24.俺、天才学者として江戸デビュー?
「ちと、肌寒いな……」
すでに俺が江戸と現代を往復して2か月以上が経過。
江戸の暦では6月から8月になっている。
そして、季節は秋だ。現代のカレンダーに直すと9月も半ばを超えている。
江戸時代の布団は、綿の入った夜着が中心で、四角い掛け布団が出てくるのは、江戸もかなり後期。
それも普及は関西からで江戸はその後になるはずだ。
田辺京子という名前の付いた、エロビッチ眼鏡チビから教えてもらったことだが。
(あいつ、留守中に俺の家とか忍び込んだりしないよな……)
京子は大学の史学講師で江戸時代の専門家である。
知識の面では俺は本当に助かっている。
しかし、一般的な「常識」というか「モラル」の面では何一つ期待ができない存在だ。
ピッキングで忍び込まれて見られるとヤバいモノが結構有るのだ。
千両箱とか着物のとか小間物やら浮世絵の類が、日本円に変身するのを待っている。
まともに計算したら軽く億を超えるはずなのだ。
今は、2DKのアパートの一室を倉庫代わりにして、そこに保管をしている。
元々物置のような部屋だ。ただ中を軽く見ただけでは分からないようにはなっているが。
しかし考え出すと、あのエロビッチ眼鏡チビが、俺の不在中に何をしでかすか不安になってきた……
京子の知識は欲しいのだが、家に入れると危険極まりない生物でもある。
部屋のゴミ箱を漁る。俺の歯ブラシを持って帰ろうとする――
あまつさえ、トイレに行ったのかと思うと、洗濯前の汚れ物を物色してやがるのだ。
丸眼鏡の下の大きな瞳を潤ませ「せ、先輩のパンツが欲しいだけです。 愛してるんです! しゃぶりません! 絶対にしゃぶりませんから!」とか言いやがるし。
俺のパンツを握って、シャブろうとしてやがったのだ。
おかげで、コイツの頭を叩くビニールバットの七代目の寿命がつき、八代目に世代交代した。
世代交代が激しい。
「早めに現代に戻った方がいいよな…… 他の件もあるしなぁ」
俺は独りごちながらも、掻巻(かいまき)と薄っぺらい敷き布団をたたむ。
平賀源内の屋敷にはそれなりに使用人もいるので、本当はそんなことすることはない。
ただ、なんかこう、自分で畳まないと落ちつかないのだ。
ガラリと戸が開く音がした。
振り返ると、平賀源内がいた。江戸時代の生んだ天才。
はっきり言って、歴史や伝承以上の存在だ。ほとんどチートというか、オーパーツの天才。
「なんでぇ、布団なんて畳まねぇでもいいんだぜ」
「いや、なんとなく」
「ま、いいけどよ」
そう言って俺が寝ていた部屋に入ってくると、庭の方を向いている板戸を開けた。
一気に、朝の光が流れ込んできた。
「二三〇年後でも人間は、夜は寝るし、朝は起きるってのは、変わらねぇんだな」
好奇心旺盛な子どものような目で俺を見つめながら言った。
「人間は同じですよ。二三〇年後でも。多少夜は長く起きてますけどね」
そりゃ、生き物としての人間自体は早々変わるもんじゃない。
そんな俺の言葉を聞いて「そうだろうな」という感じで頷く源内。
「ま、あれだけ便利な道具がありゃ、夜も何かしたくなるだろうさ」
「そうですね――」
「朝餉(あさげ)が終わったら、ちょっと行くかい?」
「え? お昼からじゃないんですか?」
今日は杉田玄白に会いに行く予定になっている。
しかし、それは昼からだったはずだ。
「予定が変わったんですか? 源内さん」
杉田玄白はただの「蘭方医」というだけはない。
当時の最先端科学ともいえる「蘭学」を学ぶ「蘭学者」ネットワークの中心人物だ。
多忙な日々を送っているはずだ。
「いや、変わらねェよ。ハゲ玄白のとこにゃ、昼過ぎでいい」
「え? じゃあ――」
「まあ、色々な…… ワタル殿には見てもらいてぇんだよ」
