第九章 その3 目力ミュージアム

「さて、そろそろ時間か」


 教育長が帰ってしばらくしてから、事務室の椅子に腰かけていた池田さんがよっこいしょと立ち上がる。その格好はクールビズの仕事着ではなく、はっぴに手ぬぐいと完全に場違いなものだった。


「あ、えんでんおじさんだ!」


 ロビーに出た途端、待ちわびていた子供たちがわっと駆け寄る。恒例の博物館収蔵庫ツアーの時間がやって来たのだ。


 子どもたちを相手にえんでんおじさんになり切って堂々と振る舞う池田さん。これができるのは彼の人柄ゆえだろう。


「メインの展示、かあ」


 そんな池田さんの背中をぼうっと眺めながら、私は受付のカウンターに両肘をついていた。


 あのえんでんおじさんツアーも今はまだ話題になっているが、いつ飽きられてしまうかわからない。そもそも池田さんもただの市職員だ、終生えんでんおじさんを任せるわけにはいかない。


「何を考えているんだ?」


 展示室の見回りから戻ってきたシュウヤさんが訝し気に声をかける。だいぶ眉をしかめていたあたり、私はかなり深刻な顔で考え込んでいたようだ。


 ちょうどいい。私はずっと考え続けていることをそのまま吐き出した。


「シュウヤさん、おもしろい展示ってどんなものですか?」


「おもしろい展示?」


 シュウヤさんは面食らったように顔を歪めた。


 いくら方策を打とうとも展示そのものがおもしろくないとお客さんは来てくれない。教育長に言われたことがずっと頭の中をぐるぐるしていて、納得はしているものの具体的にどうすればよいかのアイデアが思いつかないでいた。


 根源的な質問にシュウヤさんもしばし言葉を噤んでいたものの、私がじっと視線を送り続けると「うーん」と小さく唸りながらも言葉をひねり出したのだった。


「あくまで俺個人の感想だけど、やっぱり本当に良い物を見られるのが一番おもしろいかな」


「本当に良い物?」


「何て言っていいのかわからないけど、文化財に指定されている展示品ってのは、なんだかんだ言ってそこらの二流品とは全然違うんだ。それこそ素人目でもわかるくらいに」


 理路整然とした説明を好むシュウヤさんとしては珍しい、何とも感覚的でふわふわとした話しぶりだった。これこれはそれだ、と言う傾向のあるシュウヤさんだ、最初答えるのをためらったようにみえたのも、そういった明確な答えを導き出せないからだろうか。


「歴史に名を遺すような画家の絵ってのは、やっぱり人の心を強くつかむなにかがあるんだよ、一種のオーラみたいなものが。だいぶ前の話だけど、企画展でゴッホの自画像を見たことがあった。そんなに大きくない、ただの油絵の自画像だよ。でもそこにはゴッホの異常なまでの執念と言うか決意というか……凄まじいまでの眼力が絵から放たれていて、見た瞬間に肌寒いものを感じてしまったんだ。絵の勉強なんて何もしていない俺でも、そう感じたくらいにね」


 展示品に心をつかまれる。一目ぼれのようなものなのか、ビビッと雷に打たれたような感覚と表現されるものなのか、そんなことが本当にあるのだろうか?


 シュウヤさんほどの人が話すのだから、あると考えるべきだろうけど……私はどうしても感覚としてシュウヤさんの話を受け入れることができなかった。


「私にはまだそういう経験がありません。どうすればできるでしょう」


 私は半ば懇願するように訊いていた。


 しかしシュウヤさんの返事は「そんなの簡単な話だよ」と実に軽いものだった。悪戯っぽい笑みも浮かべ、余裕すら見て取れる。


「本当に良い物を、実際に自分の目で見るんだ」




 帰り際、私は駅前のショッピングモールに立ち寄った。


 本物とはどんなものか、無知な私の心を揺れ動かせるものなのか。それを調べるべく、美術品に関する本を探しに書店へと向かったのだ。


 写真集コーナーの片隅で、何年も手に取られたことの無いような大きな美術品の本を手に取る。日本各地の博物館や美術館に展示されている、名作と呼ばれる美術作品を集めた画集だ。


「『睡蓮』……『風人雷神図屏風』……『地獄の門』……」


 掲載されているのは誰もが知っている、教科書にも載っているほどの作品ばかり。クイズ番組ではかなり難度の低い問題として出題されるだろう。


 しかし私はこれらの名作を、一度も直接見たことは無かった。当然、写真を通して心を鷲掴みにされたような経験も無い。


 これは写真と本物は違うということなのか、それとも私の感受性が乏しいだけなのか?


 ふうとため息を吐き、本を棚に返す。いくら考えても答えは出ず、ついには悩むのにもさえ疲れてしまった。


「あれ?」


 だが振り返って店内を見渡した時、見慣れた背中が目に入る。学習参考書のコーナー、これまた分厚い本を睨みつけてぴくりとも動かない小柄な学ラン姿の男子。私は足音をわざと殺し、そろりそろりと近付いた。


「あんた、何してんの?」


「うわ、姉ちゃんか」


 弟だった。まさかの姉とのエンカウントに小さく跳ね上がったものの、「どうしてここに?」などとは訊いてこない。


「うん、夏の大会も終わっちまったしな、今から受験のこと考えておこうと思って」


 そう言って弟が見せつけてきたのは受験情報をまとめた大学一覧だった。やはりなと姉の私は目を細めながらも、受験のことはよくわからないので「ふーん」と適当に答えるしかできなかった。


 成績の良い弟のことだ、きっと高校を卒業したら地元を離れて進学する。それこそ東大だって狙えると言われているのだ、船出市から華の東京へお引越し、なんてこともあり得る。


 東京か、羨ましいな弟よ。羨ましすぎて恨み妬みも募ってしまう。


 そこでふと思い出す。そう言えばさっき眺めていた写真集、東京の博物館で展示されているものが大半を占めていたな、と。


 東京は日本の首都、当然美術作品も歴史資料も、全国の一流品が結集する。だからこそ学術でも芸術でも、国内トップの学校がその地位を不動のものにしているのだ。


 シュウヤさんが東京の大学に進学したのも、香川では見ることのできない本物の歴史資料を用いて歴史学を修めるためだ。もしかしたら東京には、展示に心を動かされたことの無い私の琴線にも触れるものがあるかもしれない。


「ねえあんた」


「ん?」


「東京、行きたいんならいっしょに行かない?」

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