粉飾決算請負人(後編)

それから二ヶ月が経とうとしていた。紫月は中村とともに赤坂のレストランの個室にいた。テレビでもお馴染みの料理人がオーナーを務める高級中華料理店で、通常のテーブル席でも一人五万円は下らないクラスである。

「中村さんからのお誘いなんて急なんで、どういう風の吹き回しかと驚きましたよ。本当にいいんですか?」

 紫月は前回の八重洲のバーでの素振りをおくびにも出さず、白酒(バイチュ)のグラスを一口で空けた。伸びやかで張りのある紫月の声が、十畳ほどの個室に響く。

「ご遠慮なく。もちろん会社経費なんかじゃありませんから」

 甲高い笑い声を上げながら、中村は湯煎で温められた紹興酒をグラスに注ぎ、ザラメ糖を二杯三杯と放り込む。グラスを持つ左手には、金ぴかの腕時計が照明を時折チラリと反射していた。量販店の市販品だったスーツは、ダークグリーンのスリーピースに置き換わっていた。紫月は聞いたこともないようなイタリアのブランド品だ。フルオーダーなので少なくとも彼の体型との釣り合いは何とか保たれている。しかし、肩には相変わらず白い斑点が目につき、奇妙な形状をした銀色に輝くバックルがスーツの雰囲気を台無しにしていた。

「紫月さんは白ビキニの瑛里華(えりか)ゲットしました? 『Eガチャ』のアレですよ。激レア過ぎて実在しないなんて言ってるヤツいますけど、ほら」

 中村が満面の笑みでスマートフォンの画面を紫月に見せた。中村のスマートフォンを片手に添え、紫月は顔を近づける。

「へえ、よく手に入りましたね」

「このために何万回挑戦したか、数えるの忘れてしまいましたよ」

 一回あたりの金額は、紫月でも知っている。彼女によって開明社の「売上」がまた増えたのは、想像に難くなかった。

 結局、最上級のフルコースを平らげながら聞かされたのは、これまでと概して変わらない、当たり障りのない話題ばかりだった。単純に、『藍川瑛里華』と自分の羽振りを自慢したかっただけでしかなかった。だがそれでも、普段の中村は昼食は相変わらず一人でカップラーメンと語っていた。さすがの中村でも、社内で大っぴらに贅沢するのを躊躇うだけの分別は持ち合わせていた。


「サヴィル・ロウで作ったんだぜ、これ。触ってみなよ、全然違うだろ?」

 それは行く先々での森本の決め台詞となっていた。サヴィル・ロウとはロンドンのファッション街で、王室御用達は言うに及ばず世界に冠たる数々の名門ブランドが軒を連ねていることで知られている。余談ながら、日本語の「背広」の語源との説もある。もちろん、スーツを仕立てるためだけに、わざわざロンドンまで出向いたと付け足すのを忘れなかった。

 そうは言っても銀座の一流クラブともなれば、店側の方が客を見る目が遥かに肥えている。森本がどんなに金をばら撒こうが、ホステスやママ達からは「サヴィルさん」の名前で通っていた。もちろん、知らぬは本人ばかりである。

「さすが森本さん。見る目が違いますねぇ」

 紫月のおべんちゃらは毎回同じだったが、それでも森本は言われる度に上機嫌になった。

 あくまで森本の飲み友達として、紫月は通っていた。紫月が声をかければ、森本はだいたい誘いに乗って夜の街を豪遊した。だいたいにおいて、最後に行き着くのは「月の兎」だった。紫月の案内であることは言うまでもない。そして必ずと言っていいほど、森本は「かなえ」を伴って紫月に別れを告げるのだった。森本にとっては、銀座の一流店よりもホテルに連れ込むにはハードルのより低い存在でしかなかった。もちろん、かなえもそれは承知の上で、拒むことなく森本の誘いに応じた。

 翌日、二人は自由が丘にほど近い寿司店のカウンターに並んで座っていた。場所は銀座のような一等地でこそないが、知る人ぞ知る超有名店であり、近日ロンドンに二号店をオープンするそうである。わずか九席の店内には紫月と森本以外は、品の良い主婦たちが揃って賑やかに談笑していた。

