九.未来を誓う夢


 痛む心にむちうって、ハルの遺体を国から外れた草原の片隅に埋葬する。離れるのを嫌がって泣き叫ぶ姉に眠りの魔法をかけ、結界領域に隠して休ませる。

 そうしているうちにジュラを城に置きっ放しだったことを思いだし、アスラは慌てて城の花園へと転移した。


 花園にはまだ誰も踏み込んではおらず、もし誰かがいたとしてもアスラにとっては脅威になるはずがなかったので、ジュラの気配を辿りつつ姿を探す。

 湿った風を受けて花弁を揺らす花々が目に入れば、この場所でよく一緒に過ごしていた姉夫婦のことが思いだされ、視界がぼうと霞んだ。

 それでもとにかく見つけなければという責任感にすがって、気がつけば城の敷地を外れ、隣接する森のはしまで来ていた。


「……よかった」


 幼く、竜の力を失っている少年が、万が一にも反逆者たちの手に掛かっていたら。

 そんな不安は、森の入り口でうずくまっていた藍色の姿を見て払拭ふっしょくされた。少年のそばにはと名乗った銀光の影が、寄り添っているようだった。


「ジュラ、ごめん。君を連れて行かないでしまって」


 心底から謝りながら駆けよれば、少年はぎこちなく顔をあげた。ずっと泣き続けていたのかまぶたは腫れ、憔悴しょうすいしきった顔が痛々しい。

 そばに屈んで抱きよせると、ジュラはアスラの胸の中でまた泣きだしてしまった。


「……君はあの時、と言ったけど」

『うん』


 銀光の影が言葉少なに答える。嗚咽おえつに声を詰まらせつつ、アスラは問う。


「君は、この結末みらいを、知っていたのか!」


 沈黙が、肯定の意をともなって場に落ちた。彼を責めるのは筋違いだ。そう分かってはいるけれど、涙が止まらない。

 認めたくない。

 阻めるものなら阻みたかった。

 こんな未来に至るくらいならいっそ、全部をやり直して、造り変えて——、


「だめ、アスラさん」


 胸の中から、震える声が制止を告げる。腕を解いて、アスラは泣き濡れた瞳を歳下の時の竜に向ける。

 おなじような瞳で、けれどジュラはまっすぐアスラを見あげていた。



「僕、ぜんぶ思いだしたよ」

「全部、……って、もとの世界で起きた出来事を?」


 お互いに発声すらも覚束おぼつかぬほど泣きながら、アスラは問う。ジュラが、答える。


「うん。僕が巻きこまれた事件ことも、僕が生きてた時代せかいのことも」


 てのひらで涙を拭い、ジュラは立ちあがった。細い腕を伸ばして屈んだままのアスラの首を抱き、囁く返答は祈りのように。


時の竜アスラ記憶ねがいも」


 何かが、魂の奥底を揺さぶった。銀光の影が困ったように小さく笑う。


『それ以上は、ジュラ。……アスラごめん、この子ジュラを、時の狭間に送りだして欲しいんだ』


 ジュラはそれ以上は何も言わず、腕を解いた。思わず見返せば、藍の両眼がひと懐っこく笑う。今もまだ濡れたままではあるけれど、その瞳はもはや物知らぬ幼子おさなごではなかった。

 彼らの言う意味を十分には理解できぬまま、それでもアスラは求めに応じ目を閉じる。意識を研ぎ澄まし、魔法を願う。


 空間を切り裂き異界を開く司竜の権能ちから。それは、特別な儀式などなくとも願いを反映うつして顕現するのだ。いまも力を失ったままのジュラだが、ぜんぶ思いだしたと言うのであれば——きっと、大丈夫なのだろう。

