第4章 ペアレンティング・ペンディング ⑥試練の時

 ――結局、どこの家庭も問題があるんだな。子供がいてもいなくても、レンタルベイビーをやっていてもやってなくても。うまくいっているところなんて、わずかなのかも。

 家に帰ると、萌は美羽の目が赤いのに気付いたようだが、「翼ん家に行ってた」と言うと、何も聞かなかった。

 夕飯はネットでバラエティ番組を観ながら、二人で食べた。美羽は不自然なぐらいに笑い、萌はタレントについて「この子は最近、結婚したらしいわね」などと話した。

 相変わらず、流からは何の連絡も、何のメッセージもない。

 夕飯後、美羽はベッドに寝転びながらスマフォをいじっていた。

 ――どうすればいいんだろう、私達。

 翼から、「美羽は、どうして流君と一緒になったの?」と聞かれた。

 そのとき、美羽はとっさに答えることができなかった。学生のころからのつきあいで、一緒にいるのが普通だったのだ。

 翼はこうも言った。

「世の中には、子供がいない夫婦だって大勢いるよ。レンタルベイビーに合格しても、不妊症で産めなかったって人もいるみたいだし。子供がどうしても欲しいなら、流君じゃなくてもいいかもしれないけど、一緒にいたくて結婚したなら、流君と二人きりの人生を考えてみてもいいかもよ」

 ――確かにそう。そうなんだけど。ずっと子供がいないまま二人きりでいたいとは思えないし、流以外の人との子供が欲しいとまでは思わないし。簡単に決められないよね。

 美羽はスマフォに入っている画像を開いてみた。そこには、笑顔いっぱいの美羽と流の画像が並んでいる。

 学生時代、つきあいはじめたばかりのころの画像。初めて二人で旅行に行った時、美羽の練習台としてカットモデルになってくれた時、卒業式、結婚式、そして一緒に暮らしはじめたばかりのころの画像――。

 思い出がたくさん詰まった画像を見ていると、また涙がこぼれ落ちた。

 ――この時は幸せな時間がずっと続くって信じていたのに。

 流と出会ったのは学園祭だった。美羽が通っていた美容師専門学校の学園祭の記録を残すために、流は実行委員の友人から動画の撮影を頼まれていた。美羽は舞台で行われるヘアコンテストにエントリーし、テーマに合わせてカットモデルの髪をアレンジした。見事優勝し、コンテストが終わってから流にインタビューをされたのがきっかけだった。

 映像の専門学校に通っていた流は卒業制作のためのショートムービーをつくっていて、その出演者のヘアメイクを頼まれた。それから打ち合わせのために何度も会ううちに、次第に惹かれていったのだ。

 あんなに互いに信じ合い、愛し合っていたのに。結婚して2年でどうして心が離れていってしまったのか。

 美羽はしばらく思い出にふけりながら、枕を涙で濡らした。

 ふと時計を見ると、10時を過ぎていた。明日は朝から仕事なので、早めに家を出ないといけない。お風呂に入るために下に降りると、リビングから何か声が聞こえる。萌がネットで動画を観ているのだろう。

 そういえば、明日は何時に出るのか、まだ萌に伝えていないことを美羽は思い出した。

「お母さん、明日の朝だけど」

 リビングに入ると、萌がソファの下で倒れている光景が目に飛び込んだ。

「お母さん!? どうしたの?」 

 一瞬、ソファから落ちたのかと思ったが、見ると、胸を押さえて脂汗を流している。

 美羽は救急車を呼んだところまでは覚えているが、その後のことはあまり覚えていない。気がつくと、病院の手術室の前に座っていた。

 医師ロボットの診断によると、心臓の大動脈瘤が破裂したとのことだった。看護師からその症状を聞かされた時、「えっ、心臓!? 心臓が破裂!?」と完全にパニックになってしまった。看護師から「落ち着いてね」となだめられ、分かりやすく症状を説明してくれたが、全然頭に入らない。

 専門医は帰宅しているので、今呼び出しているところだと告げられた。美羽は人工呼吸器につながれた萌に、何度も「お母さん、大丈夫? もうすぐだからね」と呼びかけるぐらいしかできなかった。

 医師は30分後に到着して、すぐに手術室に直行した。ベッドに乗せられて手術室のドアの向こうに消えていく萌を、祈りながら見送った。

 朝陽にも連絡したが、今は北海道に出張に行っているので、こちらに来るのは明日になるという。

「とにかく、姉ちゃん、落ち着けって。朝一でそっちに行くから、何かあったら連絡くれ」

 朝陽になだめられたが、それでも動揺はおさまらない。

 ――どうしよう、どうしよう。

 気がつくと、美羽は流の電話番号を押していた。

 5つコールが鳴ったところで流が出る。

「もしもし?」

「流? あのね、あのね、お母さんが倒れちゃって」

 そこからは涙がこみあげてきて、声にならない。

 流は優しく、「どうしたの?」と美羽を落ち着かせながら状況を聞き、どこの病院にいるのかを尋ねて、「すぐそっち行くから」と電話を切った。

 時計を見ると、12時を回っている。横浜からこちらに来ると言っても、電車はないだろう。どうやって来るのか。

 ――言葉だけかもしれない。

 美羽はソファに座り込んで、スマフォを握りしめて心細さに震えていた。

 1時30分ごろ、流が病院に着いた。流の姿を見たとたん、美羽は涙があふれてきて、何も言えなかった。

 流は、「大丈夫。もう大丈夫だから」と美羽の背中を抱き寄せた。ひとしきり泣いてから、美羽は「ここまでどうやって来たの?」と鼻をすすりあげながら尋ねた。

「タクシーを飛ばしてきた。会社にいたし」

 流は美羽の隣に腰を掛けた。

「手術、まだ終わらないの」

「うん」

「心臓の大動脈瘤が破裂したんだって。突然、倒れたみたいで。私、上にいたから全然気づかなくて。どうしよう、見つけたのが遅くて、助からなかったら」

「美羽のせいじゃないよ。目の前で倒れたんじゃないんだから、どうしようもなかったでしょ」

 流は優しい声音で、美羽の背中をさすってくれる。

「そのカッコ、寒くない? 風邪ひくよ」

 流は自分が羽織っていたジャケットを脱いで、美羽にふわっとかぶせてくれた。美羽は慌てて救急車に飛び乗ったので、薄手のルームウェアしか着ていなかった。

 途中で出てきた看護師さんに、流はどれぐらいかかるのかを尋ねた。

「まだ1、2時間かかるんだって。何か飲む?」と聞かれて頷くと、温かいコーヒーを買って来てくれた。一口飲むと、体中に温もりがじんわりと染み渡っていくようだ。

「ありがとう」

「いいよ」

 流は隣に腰かけて、美羽にピッタリと体を寄せる。

「流、明日、仕事あるんでしょ?」

「明日連絡して、休みを取るから。美羽も休むんでしょ?」

「うん。こんなんじゃ仕事に行ってる場合じゃないしね。朝陽は北海道に行ってるから、こっちに来るのは早くても朝8時過ぎじゃないかって――あ、お店。お母さんいないから、どうしよう。お客さんに連絡しないといけないのかも」

 流と話しながら、朝になったらやることをスマフォに打ち込んでいった。

「流、来てくれてありがとね」

「当然っしょ」

 流はさらりと言う。

 ――そうだ。流のこういうさりげない優しさが好きだったんだ。

 美羽は久しぶりに流の横顔をまじまじと見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る