「相変わらず、かなえちゃんが一番のお気に入りのようですね」

「どんなフレンチのフルコースでも、最後にはお茶漬けが欲しくなるものですよ」

「お茶漬けにしとくには勿体ないと思いますがねぇ」

 紫月の方を向きもしないまま、森本は鮪の握りを口に放り込んだ。

「今や営業成績はぶっちぎりの一位。そりゃ部長でも下手に口を出せませんよね」

「プラトン書房はまだまだ伸びますよ。来月に新店舗をオープンすると部長には伝えてます」

 へえそうですか、と相槌を打ちつつも、誰も代金の回収なんてチェックしないからな、と心の内で紫月は付け加えた。

 紫月が西麻布のスナックで森本と出会ったのは、ちょうど中村を「月の兎」に誘った半月後だった。件の店は、もともと開明社を含む出版関係者がよく出入りすることで知られていた。事前に入手した社員名簿をもとに最初からターゲットを営業マンであり中村の同期でもある森本に絞っていた紫月だったが、知り合うのには中村ほど苦労は無かった。中堅取次業者を装って足繁く通っては「イキのいい開明社の若手と取引したい」と言い続ければ、三人目にママが森本を彼に引き合わせた。その後、紫月は合コンやキャバクラ巡りを森本と重ねる間柄となった。

 森本と出会う前に、彼の横柄さと女癖の悪さを嫌と言うほどコンパニオンから紫月は聞かされていた。そして、尊大な振る舞いとは裏腹に、森本本人は心身共に弱り切っていたことを紫月は見抜いた。紫月の読み通りだった。鳴り物入りで発売されたばかりの人気作詞家・北野大輔の小説が彼自身のスキャンダルのせいで、売上が急速に失速していたところだったのは、聞くまでもなかった。

「北野先生が敗訴するのはほぼ確実という見方で、専門家は概ね一致しています。社長はどうされるのでしょうねぇ」

 絶対の根拠が紫月にあったわけではないが、法理論の切り口から反論する術を森本は持たなかった。社運をかけた新作の不振と社長への恐怖心で、ただでさえ森本の判断力は鈍っていた。

「もうどうにもなりませんよ。会社が潰れるか、俺が壊れるかどっちが先かってもんですよ」

 紫月に連れられるがままにキャバクラを二軒はしごした後に立ち寄った居酒屋のボックス席で、森本はさめざめと泣いた。地道な営業を半ば諦め、酒と女に逃げ回れば回るほど、醒めたときに突きつけられる現実の反動は、彼に重苦しくのしかかった。決して森本だけが例外ではなかった。だが、専制君主たる社長に対し、誰も進言できないのが現実だった。森本は、その無力な領民の一人に過ぎない。

「よしましょうよ、森本さん。会社のために死ぬなんて、馬鹿げた話はありませんよ」

 顔を押さえてうつむく森本の肩を、紫月はポンポンと優しく叩いた。

「ありがとうございます、紫月さん。ホント、馬鹿ですよね。こんな会社、潰れてしまえばいいんですよね」

 紫月はテーブルのチャイムを押し、熱いお茶二杯を店員に注文した。息を何度も吹き付けては湯呑みを少しずつ傾けるうちに、森本の呼吸も徐々に落ち着きを取り戻していった。

「どんなに森本さんが稼ごうが、社長がみんな吸い上げちゃうんですよ」

 森本は無言で、ぎゅっと片手の拳を握りしめた。

「それはおかしいです。社長あっての会社じゃありません。社員あっての会社です。会社も社員もなくして、社長なんてありえないでしょう?」

 青ざめていた森本の顔は、みるみる紅潮していたのを紫月は感じ取った。この時点で、彼の開明社並びに社長に対する忠誠心は、ほぼ完璧に崩壊していていた。紫月は上半身を乗り出し、うつむいたままの森本の背中に右腕を回し、彼の右耳に口を近づけた。互いの側頭が、ピタリと密着したままの姿勢だ。

「簡単ですよ。売上がないのなら、ある事にすればいいじゃないですか」

 森本は全身に鳥肌を立てた。

「これはアメリカで実際にあった話だそうですが…」

 紫月が森本に語った詳細は、読者各位にとっては同じ内容の繰り返しでしかないため割愛する。しかし、それは全て以前中村から聞き出した開明社の内情や業務プロセスに裏付けられたものに他ならなかった。そして、商慣習上返品が必ず生じることに触れるのも、紫月はもちろん忘れなかった。