平賀源内はそう言うと、俺の前を横切り、濡れ縁に出て伸びをした。
「まッ、でよ、道々、話もしてぇしな」
彼は俺に方を振り向き、いつもの飄々とした感じではない口調でそう言った。
◇◇◇◇◇◇
「これは…… なんというか」
今まで俺は武家屋敷とか、商店が軒を並べるようないわゆる繁華街の江戸しか見てなかった。
それ以外の場所には用などないからだ。
俺と源内さんは朝餉を済ませると、家を出た。
源内さんは、俺が今まで行ったことないような場所に俺を連れて行ったのだ。
江戸は武士の街だ。武家屋敷はそこそこ皆広い。
しかし、一般の庶民は狭い場所に押し込められ、密集して生活していた。
確かに、江戸の街は緑が多く、武士や金持ちがいるような場所から見ればキレイな街だった。
風が吹けば森の匂いのする街だと思っていた。
でもそれは、江戸という街の一面にすぎなかった。
「まッ、『橋は群衆の人にたわみ、河は蹴上の流塵(ごみ)に埋む』ってな――」
「え?」
「『根南志具佐』だよ。天竺浪人って戯作家が書いたもんだよ。知ってるかい?」
「それ…… 源内さんでしょ」
俺の言葉を聞いて源内さんはいたずらっぽく笑った。
「根南志具佐」は平賀源内が天竺浪人という名で書いた小説。つまり戯作だ。
専門ではなくとも、それくらいは俺でも知っている。
彼のペンネームだ。後は、風来山人,福内鬼外というのもあったはずだ。
彼は戯作家としても数多くの名作を残している。
「汚ねェよなぁ……」
そう言って、平賀源内は河を見た。
河というよりは、人工の運河じゃないかと思うのだ。
その運河には大量のごみが浮いていたのだ。
確かに「河は蹴上の流塵(ごみ)に埋む」という状態だ。
「ザバァァッ」と音がした。
音の方を見ると、女の人がゴミを川の中に捨てていたのだ。
何の躊躇も遠慮もなく、ゴミが投げ入れられていた。
「二三〇年後の世界を見たけどよ―― あの『パソコン』でな」
「そうですね」
「街がよ、キレイなんだな……」
源内さんがポツリと言った。
一八世紀の天才、平賀源内が二三〇年後の世界の映像を見て感じたこと。
それは、色々あるのだろうと思う。
そして、自分たちの住む一八世紀の江戸と比べる。
江戸時代は「楽園」で「リサイクル社会」で「清潔だった」という評価は最近になって色々な本で出ている。
確かに、そう言った面も無くはないとは思うのだ。
少なくとも、糞便をまき散らしていた当時の、中国やヨーロッパの大都市よりも清潔だろう。
でも、それは同じ時代の中でということだ。
「長屋を見たろ? どう思うかい」
源内邸を出てから、俺と源内さんは、江戸の「庶民」が暮らす場所を歩いたのだ。
そこは、決して「楽園」じゃなかったし、時代劇に出てくるような無味乾燥な場所では無かった。
リアルにその時代の人間が暮らしている場所だった。
人が暮らせば当然、ゴミが出る。江戸時代はリサイクルが行き届いていたというが、生ごみはどうにもならない。
また、トイレは汲み取り式だ。長屋の外に造られていたが、その匂いもかなりな物だった。
「何と言っていいのか…… 知識として知っていたのとは大分違いましたね」
「二三〇年後には侍(さむれぇ)も庶民もねぇわけだ」
「ええ、そうですね」
「国が豊かになるってのは、こういった庶民の生活も変えなきゃならねぇってことだ」
「多分、源内さんの考えていることは正しいと思います」
俺にはそれしか言えない。
すでに一〇〇万人を超え、北京、ロンドン、パリを超えて世界一の都市であるという史料もあったはずだ。
そういった、街に比べ特に江戸が遅れた町であるわけではないだろうと思う。
「時間を一〇〇年進めるってのは、大変だぜ。まッ、そのためにはこういうのも見ておいて損はねぇだろ」
