41.ずっと江戸にいたい……、現代に帰りたくない……

「印旛沼干拓工事の中断という土産をやったのだがな、どうにもバカどもは口を開けば『質素・倹約・備蓄』だ―― 予はバカが嫌いなのだ」

 

 田沼意次はそう言うと、乱暴に柿の種を手にやって口に放り込んだ。

 親の敵のようにバリバリそれをかみ砕いていく。


「はあ……」


 柿の種を喰らいながら、ブツブツと愚痴る老中様に対し、生返事をする俺。

 その内面は、怒りの雄叫びを上げる寸前まで行っているような感じがした。


 しかしだ――

 とにかく、俺は疲れていた。

 全身に鉛がコーティングされたような状態で、頭も重い。


 天候とかのタイミングの悪い、印旛沼工事は「再検討」という形で政敵に譲歩した形にしたのは反対ではない。

 実際に、未来の技術をもってしても、失敗の可能性は高いのだから。

 そして、海運に関しては代案もある。

 ぼんやりした頭で、俺は考える。


「なにか、相当に疲れておるようですが? 土岐殿」

 

 同席している田沼意知が俺に訊いていた。田沼意次の息子。かなり出来る男だ。

 それほどまでに顔に疲労の色がでていたのだろうか。

 二一世紀の科学生み出したランランの明かりが恨めしい。


 いつも、秘密の会合をしている大書院には、現代から持ち込んだ乾電池式のランタンが灯っている。

 この江戸屋敷にも、いずれ発電機を持ちこむ予定だが、今はこれで十分だ。

 二一世紀の夜の部屋程度には明るい。


「まあ、二一世紀(あっち)でも色々ありまして……」


 俺は、先ほど二一世紀から江戸まで、電動アシスト自転車でやってきたとこなのだ。

 しかもリヤカーには最大積載量である七〇〇キログラムの荷物を積載してだ。

 肉体的に疲れていることは当然だが、今はそれよりも身もふたもない程に、精神的な限界点に立っている。

 心がへし折れそうなほどに疲れていた。


「うむ…… 確かに顔色が良くない―― 何があったのだ?」


 少し心配そうな顔をして田沼意次も言った。


「まあ、私事でして…… 大丈夫ですから」


「うむ、ならばよいが―― それにしても、頭が固すぎるわ―― アホウでないだけに始末の悪いバカだ」


 田沼意次は、再び幕政の愚痴に戻る。その相手はなんとなく分かっている。


「ときに、これが未来の武術の指南書――」


 身を乗り出すようにして、田沼意知が訊いてきた。

 初めて会ったときに比べ、明らかにガタイが良くなってきている。


 彼には今回、ブラジリアン柔術、自衛隊格闘術、クラウマガ、システマなどのDVDなど持ってきた。

 彼はそれを手に取って眺めているのだ。本で、江戸時代の人が分からないだろうとこは、俺が少し脚注をいれた。

 ただ、絵図が多いので、読解にはそれほど困らないと思う。


 DVDは見れば分かる。

 ノートPCは、田沼屋敷にもあるし、太陽光で充電できる小さな発電機もある。

 あれなら、怪しまれない。B5ノートほどの大きさもない。


「まあ、そうです。円盤はPCに入れて見てください。この前教えた通りです」


「うむ、これで、佐野めをぶちのめしてくれるわッ!! くッくッくッくッ」


 ランタンの明かりの中に、獰猛な牙を秘めた老中の息子の相貌が浮き上がる。


 田沼意知が城中で暗殺されるのは天明四年(1784年)三月二四日だ。

 佐野善左衛門政言に、左肩に一撃をくらい、両腿の付け根を斬られる。

 即死するような致命傷ではなかったが、その傷で命を落とす。


 安永八年(1779年)の現時点から見れば約五年後だ。

