27.魁!土岐総研塾 江戸のシンクタンク誕生

 オランダがダメなわけではないということは、十分に注意した。

 蘭学の否定ではない。蘭学を捨てるのではない。

 その上に積み重ねるのだということを注意してつたえないといけない。


 気が付くと口の中が乾いていた。


「ちょっと失礼」


 そう言って俺は脇においてあったペットボトルの水を飲む。


「あのような、見事なギヤマンの器を……」というような呟きが聞こえた。

 


「オランダがダメになったというわけではないです。ただ、かつてのようなヨーロッパでは他の国もどんどん台頭してきています」


 一八世紀の時点でオランダがヨーロッパの先進国であることは事実だ。


 アムステルダムの金融資本のシステムは、大航海の投資リスクを分散し、オランダを巨大な海洋商業国家にした。

 ただ、オランダはその貯め込んだ富を、イギリスに投資してしまったわけだ。

 己の稼いだ金で、商売敵を着々と育てていったのだ。


「今、この大陸―― アメリカ合衆国で独立戦争が起きています。オランダはこの戦争に巻き込まれています」


 世界地図を指さし俺は言った。

 イギリスはこの戦争に負けてアメリカの独立を許すことになる。

 しかし「パクス・ブリタニカ」と言われるイギリス絶頂期が始まる時期でもあるわけだ。

 一八世紀後半とはそう言う時代だ。


「イギリスがオランダに代わり、大きな力を持つ時代が来ます。そして、この独立したアメリカ合衆国もです」


 ここには一応幕府の役人もいるのだ。田沼派とはいえ、ショック受けさせるのはよろしくない。


「要するに、大神君・家康公の時代に戻ればよろしいのですよ。イギリスとも付き合い、有用な知見だけを我が国にいれればいいのです」


 家康は外国勢力を警戒しつつも、「ご朱印状」を発行して、貿易振興策を採用していたのだ。

 この時代でも調べれば分かることだ。ただなぜか「鎖国」をずっと昔から続いている決まりだと思いこんでいる。


 イギリスとは過去に付き合いがあった。

 徳川幕府は、大阪冬の陣ではイギリスから大砲と弾薬を買っている。


 俺は「家康公」を出汁に使ってイギリスに目を向けさせていく。


「つまり、イギリスの言葉も今後は憶えて行かねばならなくなるでしょう――」


「土岐殿――」


 またしても前野良沢だった。俺の言葉に反応していた。

 全員の視線が彼に集まる。


「外国の言葉、それをひとつ身に着けるのに、どれほどの時間と労力がかかるか―― お分かりかと思うが……」


 杉田玄白が禿げた頭をコクコクと頷かせている。

 それは、辞書も何もないところから、医学書である「ターヘル・アナトミア」を訳した苦労で想像つく。

 彼らにとって、外国語を学ぶのは「苦難」であるという認識はリアルタイムで共有していることだ。


「Veel kleintjes maken een grote.(塵も積もれば山になる)」


「ぬっ……」


「まあ、努力を積み重ねれば、成果を出すことは、貴方がよく御存じのはずでは?」


 ネットで調べた「オランダ語のことわざ」でハッタリをかます俺。

 ネット翻訳サイトで何回も発音を聞いて練習したのだ。

 

 これ以上は「カステラ」と「ミルフィーユ」しかオランダ語の知識ないので、早々に話題を変えるのだ。


「ヨーロッパの言語は、アルファベットが基本です。そもそも『ターヘル・アナトミア』も元々はドイツ語で書かれたものです。オランダ語ではないです」


「Small things add up to make a big difference.(しゃる しんぐす あど あっぷ とぅ めいく あ びっぐ でぃふぁれんす)」


 俺はそう言って、今度は英語のことわざを黒板に書いたのだった。


 そして、バーンと黒板を叩く。一斉に視線が集まる。


 なんか、気持ち良くなってきた。

 テンションが上がってきた。


「やればできる! これがイギリス語です。『小さな努力でも大きな差を生み出す』という意味です。日本にも、オランダにもイギリスでも同じです。努力しなければ、なにもない。すれば、その差が生じます! それは、皆さんが体験していることじゃないですか」