 この出逢いの意味も、ジュラの言った言葉の意味も、今は何も、考える余力はないけれど。

 いつかめぐり合うように——知れる日が来るのだろうかと、思いながら。






 深い魔法の眠りに意識を溶かされる。

 心を裂くこの喪失感がつかの間の夢であったら、どんなにか良かっただろう。

 腕の中で失った輝きが、目醒めざめた時いつもと変わらぬ笑顔で、そばにいてくれたらいいのに。

 くらい眠りの淵で、光が欲しくて、ティリーアは腕をのばす。

 その指に、ふわりと温かな熱が触れた。


「……え?」


 一度、二度、瞬きをする。

 だって、どうして、目の前にいるのは。


「あなた……?」

『そうだよ』


 紫水晶アメジストの双眸を細めて微笑む光の具現は、まぎれもないハルの姿をしていた。

 輪郭は曖昧で存在も不安定で、むしろ自分の願望がつくりだした幻影なのではないかと疑うほどだけれど。


「ハル、……ハルなの? それとも、わたしは夢をみているの?」

『俺は、俺だよ。確かに今は、夢を借りておまえに逢いにきているけどね』


 死んだわけではなかったのだと、安堵あんどに震える心が涙をあふれさせた。

 ハルは透ける指先でティリーアの涙をぬぐう。淡い熱が頰を撫でる感覚に、耐えきれず彼女はハルに抱きついた。


「ハル! わたし、あなたがいなくちゃ生きてはいけないの……! だからお願い、置いていかないで……」

『ティア』


 低く優しい声が耳をくすぐり、肩に触れる手がゆっくりと彼女を離れさせる。

 両のてのひらをティリーアの肩に置いたまま、額を合わせるほどにハルは顔を近づけ彼女と視線を絡ませた。


『よく聞いて欲しい、ティア。俺が、死んでしまったのは、現実ほんとうだよ』


 途端、泣きだしそうに歪むティリーアの表情を優しく包むように、ハルは彼女を抱きしめた。


『でもティア。永遠の愛の誓いは嘘じゃない。たとえ君との間をわかつものが死でも——そんなことで終わらせはしない』


 耳のそばで囁く言葉が、静かに胸に落ちていく。

 濡れた瞳をあげ、ティリーアはハルを見た。遠い過去のいつかと同じく、紫水晶アメジストの双眸は決意を宿してまっすぐに向けられていた。


『ティア。君は俺に、未来を預けてくれないか?』

「未来……?」


 言われた意味を把握はあくできず、呟くように繰り返す。ハルの瞳は何かを思いついた子供のように輝いていた。柔らかく笑んだ唇が言葉を紡いでいく。


『はるか遠い未来、が百度の巡りを数えた時代ときに。俺は、おまえのために、この大地に戻ってくると誓おう。それまで、待っていてくれるかい?』


 予想もしていなかった『誓い』にティリーアは目をみはる。

 心をうち震わす言葉だった。あまりに遠すぎる未来だった。それが本当に叶うかどうかも判らず、ただ独りで待つ時間は、どれほどつらいだろう。

 いっそ今一緒に死ぬことができるなら、きっとその方が苦しくはない。

 答えをためらうティリーアを、ハルは愛おしげに見つめる。彼女の葛藤も不安も、すべて理解しているような目だった。


『もちろん、強要はしない。俺が選んだ道の結末を、おまえに負わせようというのじゃない。でもこれだけは覚えていて欲しい。ハルという名の存在たましいはもうそのかたちで在るわけではないけれど、俺は消滅したんじゃない。ティア、おまえは決して独りではない』


 ハルの震える声が涙をともない、闇の空間に余韻を残す。

 声もなく涙する妻を支えるように腕を回して、ハルは一言一言を語り聞かせるようにゆっくりと、言葉を重ねた。


『さみしい時は天空そらを見あげてごらん。昼も夜も、光が絶えることはないのだから。姿が見わけられなくとも、そこにるなら聴こえるはずだ。俺はこの命を、大地に満ちる光に散らして、いつだって君のそばにいる。——永遠に、愛している』


 とめどなくあふれる涙が視界を覆う。瞬きを繰り返し、ティリーアはハルの顔をよく見ようと頭をあげる。

 問うように首を傾げた彼に、何度もうなずいてこたえを返す。

 今まで一度といえティリーアに偽りを語らなかった唇が、誓う未来の約束。いつか、など分からなくても、彼が誓いをたがえることなどあるだろうか。


「……はい。あなたとの約束ならわたしは、たとえ千年だろうと……億年の歳月だとしても、待てるもの」

『ありがとう』


 優しく囁き、ハルは微笑んだ。

 全身を包む温かな光に意識が溶け、浮上する。深い水底から浮かびあがるかのように目覚めたとき、彼の姿はもうどこにも見えなかった。





「……姉さん、……姉さん?」


 希釈された陽光が全身を満たし、柔らかな若草の匂いが鼻腔びくうをくすぐっている。目覚めた状態で草の中に横たわったまま余韻に浸る姉の姿に、弟はたいそう驚いたのだろう。駆け寄ってきて、そばにしゃがみ込んだ。


「姉さん、大丈夫? 僕がわかる? どこか痛いところがあるの?」


 気遣わしげに、だが矢継ぎ早に尋ねてくる心配性な弟が微笑ましい。濡れた瞳を瞬かせ、ティリーアはほんのり笑んだ表情かおでアスラを見る。


「アスラ、夢をたわ」

「え」

「夢。ハルが、夢の中に逢いにきてくれたの。ねえ、アスラ、聴いてくれる?」


 怪訝けげんそうな表情を消しきらぬまま、アスラは姉の横に座り込んだ。ティリーアは上体を起こし、寄り添う弟にさっきの夢を話して聞かせる。

 はじめは眉を寄せて聞いていたアスラの顔が、少しずつ変わってゆく。

 全部を聞き終えたとき、彼は驚愕きょうがくのあまり、何も考えることができなくなっていた。

 




 ハルの真意を知る者はいまだ、いない。

 彼の『約束』の意味をティリーアも、アスラでさえも、真実ほんとうの意味で理解はできていない。

 そうだとしても、奇跡を手繰たぐるための布石は今ここに敷かれはじめたのだ。

 



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