 田沼意知は親の七光りだけではない、優秀な人材だ。

 政治家として、経済的センスはもしかしたら父親以上なのかもしれない。


 死なれては困るが、その対策に格闘技に専念するというのは、どうかと思う――

 まあ、そのうち対策は練るけど。実際は暗殺事件が起きないのが一番なのだか


「江戸城にエレキテルを導入する計画は、しぶしぶ認めたが――」


 田沼意次と俺、平賀源内を中心とする江戸改革プロジェクトは、同時並行で色々と進んでいる。

 水車の動力による発電機を回し、江戸城を電化する計画は、どうにか進むようだった。

 すでに、発電機の手配も終わっている。


「上様、大奥も、エレキテルの明かりを歓迎しておる。油代の節約になれば、『質素・倹約』しか言えぬバカには反論もできん」

「そうですね。あとは、源内さんと調整をして、一気に行けると思います」


 江戸城の一部。大奥や将軍の暮らす場所、田沼派の会議室などを電化する計画だ。

 それほど、大きな電力ではないが、一般家庭レベルの家電は使える。

 照明器具だけではなく、冷蔵庫も使える。これはデカイ。

 

 江戸時代は冬に用意した氷室から取り寄せたドロだらけの汚れた氷を口にすることすら将軍にとって最高の贅沢だった。

 氷の生成は病気対策にもなる。


「びたみんざいも、菓子として大奥で大歓迎じゃ。上様もご興味を示されておる」


 天明六年八月(1786年9月)に脚気で亡くなってしまう徳川家治も今からビタミン剤飲んでおけば大丈夫だろう。

 ビタミン剤といっても、マンゴー味やレモン味のついたラムネのようなものだ。

 上流階級でも甘い物が珍しい、江戸時代の人にとっては「斬新なお菓子」だ。


 ちなみに180錠(3か月分)で1000円しない。

 この安さなら、庶民に売ってもいいのだが、まずは「ブランド」の形成が重要だ。


 フラフラした頭で、俺はなんとか思考をまとめる。


(あと…… なにか、あったかなぁ…… えっと……)


「蝦夷地探索に横やりが入りそうな気配がある――」

「え?」

「白河公(松平定信)だけではなく、一橋家の重臣にも不穏な動きがあるのぉ~」


 いつの時代でも生き馬の目を抜く、権力闘争の最前線。

 そこで、生きている男の眼を鋭く光らせ、田沼意次は呟くように言った。

 そして、コーラーを煽るように一気に飲むと、豪快に「げふぅぅ」とやった。


「しかし、それは幕府で正式に決めて、人選も――」


 すでに人選は終わっている。史実の通りだ。

 この中には、あの有名な最上徳内もいる。ただ、この時点では身分が低すぎるのだが。


「人選に割り込んでくるつもりかもしれぬな……」

「船は出来ておる。しかし、今出発すれば、蝦夷地で冬を越すことになる――」


 そもそも、今回持ってきたのは、船のエンジンなのだ。

 日本の一流メーカー製で外付けのエンジンとスクリュー。

 そして、現地活動用の四輪バギーも用意してある。


 このようなモノが、政敵に知られるのは非常にまずい。

 知られるにしても、タイミングというものがある。


「蝦夷地の冬を越せる装備―― それは可能であろうか? 土岐殿?」


 田沼意次は真っ直ぐな視線で俺に訊いてきた。

 疲れていたヘロヘロになった頭に、すっと一歩筋が通った気がした。

 その視線が脳まで、突き刺さったのかもしれない。


「可能性は検討してみます――」


 俺はそう言うにとどめた。

 無理ではないかもしれない。しかし、ここで断言はできない。

 俺は冬山登山とかの専門家ではない。

 

