第二章 未来との邂逅

四.藍の迷い竜


「ハル! どうしたの、その怪我っ!?」


 そろそろ午後に差し掛かろうという時刻、静かな城内にティリーアの悲鳴が響き渡った。

 不穏な言葉にアスラは驚き、持っていた書類を放り投げエントランスへ向かう。


「姉さん! ハル!?」


 ホールを貫く大きな柱に手をついて、憔悴しょうすいしきった様子のハルが立っていた。すぐ前にはティリーアがいて、今にも泣き出しそうに彼を見ている。

 柱を汚す血糊と、背側が裂けて血の滲んだ衣服を見て、アスラはハルが傷を負っていることに気がついた。

 人と同じ姿をとっているとはいえ、竜族の身体は強靭きょうじんだ。ましてハルは司竜でもあるゆえに、その身は殊更ことさら頑健なはずであり、彼自身の剣技も卓越たくえつしている。

 そのハルが深手を負う事態——それがアスラには想像つかない。

 が、それよりもせないのは。


「どうして治さないんですか……!」


 光竜であり『癒し』を特性として持つハルの不可解な対応に、焦りも混じった怒りを覚えてアスラは声をあげる。

 ハルは視線を傾け義弟を見て、痛みゆえだろう、中途半端に笑った。


「いいんだ。これは、彼の痛みだからな」


 当然ながらアスラもティリーアも意味をつかむことができず、一瞬言葉を失うが、だからといってそれで誤魔化されるはずもない。

 いつもおっとりしていて激しい感情を見せたことのない姉が、眉をつりあげるのをアスラは見た。頰に赤みがさし、両手でハルの服をつかむ。

 怒った、と弟が思うと同時にティリーアの怒声が響いた。


「なに言ってるの! 何があったかわからないけど、あなたが痛い思いをしたからって事が良くなるわけじゃないでしょう!?」


 非常に珍しい妻の激昂げっこうに、ハルが驚いた表情で後ずさろうとする。——実際には、ティリーアにつかまれたままだったので動けなかったのだが。

 両者そうして一瞬見合い、すぐにハルが観念したように両手を挙げた。


「悪かった、ティア。……おまえに心配をかけたところで、何かが良くなるはずもないのにな」


 優しく笑う瞳に光が揺れる。それを正面から見てしまい、ティリーアは思わず指の力を緩めた。

 血に塗れて傷の判別もつかない彼の右手に、そっと手を添え尋ねる。


「ねえ、なにがあったの?」


 問いかけに、ハルはただ首を振って目を伏せただけだった。ゆっくりとした所作でティリーアを振りほどき、何も言わずに階段へと向かってしまう。

 姉と弟は黙って顔を見合わせた。

 あれほど思いつめた様子のハルを、ティリーアもアスラも今まで見たことがない。

 しかし、追いすがって問い詰めたところで彼が口を割らないであろうことは、二人とも良く分かっていた。



 その夜、ティリーアはひどく久し振りに『夢』をた。






 芝生が絨毯じゅうたんのように敷きつめられた中庭の花園をゆっくりと歩きながら、ハルは昨日のことについて思いを巡らせていた。

 当然ながらジェラークは今日、出仕していない。様子を見にいきたい気持ちは強かったが、今行けば彼の感情を逆撫でするであろうことも、ハルは解っていた。

 だからといって知らぬふりができるはずもなく、彼と親しい同僚に事情を伝えて、付き添ってくれるよう手は回してある。


 妻と義弟おとうとにはまだこの話ができていない。話さねばと思いつつも、自分の気持ちを打ち明けられるほど思考を整理できていない自覚があった。

 こうやって午前の執務を中断しながら物思いにふけっていたのもそういう理由わけだ。


 この花園は妻のティリーアが手を掛け育てているものである。

 彼女はもともと花が好きで、ハルが執務で忙しい時は大抵ここに来て世話を焼いている。さまざまな花が鮮やかに可愛らしく咲き誇るさまは育て主の愛の深さを物語っているようで、ここに来れば気持ちが癒されるように思えた。


 出自が素朴な村娘だった彼女は貴人めいた雰囲気をいっさい感じさせない。ライデアの王妃という立場を得た今でも、彼女は変わらず純朴で、慎ましく、物静かだ。

 人間であった彼女はハルとの結婚の際に永遠の命をアスラから贈られたが、その反動で子を宿すことができなくなった。ティリーア自身がそれを憂いたことはないが、アスラがひっそりと気にしていることをハルは知っている。

 本来なら我が子に向けられていたであろう愛情は、こういう趣味に形を変えているのかもしれない。


 気づけば妻との馴れ初めを思い巡らしている自分に気づき、ハルは苦笑した。

 彼女が怒りの表情を見せることなど、五百年以上連れ添ってきてもほぼ皆無だったから、驚きと同時に新鮮さもあった。それを口にしたらまた、アスラに叱られてしまうだろうが。