「どうしたものか…?」

 眼下に皇居を見下ろすソフィア有限責任監査法人のオフィス。新年度より開明社のEM(エンゲージメント・マネジャー)に就任した赤城浪介は、前年度の監査調書と向き合いながら首を傾げていた。監査法人では監査担当者の定期的な異動が一般的である。公認会計士法や日本公認会計士協会のルールで義務付けられているが、監査担当者と被監査企業との癒着を防止するだけでなく、担当者が替わることで視点を変え監査の品質を高める狙いもある。

 既に第一四半期の四半期報告書は開示され、財務局に提出するために主査(現場責任者)が作成した監査実施報告書も今しがたチェックしたところである。四半期レビューは年度監査と違い、時間も手続も制約がある。新規の設備投資や他社株式の取得、あるいは借入や株式の発行など期末の決算数値に直接影響するものを除き、前四半期や前年同期との数値比較が中心となるのが一般的である。

 新任者ということもあり、開明社のビジネスモデルや内外の経営環境、そして内部統制の仕組を理解することを最優先とせざるを得なかった。まして、国内の上場企業のほとんどの決算月が三月あるいは十二月となっている以上、多くの場合職層に関わらず複数のクライアントを並行して対応しなければいけない。赤城は売上も関係会社数も開明社をはるかに上回る別会社の期末監査を同時期に担っていたため、初めて関与した開明社の四半期は、知らず識らずのうちに終わったに等しかった。

 だが、スタッフが作成した監査調書をレビューしているときに、一瞬引っかかるものを感じた。時間が押していたこともありすぐにその場でOKのサインを加えたが、四半期レビュー終了後も喉の奥に留まり続けた。赤城はノートパソコンを開き、過去二期分のエクセルファイルを開いた。監査調書といっても大部分は電子データで保管され、ソフィア有限責任監査法人においてもクラウドにより共有化されていた。

「普通の出版業では考えられないぞ、これは」

 赤城が過去調書で見比べていたのは、「売上債権回転期間」という指標であった。これは売掛金あるいは受取手形等を併せた売上債権の残高と当該期間の売上高との比率によって算出される。例えば売上代金の決済が月末締め翌々月払いであれば、売上債権の残高は翌月並びに翌々月に支払われる代金、すなわち二ヶ月分となるはずである。その場合、

 売上債権残高÷年間売上高×12

の値は、なんらかの例外的要因がない限り、概ね二となるはずである。

 前年度の開明社の売上債権回転期間は、第一四半期から順番に2.48、1.94、3.12、4.85と推移していた。これが今年度の第一四半期に至っては6.13であった。前々年度はどの四半期も二前後だった。つまり、月商の六ヶ月分以上もの売掛金が残っていることになる。

 一件あたりの取引額が莫大な建設業などであれば、入金サイトが長期間に及ぶことは珍しくない。だが、赤城の知る限り、開明社の属する業界においてそのような商慣習は聞いたことがない。取次業者を介することもあれば直販制度もある複雑かつ変則的な取引が混在しているのを差し引いても、赤城の感覚では、長くても三ヶ月以内に支払われるのが一般的である。この期間を恒常的に超過していては、仕入先などに対する支払サイトがこれを上回っていない限り資金繰りが持たない。前述の売上債権回転期間と同じように算出した仕入債務回転期間は、一ヶ月前後で変動はなかった。

 売上債権回転期間の変動する例外的要因で最も多いのは、決算日が休日だったために決済が翌月にずれた結果、売上債権が課題に残ってしまったケースである。だが、今回の第一四半期はもとより、前回の年度決算日もその前の第三四半期も、いずれも決算日は平日であった。

 その次に考えられるのは、滞留債権の存在である。つまり、得意先の経営不振などにより、当初の期日になっても支払がなされない状況を意味する。これが実在するのなら、過去の貸倒実績あるいは相手先の個別的事情を勘案して、一定額の貸倒引当金を積み立てなければならない。プラトン書房について言えば、当たらずも遠からずとも言えた。しかし中村は、予定通りに支払がなければ取引を中止するため滞留債権は存在せず、実際に貸し倒れたこともないと監査スタッフに説明し、スタッフもこれをそのまま信じた。プラトン書房は億単位の「売上」が毎月あるため、開明社の定義する滞留債権には該当しなかった。