「頼む―― 飢饉対策を含め、全ては敵に先んじなければならぬ――」


 飢饉が本格化するまでの時間もどんどん無くなっていく。

 真剣にやっていかなければ、俺がこの時代にいる意味もない。

 そして、俺の目指す、俺の見て見たい「近代日本」もなくなってしまう。


「今回の蝦夷地探索が、将来の蝦夷地開発―― ひいてはロシアとの交易、なし崩し的な『長崎貿易』の拡大を恐れておるようだ」

「そこまで、読まれてますか?」

「分からぬ。バカではあるが、アホウではないからのぉ」


 田沼意次は独特の表現で政敵を語った。

 この時代の常識から考えれば、田沼の政策の方が「異端」だ。

 貿易に関して言えば、ヨーロッパの国ではオランダとだけ付き合うようになったのは、結果論のようなものだ。

 徳川家康は、イギリスにも交易の了解を出している。

 この二国は、キリスト教の布教よりも、交易の利益が欲しかった。


 ただ、イギリスは清やインドとの貿易で手いっぱいになったのか、日本から自然に手を引いて言った。

 イギリスの場合、どうやら日本から拒絶したわけではないのだ。


「世界の情勢を正確に知るにあたり、オランダ一国に依存するのはバカげておる」


 田沼意次が言った。オランダ風説書にことだろうか。

 歴史では、アヘン戦争の情報、ペリー来航など、役にたったものであるが、狭い情報範囲であることは確かだった。


「商売は競争相手がいることで、値も下がります。オランダの独占はオランダの利である一方、日本の損でもあると思います――」


 田沼意知が言った。一八世紀の江戸人でここまでのことが言える人材はそうはいないだろう。

 頼もしい二代目だ。格闘技だけに専念して欲しくはないのだけど。


「まずは、蝦夷地探索―― これは、日本国の安全にも関わる」


 田沼意次は話を戻す。

 その通りだった。幕末、樺太に入植していた日本人は、国力の差かから、樺太を手放す。

 千島樺太交換条約は、当時の日本とロシアの国力差を考えれば、外交的な勝利だったかもしれない。


 しかし、まだこの時代、樺太はどこの国のものでもない。

 

 もし、樺太全島が日本領となっていた場合、近代日本は、朝鮮半島問題に、あそこまで神経質になっただろうか?

 俺はふと、そんなことも思った。


「冬の蝦夷地―― 完ぺきな防寒対策が必要ですね」


 冬山を登るような装備でいいのだろうか。

 そのようなモノであれば、揃えることは可能だ。


「とにかく、急な話ではあるが、急がねばならない――」

「やれるだけのことは全部やってみます」


 俺は言った。その言葉には裏も表もない。本心から出た言葉だった。 


        ◇◇◇◇◇◇


 俺は、現代に戻ることなく、居候中の源内さん宅に戻り就寝。

 新しい家は、蔦重さんが探してくれているはずなので、明日行ってみようと思う。

 

 それにしてもだ――

 

(くそ…… もう、京子と付き合うことになったけど…… マジで大丈夫なのか―― 俺……)


 掻巻(かいまき)布団に頭を突っ込んで、俺は、あの日のことを考えるのだった。


 田辺京子は、俺のことを本気で好きだった。

 中学時代からずっと好きだったらしい。

 で、あるなら、とっとと告白すれば、俺はOKしただろう。


 中学時代を思えば、見た目は抜群のメガネの美少女の後輩だ。

 高校も前半まではそうだ。

 それが、なんか知らんが、変態下品ビッチ女子高生になっていった。


 普段の俺に対する言動は常軌を逸し――


『先輩ぃぃ、誰もいない教室で犯して欲しいのですぅ?~』

『先輩のここは、正直です。この私のロリボディをそれで、思う存分蹂躙して欲しいのです?』

『先輩の匂いだけで、京子は濡れ濡れになってしまうのです?』


 とかドンビキのセリフを言うようになった。

 それは、全て友人から借りたエロ漫画のせいだった。

 彼女は俺の鞄に「ビッチ系エロ漫画」が詰まっているのを見て、俺の好みを「ビッチ」であると判定した。

 友人から無理やり押し付けられ、借りた物だと知らずにだ。


 そして、俺を「ビッチになること」で落としにきていたのだ。


 途中で気づけと言う話だ。

 しかし、思い込みの強い田辺京子は、俺の前でビッチを演じるうちにマジの変態になっていた。


 江戸時代の専門家というアドバンテージ。

 その膨大で詳細な知識。

 確かに、俺には田辺京子が必要だった。


(くそ…… どうする。俺……)