 もちろん、このまましらを切り通すのは良くないとハルも分かっている。

 昼食の時間に二人を連れ出し、ゆっくりと事情を釈明するのがいいかもしれない、と結論づける。


 思考に一応の整理がついたところで執務に戻ろうと視線を巡らせたハルは、視界に見慣れぬものを見留みとめて眉を寄せた。

 花壇と花壇の間、青草を敷きつめた通りみちに小さな影がうずくまっている。

 確かめようと足を進めれば、やや長めな藍の髪、質素な衣服に身を包んだ、人間でいえば十歳ほどの少年が眠り込んでいた。


 髪色と気配からその子が竜族であると即座に察し、いぶかしむ気分でしげしげと観察する。

 見覚えのない子竜だ。

 友であるリュライオを思わせる髪色であったが、風竜ではない。明らかに竜族としての外見を有していながら、少年の中の魔力はからっぽだといってもいい。

 たいそう幸せそうに熟睡しているところを起こすのも忍びなかったが、放置していくわけにもいかない。ハルはしゃがみこんで少年の肩に手をかける。

 軽く揺すって声をかければ、細い手が邪魔を払うように動いた。


「もうちょっと寝せてよぅ、父さん……」


 少なくとも孤児ではなさそうだ。ふらふらと揺れる右手を捕まえて、ハルはつい笑みを零した。無防備に寝ぼけている姿が可愛らしい。


「俺が父さんかい? さあ、ちゃんと起きなさい」

「うるさいなー……」

「悪かったな」


 無意味にかみ合う会話が可笑おかしくて、笑いを抑えつつも、ハルはもう少し強めに少年を揺り起こす。


「だが生憎あいにくと、君の父君の起こし方を俺は知らないんでね」


 途端、少年が跳ね起きた。開いた両目は髪と同じく深い藍色で、ややつり気味の双眸が今はフクロウのようにまん丸だ。

 いかにも竜族らしい、とても綺麗な容貌の少年だった。


「あなたは、だれ、ですか?」

「それは俺が聞きたいよ。君はこの国の子供じゃないし、近隣に住む竜族にも君のような子供はいない。君は、誰だい?」


 起きている姿を見てもやはり、見覚えのない子竜だ。じいと見つめる藍の目にも、やはり竜の魔力を感じない。

 だが、人懐っこくまっすぐな瞳にはなぜか懐かしさを覚えた。こんなことが、いつか、どこかで、あっただろうか。

 どうしても思い出すことができない。

 しばらくハルを凝視していた少年は、やがて眉を下げ、困ったように視線を彷徨さまよわせはじめた。不審者というよりは迷子の子供の様相だ。

 ひとまず順を追って聞いていった方がいいかと考え、ハルは言葉を加える。


「ここはライデアという国だよ。俺はこの国の王、ティリアル=ロ=ハル。呼ぶときはハルでいい」

「ライデア? ハルさん?」


 見知らぬなにかを反芻はんすうするように、少年が繰り返す。その反応に違和感を覚えつつも、ハルは黙って見守っていた。ややあって彼が顔をあげる。


「僕は、ジュラ。りゅうの国から来たんです」

「竜の国?」


 村ではなく、国を構えるほどの竜族を擁する国家など現存していない。

 あるいはと、今は異界に滞在してる友のことを思い浮かべる。りゅうはリュライオの愛称でもある。もしかしてこの少年、今リュライオが留まっている世界からでも来たのだろうか。


「君は界渡かいわたりでもしてきたのか? それともリュライオが……新しく国でもおこしたのか」

りゅうさんを知ってるの!?」


 台詞の最後はほとんど独り言だったが、ジュラは思わぬ食いつきを見せてきた。思わず身を引きながらも、ハルは眉を寄せて少年を見返す。


りゅうを知っているのに私を知らない、か。だが、界渡りをしてきたにしては君から魔力は感じられないし……一体どういうことなんだろうな」

「んー、知り合いって言っても僕の前世が、だよ。僕にはなにがなんだか」

「前世?」


 ハルの声に鋭さが混じる。


「竜族は転生などしない。無論、人間もだ。君は竜族ではないのか?」


 詰問きつもんの口調に驚いたのか、ジュラは言葉を飲み込み身をすくませた。

 その表情かおに色濃くにじむ戸惑いは、嘘を言っているようには見えない。光竜の特性としてある程度の嘘なら見抜けるゆえに、ますます不可解が募る。


「だって、みんなが、時の竜は転生をするって」


 ついには涙目になってしまった少年が、そう呟いた、途端。突風が二人の間に割り込み、草の葉や花弁とともにジュラとハルの髪を舞いあげた。

 自然ならざる風の動きに妨害の意図を感じ、ハルは思わず中空を見あげる。

 悪意を感じる風ではなかった。

 しかしその意図は明確であり、ハルが事態の背景を察するのにも、十分だった。


「まあいい。君のいう竜の国がどこか分かるまで、この城に滞在するといいよ」


 不安げに見あげるジュラに手を貸し、引っ張り起こして立たせると、ハルは少年を伴って城内へと向かった。

 根拠はなく、形にもならない数々の予測が思考をまわる。

 ジュラはおそらく時の竜だ。それも、時渡ときわたりが可能な——おそらくは『時の司竜』。

 干渉し合う世界においてはただひとりしか存在し得ないそれが、なぜ、ここに。


 導き出される答えは不穏なものでしかなく、波だつ心を抑えながらハルは、ジュラの手をとる自分の指に無意識に力を込めていた。



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