 疑問が拭えず煮詰まったまま、赤城は確認状を綴じたファイルを手に取り、パラパラとめくった。めくっているうちに、はたと赤城の手が止まった。

「今時社名を手書きでよこす会社があるのか?」

 確認状には必ず、回答者である送付先の社名および社印が記されている。ほとんどの場合において、その社名はゴム印を捺したものである。常識的に言って、会社の住所と社名を刻んだゴム印を持たない会社は、会社としての実体がある限りまず存在しない。だが一枚だけ、ボールペンの手書きで社名の書かれたものが混じっていた。債権残高は三十億円。

 赤城はすぐさまノートパソコンのキーボードを叩き、その社名を検索した。公式ホームページはおろか、地図サイトで社名が住所・電話番号と一緒にようやく出てきたぐらいである。赤城は携帯電話を取り、電話番号を入力した。

「あ、突然のお電話失礼いたします。株式会社プラトン書房様でしょうか?」

「はぁ、どちらさんどすか?」

「私、 ジェルノン資格アカデミーの三田(さんだ)と申します。パンフレットを置いてくださる書店様を探しているのですが」

「すんまへんなぁ。ウチは五年前に閉めましたんや。会社は残っとりますんで時々お電話頂くんどすが、倅も他所に勤めてて、こがいな小さな本屋なぞ継ぐ気はこれっぽちものうて…」

 確認状に記載されたプラトン書房の住所は東京都内である。もちろん、社名が偶然同じだった可能性もゼロとは言えないが、検索でヒットしたのはいずれも京都の住所で一軒しかなかった。

 携帯電話を握った赤城の掌には冷や汗が滲み、悪寒が全身を駆け抜けた。プラトン書房への売掛金は前年度の第三四半期から増加の一途を辿り、第一四半期において七十億円に達していた。


 金は良き僕(しもべ)にも悪しき主(あるじ)にもなる、というユダヤの諺がある。中村と森本は、果たして金をどう使っていたか、あるいは使われていたのか。日本の諺では悪銭身につかず、とも言う。

「これはさすがに無理があるだろ、森本!」

 赤城がプラトン書房の正体を突き止めたその日の午後十一時、社員のほとんどが帰ったのを見計らって、中村は森本の席まで行って注文書を突き返した。中村の目は窪み、青ざめていた。

「おいおい、今更いい子ぶるつもりかよ」

 森本は両手をズボンのポケットに突っ込み椅子にふんぞり返ったまま、中村を見上げた。

「今月の売上だけで四十億円、返品が二十億円だなんて無茶苦茶だぞ」

「このまま増えるとヤバいから何とかしろって言ったのは中村、おめぇじゃねえか」

 森本はぶっきらぼうに答えた。そうは言っても、森本が中村へ持って来るプラトン書房への「売上」は、回を重ねるごとに増加の一途を辿った。最初の一回目は百万円そこそこだった。そこから返品が二割として、二十万円を森本が作った偽講座に入金し、二人で山分けした。中村からすれば、近所の駄菓子屋で万引きする感覚の延長線上のものだった。だが、売上が架空のものである限り、売掛金は返品か、どこか別の場所から代金を偽装して持って来ない限り、永遠に貸借対照表上に残り続ける。赤城が気づくきっかけとなった売上債権回転期間というものを、中村は一切知らなかった。しかしそれでも、膨張し続けるプラトン書房の売掛金は、もはや限界に達していることは嫌でも明らかだった。会計士試験に合格して二、三年そこそこに過ぎないのに「先生」と呼ばれるのが当たり前と思っている監査法人のボンクラでも、次の四半期レビューでは必ず気づいてくるはずだ。

 だが、監査はおろか会計のカの字も分からない森本に、何がどう危ないと説得できる? 先週は社内成績ナンバーワンを達成し、社長から直々に表彰されたばかりだ。誰にもバレることはないと森本は絶対に近い自信を抱いており、内心では社長を舐めてさえいた。

「な、もうこの辺にしようよ。金は少しずつ戻せばいいじゃないか。な、そうだろ?」

 いつぞやの時とは逆に、中村が森本に頼み込んでいた。森本はいきなり立ち上がったかと思うと、中村の襟首をぐいと掴んで引き寄せた。森本の冷たい眼差しが中村に迫る。

「じゃ、その前におめぇが会社の金横領して未成年買春したってチクってやる。おめぇの女房の実家にな!」

 中村が未成年を買春したというのは、あからさまなでっち上げでしかなかった。しかし、そうと分かった上で森本は中村の弱点を確実に突いた。厳格で何よりも世間体に敏感な中村の両親が本気で信じたらと想像しただけで、中村の心臓は停まりそうだった。金にモノを言わせて偽の証人を引っ張り出すなど、この男ならやりかねないことだった。

