのことに鼓動が速まるのを感じた。
「これはあのひとの血を……命を吸った物だから」
受けとった短剣を細腕に抱き、彼女は目を伏せ囁いた。
紅い残光が一瞬ひらめいて収束し、地平線の彼方へ呑みこまれていった。入れ替わるように、反対側の地平線から紅い月が昇る。
「……始まるぜ。奇跡の降る夜、願いが叶う夜。今宵が、百刻目の星夜だ」
宣言したシエラに応じるように、ティリーアは薄っすら目を開き天空を見あげた。
明度を失いゆく空で、満ちた月が輝きを放ちはじめる。天頂より広がりくだる闇の
いつのまにか世界は真黒の闇に満たされていた。
戸惑うティルシュの手を誰かが握る。瞳を傾ければ、藍の瞳と視線がかち合った。
優しく笑む様子に、これが恐ろしい
ふいに足もとから、——
それと混じり合うように、鈴を振るような、あるいは
視界の端を一つ二つと光が駆けくだっては散ってゆく。
星降る夜とは、まさに。
見あげた夜空を無数の流星が埋め尽くしていた。
転じた視界にティリーアを見る。彼女は目を伏せ、宝剣を抱きしめていた。
彼女の全身を淡い光が包みこみ、欠片となってこぼれ落ちる。
ティルシュとラシェールの知らない遠い過去の時代、樹々の間からこぼれ落ちた
「わたしの中には、あのひとがいる。この大地にも、あのひとの記憶は宿っている。何よりわたしが、
彼女の全身からきらめき落ちる光が、銀の短剣へ吸い込まれてゆく。
囁く彼女の声が降りくだるさざめきと溶けあい、魔法のように
ティリーアの伏せた両目から、涙があふれた。
「わたしに触れた温もり……
まるで彼の
——それでも。
「会いたい。あなたに触れたい。あなたの声を聞きたい。ねえハル。これって、これってあたりまえの願いでしょう?」
その瞬間、彼女の腕の中で銀の光が弾けた。
世界のはじまりに在ったのは、銀。
すべての奇跡のはじまりであり、願いを叶える銀河の
竜が銀河を統べる
根底から
ただ一つの約束を信じ、願い続けた祈りは、百度、
世界を造りだした力なら、どんな願いであろうと叶えられるのではないだろうか。
一度の欠片では無理だとしても。
百度ぶんの奇跡が降り積もったなら、それは願いに形を与え、
視界を
ゆっくり何度か瞬きする。少しずつ世界に色が戻ってゆく。
そして息を飲んだ。ジュラも、ラシェールもシエラも、同じだと分かった。
眼前に、ティリーアと向かい合うように、幻光の
「……ハル」
同時に、彼女の身体から再び光がこぼれて、それに吸い込まれてゆく。
ティルシュ以外の三人はその光の粒子が星の魔力と、光の——癒しの魔力だと気づいていた。
そして知る。ハルの約束の、真の意味を。
幻光が揺らめき、色を変えてゆく。
魔術師が身につけるような長い
長くて黒い前髪の間、
『ただいま。待たせたね、ティア』
——瞬間、すべての光が弾けて消えた。
地を満たしていた燐光は消え去り、あたりまえの闇が周囲を包む。満ちた真白い月の下、黒髪の姫は漆黒の髪の青年を見あげ、
「おかえりなさい、あなた」
彼の腕が彼女に触れ、抱き寄せる。その懐かしい温もりに、ティリーアの伏せた目から熱い涙があふれてこぼれた。
広くて深いその胸にしっかりと顔をうずめ、彼女はそっと囁く。
「お願い、ハル。もう、どこにもいかないで」
「ああ、約束する。もう二度と、おまえを置いていくなんてことはしないよ」
優しい声が耳をくすぐる。しあわせな想いが全身を満たしていくのを感じながら、彼女はいとしいひとの腕の中へその身をゆだねた。
胸を刺す切なさを感じながらも、ティルシュは幸せだと思った。自分の頰を涙が濡らしていることに気がつく。きっと他の三人も同じだろう。
「待たせすぎなんだよ、馬鹿野郎」
震える声でシエラが呟いている。聞こえてくる
この奇跡に立ち会えたことを、ティルシュは感謝していた。
誰に、とは分からない。あえて言うのなら世界に、あるいは運命にだろうか。
流れに
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