「そ、そのイギリス語は、どこで学べるのですか?」


 前野良沢が喰いついてきた。懐疑的な目の光がなくなり、キラキラした目で俺を見ているのだ。

 こういうのを見せられると、本当に俺までやる気になってくる。


「私です。望むなら、この土岐航が教えます―― イギリス語などオランダ語より簡単です」


 俺は断言した。少なくとも俺にとってはそう。

 感動を含んだかのようなどよめきがこの「天真楼塾」講堂の空気を染めて行ったのだった。


        ◇◇◇◇◇◇


「これが、このようなものが……」


 俺は、顕微鏡も持ちこんでいた。

 中学校で使うような「顕微鏡セット」だ。

 ピンセットとかメスとかがセットになって、三〇〇〇円くらいで買える。

 一〇個ほど買って江戸時代に持ち込んだのだ。


 医者が多いので、これが一番インパクトのある道具だと思ったのだ。


 世界情勢の話がひと段落したので、顕微鏡を出して、微小な世界を見せている。

 要するに「社会科」から「理科」の時間になったわけだ。


「泥水の中には、こういう目には見えない生き物がいっぱいいるわけですよ」


 泥水を汲んで顕微鏡にセット。

 蘭学者たちが、順番にそれを覗きこんでいる。

 最初は順番に見ていたが、次第に奪い合うようにして、顕微鏡を覗きこんでいるのだった。


「ちょっと待て、もっと見せてくれ」

「オマエさっき見たろ? もう交代だ」

「すごい、何だこれは――」

「このような生き物が、汚れた水の中に……」

「何と、不可思議な……」


 で、俺はパンパンと黒板を叩いた。


「ちょっといいですか―― 今見たモノが、『微生物』といわれるものです。さらにもっと小さな生き物も、この世には存在するのです。病気中には、こういった目に見えない生き物が起こすモノがあります」

 

 俺の言葉を一八世紀の最先端、蘭学医たちが傾聴し、俺の板書に注目しているのだ。

 すごく気分がいい。いや、こういった#啓蒙__けいもう__#が、日本の近代化につながるはずなのだ。


「土岐殿…… この世な道具はいったい」


 杉田玄白が感心を通り越して、感動を露わにするかのような声で言った。

 

「色々ですよ―― 機会が来ればいずれ明かしますが」


「とても、この世の道具とは思えぬ……」


 杉田玄白はそう言うと、顕微鏡を覗きこむ順番の列に加わって行った。


 俺はなんかこう、江戸の改革が大きく動き出すような感じになっていた。

 要するに「行けるんじゃね?」という感じだ。

 確かに、解決しなければならない問題はまだ多いが、やってできないことはないはずだ。


「これは、いったい――」


 若い男が風呂敷をかぶせてある道具に気づいた。

 そして、俺に訊いてきたのだ。


「貴方は?」

「桂川#国瑞__くにあきら__#。#甫周__ほしゅう__#と呼ばれております」


 最年少で「解体新書」翻訳に関わった蘭学者だ。

 次世代の蘭学界を背負って立つ人材となる人物だったはず。


「それは、望遠鏡といいまして、遠眼鏡ですよ。遠くの星を見る道具です」

「そ、そのようなまでも……」


 望遠鏡も持ちこんでいるのだが、それはまだいずれの機会だ。

 暦に関しても、今は不完全な物を使っているはずだ。

 ただ、今の江戸の天文方では、改暦がどうにもできず、いずれ大阪の麻田剛立に頼ることになる。

 まあ、それも早めに連絡をつけて、知識人の「挙国一致体制」を構築したいのだ。


 一八世紀の日本の人材は、同時代の他国に劣るところはないはずだった。

 まあ、田辺京子の受け売りだけど。


「土岐殿」


 背後からの声で俺は振りむいた。

 立っていたのは、前野良沢だった。


「先ほどのイギリス語の話ですが――」

「はい」

「この、良沢を弟子にしてくだい!!」


 いきなりデカイ声で、前野良沢が言った。

 その声で、全員が俺の方を振り向く!


「弟子に! ならば、私も!」

「私も! ぜひ!」

「このような物を見せられては―― 某も」

「某も!!」


 ワラワラと弟子入りの声が上がる。

 しかし、ここは、あれだよ「天真楼塾」って玄白さんの私塾だよ。

 生徒を奪うとかできないから。心情的に。


 と、思っていたら――


「この杉田玄白も、土岐航先生の進んだ知見をぜひ学びたいと――」


 塾の経営者まで、俺に弟子入りを願っていた。

 禿げ頭が、土下座していた。


 あ――


 そして、その日、俺に弟子がいっぱいできた。

 一八世紀を代表する。蘭学者たちだった。


 二一世紀のチートな知識を教え込む『土岐総研塾』が一八世紀の江戸で産声を上げたのである。

 江戸のシンクタンク誕生であった。

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