「俺とおめぇはな、運命共同体なんだよ。今更退くわけには、絶対にいかねえんだ。絶対にだ!」

 二人が横領した開明社の資金のうち、ほとんどは森本が使い込んでいた。その額は、十億円に届こうとしていた。もちろん、中村も着服していないわけではないが、もともと贅沢に縁遠い彼にとって無理して一千万円そこそこがやっとだった。それに森本と違い、贅沢し過ぎることで足が着くという不安に苛まれ続け、しまいには精神安定剤なくしてまともに眠れなくなっていた。横領した金額の一番の使い途が医者通いというのだから、皮肉としか言いようがなかった。

 では森本が手にした金はどこへ行ったのか。中村は全く知らなかったが、森本個人の預金は七万円程度しか残っていなかった。ただでさえ高級レジデンスに引っ越したのに、来週に引き落とされる予定の家賃の半額にも満たなかった。

 悉くが、マカオやドバイのカジノに溶け去った。まだ最初の頃は「武勇伝」として自慢して回るほどの余裕があったが、取り返そうと回を重ねるごとに傷口は膨張した。株やFX、あるいは先物といった投機にも、注ぎ込めば注ぎ込むほど消えた。金の匂いを嗅ぎつけた怪しげな筋に勧められるがままに手を染めたのもあるが、損を一度で取り返そうと何倍ものレバレッジをかけたせいで、それまでの累計の損失を上回る損がさらに積み重なった。

 それでもクラブ巡りをやめることはなかった。当然代金はツケであるため、これも百万単位で累積した。その中には、「月の兎」も含まれている。銀座の高級店よりはるかに格下であるにもかかわらず、その一月分の代金さえ森本にはどうしようも無かった。

「てめぇの加齢臭の方を、ちいとは心配しろよ。超臭えんだよ」

 中村を床に突き倒すと、森本はそのまま足早にオフィスを去った。ドアの閉まる音に続いて、ウィーンと唸るロックのモーター音。中村は人気の途絶えたオフィスに一人、しばらくへたり込んだまま動けなかった。ワイシャツは粘っこい汗がじっとりと滲んでいた。

 突然、静寂を破るスマートフォンの着信音に、中村は我に返った。相手先は「月の兎」のかなえだった。紫月に連れられた頃にはLINEで二日に一度、生の電話で週に一度は誘ってきたが、中村の反応があまりに悪いため彼女も次第に諦めるようになり、ここ二ヶ月ほどは音沙汰が無かった。

「中村さん…突然ごめんなさい。今すぐ会いたいの。お願い、助けて…」

 今までの陽気な声色は完全に影を潜め、声を震わせていた。異性にほとんど無縁な中村でさえ、只事ではないのは明らかだった。

「場所は…すぐLINEで送るから」

 電話を切った直後に、新大久保のラブホテルのリンクが送られてきた。部屋番号に続いて送信されたのは、青く腫れ上がったかなえ自身の顔写真だった。


「良かった! ずっと怖かったの。ありがとう、来てくれて!」

 中村が指定された客室のドアをノックするなり、かなえは中村に飛びついて遮二無二唇を重ねた。

「でも、急に一体…」

 二人は狭い個室のベッドに並んで座った。写真は三日前のものであり、幾分かは回復していたものの、額と頬の青痣は化粧によっても隠しきれなかった。そうは言っても仕事柄、これでは店に出ることもできない。今更ながら、濃い筋と関わるのだけは御免こうむりたいところだ。不安が頭をよぎった中村だが、よもやかなえの口から森本の名前が出るとは夢にも思わなかった。まして、二人の間に紫月という共通の知人がいることなど想像だにしていなかった。

 札束で引っぱたいてベッドに押し倒すのが、森本の常套手段だった。粗暴なのは以前からだったが、二ヶ月ほど前からは恒常的に暴力を振るわれるようになった。大金をばらまく上客がゆえに、ママに相談しても埒が開かず、とうとう助けを求めたのが中村だとかなえは語った。