 見た目は決して悪くない。

 俺の好みである「巨乳」「お姉さま系」とは外れる。

 しかし、田辺京子は、二六歳には見えない美女というか美少女と言った方がいい感じの存在だ。

 決して悪くはない、見た目は――


(だけど、疲れるんだよ。相手していると…… 精神が疲弊する……)


 ビッチキャラを演じるうちに、真正の本物になってしまった田辺京子。

 交際をOKした日――

 俺は、その時のことを思い出す。


『帰るなんて信じられません! もはや、朝チュンの展開です!』


 田辺京子が俺にしがみ付いてきた。本当に胸がペッタンコだった。

 ただ、いい匂いがしたのは確かだ。

 しかし、なし崩し的に付き合うことになったが、一線を越えてしまうのはどうか?

 

 田辺京子の目的は俺との結婚である。

 それ以外にないのだ。

 そこまで一途だと、情も移ったりするものだが、相手が相手だけに腰が引ける。

 取り返しがつかない人生が待っているような気もするのだ。


『もう京子は我慢できないのです! 後でも前でも準備OKです!』


 どこかで聞いた歌のようなことを言いながら俺に迫る一四六センチの彼女。

 ついさっき、彼女にしたのは事実だ。


『いや、いきなりそれはまずいだろ?』

『もう、お互い大人なのです? それとも、駆け引きですか? ああ、私を焦らして、弄ぶのですか? あ?、あ?、あ?、あ?―― 感じてしまいます?』


 もはや会話がエロ漫画の中でしかあり得ないような状況になる。

 頭の芯が痺れてくる。マジで。


『江戸で、用事があるんだ。分かるだろ? そのためには、京子の力も必要だ。俺はお前を裏切らないし、時もオマエを裏切らない。多分、夢も――』


 俺の言葉に、少し冷静さを取り戻す田辺京子。

 

『思えば、私も明日、仕事なのでした――』


 この変態が大学に准教になっているというのが信じられない。

 しかし、専門分野では、優秀なのは事実なのだ。


『そうだろ、今日はもう帰って……』

『いえ! 嫌なのです!』

『えーーー!!』

『愛に常識は不要なのです。朝までが無理ならちょっとでも! 五分もあれば、既成事実を作るのは十分――』

『アホウか! 別れるぞ!』

『それは、無理なのです! もはや先輩は私の愛の軛から逃れられないのです!』


 勝ち誇った田辺京子は、一四六センチの身体で胸を反らして俺を見た。

 口が三日月形に笑い、丸眼鏡が怪しく光る。


『ぐぬぬぬぬぬぬ――』


 俺は人生を大きく踏み出してしまったような、恐ろしさを感じた。

 圧倒的な、恐ろしさ。恐怖。しかし、もう後戻りはできない。

 

 だた、とにかく、この場は、田辺京子に帰って欲しい。それだけは思う。

 明日、江戸に行くのは本当なのだ。四キロの道のりを、七〇〇キロの荷物を積載したリヤカーを引いてだ。

 

 俺は、その大変さを一生懸命説明する。

 そして、妥協案を提示するのだった。

 

『今月中の週末でデートするから。な、ほら忙しいのは分かるだろ? 常識的に考えて。お互いに――』

『むぅ―― デートですか。確かにデートは魅力的です?』


 とにかく俺はその場を「デートの約束」をすることで切り抜けた。

 二六歳の大学准教が、少女のように飛び跳ねて喜んだ。

 長いポニーテールが揺れている。


 不覚にも「可愛い」と思ってしまった俺。

 その心めがけて、鉄拳を喰らわせたくなる。


 そう言った次第で、俺は「朝チュン」の危機を乗り越え、田沼の江戸屋敷で会談を行い、源内さんの屋敷に戻ってきたのだ。


「ずっと江戸にいたい……、現代に帰りたくない……」


 誰も聞こえない声。

 口の中で俺は呟く。

 

 江戸、現代交易をするのだから、そう言う訳にはいかない。

 でも、ずっとこの温かい布団の中で俺は寝ていたかった。

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