そう言うと平賀源内は歩きはじめた。
秋の陽はそろそろ、南天の空に登ろうとしていた。
◇◇◇◇◇◇
杉田玄白は肖像画がいっぱい残っている。
だから、最初に会ったときも「ああ、この人か」という感じがした。
落ち着いたいかにも学者という感じの人だった。
彼の家に着くと、奥の座敷に招かれた。
さすがに、有名な蘭方だけに、屋敷もでかい。
そして、俺は「土岐航です」と簡単に名乗った。
一応、学者という設定になっているが、よく考えたら俺は「オランダ語」をほとんど知らない。
カステラくらいか? 千葉県人の俺は「ミルフィーユ」そうだっけと思う。よく分からん。
「土岐航殿ですか……」
俺の名を呟き思案気にする杉田玄白。
おそらく己の蘭学者ネットワークを検索して「404 not found 該当の蘭学者が見つかりませんでした」という回答が返ってきたのだろう。
彼の脳内でだ。なんか、そんな感じの表情をしている。
「長崎でずっと引きこもって、学問してたからなぁ」
「そうですか―― で、どちらの藩の」
「ああ、それはチト言えない事情があってね。まッ、田沼様ともズブズブの関係だぜぇ」
なにその、エゲツない言い方。
もうちょっと言い方があるだろうと思うが、俺は黙っている。
一応、間違ってはいないのだ。
「ほう、老中の田沼様と」
そして、平賀源内は、懐からライターを出して煙管に火をつける。
「ほぉ、最近話題の『らいたぁ』ですな」
杉田玄白が言った。もう「らいたぁ」の名前はかなり江戸の中に浸透している。
旦那衆にも行き渡り、上方にも運ばれている。
今では、販売価格は当初の100両から15~20両くらいまで下がって入る。
ひとりで色々な色のライターを揃えるのが流行ってきている。
新色(色違いのモノを順番に出しているだけ)が出ると、値段を100両に戻しても飛ぶように売れるくらいだ。
ちなみに、卸値は変えてないが、蔦重さんからは文句もでない。
それでも、十分に美味しい商売なのだから。
「二〇個ばかり持ってきた。簡単に火をつけられるってのは便利だろう?」
ポンとライターの束を出す平賀源内。
「おおッ!! 源内殿いいのですか」
目を丸くして驚く杉田玄白だった。
「コイツは、この土岐殿が考えたモンだしなぁ、いくらでもあるんだよ。なあ――」
トントンと俺の肩を叩きながら平賀源内が言った。
「え? オランダ舶来のモノでは?」
「実は違う。それは、俺が考えた宣伝文句だ。そんなものは、オランダにもねぇよ――」
「なんと……」
そう言って、杉田玄白は一〇〇円ライターを手に取った。
そして、しげしげとそれを見つめ、火をつけ「おおッ」と声を上げるのだった。
実際「一〇〇円ライター」ではなく、今はネットで大量に仕入まくり単価は二〇円以下だ。
「医学、薬学、機巧(からくり)―― 土岐殿はあらゆる学問を究めた学者だぜ」
なに言ってんの?
この人。
大山師と異名を持った平賀源内。大ぼら吹くのか? ここで。この局面で。
俺の能力にすげぇ下駄履かせやがった。つーかここで、オランダ語のこと聴かれたら一発でアウトだぞ。
カステラだけだぞ、俺は――
すげぇ、キラキラした目で俺を見つめるんだけど。
このハゲた蘭学医の人。いや、杉田玄白さん。
「で、杉田殿の知り合いの蘭学者―― ありったけ声を掛けて欲しいんだがな」
「声を掛ける? はて、源内殿」
「いや、この土岐大先生に講演してもらうのさ。最先端の蘭学についてよ――」
サラリと平賀源内がトンデモナイことを言ったのだった。
俺は呆然とそこに座って固まっているだけだった。
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