「かなえ、あんな人よりも中村さんの方がずっと好き。だって、真面目で優しそうだもん」

 かなえは掌を中村の腿の上に置いた。すぐ先にある中村の股間は、見る見る熱を帯びていた。かなえは巧みに指先を股間へと少しずつ近づけた。中村の心臓は鼓動を早めた。

「ねえお願い。かなえの側から離れないで」

 かなえは中村の方を向いてぴったりと唇を押し付けると、体重を預けて中村に覆いかぶさった。ひとしきり濃厚な接吻の後に、ワイシャツを剥ぎ取り乳首へと舌を這わせた。未経験の刺激に中村は小さく呻いた。


 かなえの息を腕枕の上腕に感じながら、中村はついさっき味わった絶頂の余韻に浸っていた。互いに全裸のまま、かなえは中村にぴったりと身体を密着させ、中村を見上げていた。

 彼女を救えるのは、俺しかいない。腹を決めた中村は、森本との粉飾決算と横領を洗いざらいかなえに打ち明けた。そして、警察に自首することも明かした。当然ながら、共犯として森本も逮捕されるし、実際に横領した金額はほとんどが森本によるものでもあるので、それだけ自身の刑も軽減されるだろう。もとより嫌気がさしていたんだ。上手くいけば、執行猶予も付くかも知れない。

 かなえは大筋で同意しつつも、一つだけ中村に懇願した。自首する前に、森本と決着をつけるである。中村は渋ったが、やはり男としてケジメをつけること、そして刑期を終えた森本の「お礼参り」が怖いと訴え、これを受け入れた。

 中村が待ち合わせ場所に指定したのは、芝浦の埠頭に翌日の夜一時だった。しかし、そこに森本は現れなかった。森本の代わりに現れた三人の黒服の男は、胸ポケットから何やら免許証のようなものを取り出した。

「すみません。ちょっと署までご同行願えませんか?」

 森本は逃げたわけではない。中村が現れる五分ほど前のことである。

「あの、森本さんだね?」

 約束の場所へ一足早く訪れ煙草をくゆらしていた森本へ、一人の小柄な男が近づいて尋ねた。男は両手を背中に回したまま、上目遣いで森本を見上げている。

 あんたは?と森本が答えるのを待たず、男の前蹴りが森本の鳩尾を捉えていた。格闘技経験者でも反応が困難なほどの速さと的確さだった。たちまち森本は崩れ落ち、うずくまった。男が後手に隠し持っていたガムテープを森本の口と両手に手早く巻くと、もう一人の大柄な男が背後から森本に頭から全身まで麻袋をすっぽり被せて担ぎ上げた。大柄な男は海辺に歩み寄り、麻袋を海へと放り投げた。放り投げた先には一台の小型ボートがあった。森本を載せたボートが埠頭を去るまでの間、ものの三十秒にも満たなかった。もちろん、森本が窒息死しないよう鼻を塞がないようにガムテープを巻いたことも、わざと形跡を残すように靴の片方を海に投げ捨てるのも、彼らは忘れなかった。

 中村が警察に任意同行を求められたのは、粉飾決算とは無関係だった。つい先頃、男が何者かによって拉致されたとの通報があり、中村が関与を疑われたのだ。もちろん、中村には寝耳に水である。しかし同時に、森本を共犯とすることで自身の罪を軽減するシナリオが崩壊したことも意味した。

 さらに悪いことに、森本の靴が片方、現場周辺の海に浮かんでいるのが発見された。粉飾決算と資金横領を隠蔽するために森本を殺害し海に沈めた。あるいは仲違いして争った末に誤って海に転落した。粉飾決算を警察が知れば、普通はそう判断するだろう。皮肉にも自首を決断した中村は、それを口に出せぬまま拘留の日々が続いた。

 粉飾決算が明らかとなったのは、森本の自宅の家宅捜査だった。森本の金銭トラブルの数々はすぐに把握していたが、プラトン書房と書かれた確認状の控えと同社の丸印に、捜査員は首を傾げた。住所は確かに森本の自宅と同じであり、筆跡も彼のものと結論付けられた。ソフィア有限責任監査法人の確認状は三枚複写式であり、一枚は監査法人用、もう一枚は被監査会社控、そして残りの一枚は回答者の控として、返送されずに残された。下手に処分すれば逆に足が着きかねないと思って、捨てるに捨てられずにいたのだろう。警察の問い合わせを受けたマネジャーの赤城は、「本物」のプラトン書房が京都にある事実を突き止めたことを話すとともに、その後入手した同社の登記簿謄本も提出した。確かに最新の住所は東京都内の森本のマンションになっているが、前年に京都から突然移転していることを履歴が示していた。

 開明社の粉飾決算と資金横領について、中村は追及されるがままに全てを認めた。だが警察は、森本に係る立件も諦めなかった。現場周辺ですぐに水死体が引き揚げられるだろうという警察の目論見は外れ、殺人も死体遺棄も決め手を欠いたままだった。それでも、横領した金を使ってその筋の者を雇うなどして森本を消すことはできる。取り調べは辛辣を極めた。既に横領罪によって逮捕されているため、中村に逃げ場はなかった。

 それでも中村にとって、森本の失踪に関しては明白な冤罪だった。心が折れそうになる度に、いずれ濡れ衣は晴れると自らに言い聞かせ、辛抱強く耐えた。中村の心の支えは、かなえだった。そもそも彼女を森本の暴力から救うため自首を決めたのだ。彼女なら、自分を理解し、支えてくれるに違いない。出所したらかなえと再婚し、二人で新しい人生をやり直そう。

 しかし中村が拘留されてから、かなえが面会に現れるのはおろか、手紙一枚届くことはなかった。かなえも森本を拉致した輩に狙われたのか、あるいは身の危険を感じてどこかに身を潜めているのか。そう思いを巡らしもしたが、待てど暮らせど弁護士を除いて彼の許にやって来たのは、妻からの離婚届だけだった。


 開明社の株価は事件発覚前の六割にまで暴落し、カリスマで音に聞いた社長も引責辞任を余儀なくされた。更に追い討ちをかけるように同社のブラック企業体質までが次々と暴露され、作詞家の北野大輔に留まることなく週刊誌の追及は加熱する一方だった。十億円もの会社財産の毀損並びに開明社の社会的信用の著しい失墜に対し株主代表訴訟が提起されるのは、時間の問題だった。

 紫月が開明社株式の空売りによって得た利益は、軽く一千万円を超えた。もちろん、取引窓口も下手に足が着かないよう、二重三重に匿名組合やペーパー会社を介するスキームを組むことに抜かりはなかった。それでも紫月にとって、ノーリスクに近い状態で得られた利得である。

 紫月が実際に行ったのは、中村と森本それぞれに粉飾決算の手法を「伝授」しただけであり、二人に粉飾決算を指示したわけでも、自ら手を下したわけでもない。たとえ尋問されても「こんな事例もありますよ」と教えただけと言い張れば、他に証拠がない限り警察とてそれ以上の追及はできない。まして、二人とも互いに相手が紫月と関わっていることを知ることはなく、たとえ獄中の中村がどんなに紫月に唆されたと法廷で訴えようが、共犯である森本がいない以上、紫月の関与を立証する可能性は、ほぼゼロであった。いわば紫月は「不能犯」だったのである。

 まだ三十代半ばであり、なおかつ大学で体育会に所属していた森本は、債権者にとって元本を補って余りある「人材」だった。「体で払え」という言葉ほど普遍的で、逆に何人も逃れられないものはない。国内であれば原子力発電所、国外でも建設ラッシュに沸く新興国であれば、例外なく歓迎される。おそらくは、原発よりもジャカルタ辺りの地下鉄工事が妥当な線だろう。せっかくの健康体にかかわらず放射能で内臓が冒されてしまっては、切り売りすることも出来なくなるからである。安全で健康というイメージがあるのか、国外では日本人の臓器や血液の人気がなぜか高い。いずれにせよ、日本の警察が森本に辿り着くことが金輪際無いことだけは確かだ。

 森本がカジノや投機で失った穴を埋めるために金を借りた業者も、そもそも彼が手を染めた投機も、全ては紫月が紹介したものだった。そしてあの日、かなえを通して芝浦に森本が現れると彼らに伝えたのも、紫月だった。しかしあくまで、それ以上でもそれ以下でもない。紫月が紫月自身で利益を得たように、彼らは彼ら自身のビジネスに徹しただけのことだった。

 それが、今の紫月の生きる術に他ならなかった。

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