第2章 ペアレンティング・スタート ⑥ご近所トラブル

 その日の夜、8時過ぎに美羽は家に戻った。


 手を洗うと真っ先に寝室に向かい、明かりをつけ、空に「ただいま。今帰ったよ」と話しかける。


 ウィーンとロボットが起動する音がかすかにして、数十秒後に伸びをした後、空はゆっくり目を開いた。あぶあぶ言いながら体をくねらせている姿を見て、「かわいい」と美羽はしばらく見入っていた。


 しかし、そんな平穏な時間はあっという間に終わり、おむつを替えたり、ミルクをあげたりと美羽はフル回転しなくてはならなかった。


 流は9時過ぎに帰って来た。


「ご飯作る余裕ないだろうから」と流がコンビニで買ってきてくれた弁当を、二人で食べた。美羽の腕の中で、空は今はおとなしくしている。


「とりあえず、お風呂入ってる間だけでも、面倒見ててほしいな」


 美羽が言うと、流は「分かった。何すればいい?」と素直に受け止めた。


 ――なんだ、やる気がないわけじゃなかったんだ。よかった。


 美羽は気持ちが軽くなっていくのを感じた。流をもっと信じよう、とも思った。


 空が眠ったのを確かめてから、流に任せてお風呂に入った。昨日はシャワーしか浴びられなかったが、今日は湯船にゆっくりつかる。


 ――ああ、これなら大変でも何とかやっていけるかも。明日、流は休みだから家事をお願いできるし。後でおむつの替え方を教えてあげよ。


 お風呂から上がって体を拭いていると、泣き声が聞こえてきた。空は起きてしまったらしい。流に任せているから大丈夫だろうと髪を乾かしていると、「ごめん、泣き止まないから、早く来て」と流がドアを開けた。


「えっ、さっき、あやし方を教えたでしょ?」


「やってみたけど、全然ダメ」


「おむつは? 濡れてる?」


「分かんない」


「分かんないって……ミルクは?」


「分かんない。とにかく、早く来てよ」


 流は慌ただしくドアを閉めた。美羽はとたんに脱力する。


 ――なんだ、やる気があるフリをしてたってだけか……。


「使えねえ……」


 ポツリとつぶやいた。


***********************************


 翌日、流は「急ぎの仕事が入ったから会社に行く」と、美羽が家を出る前に出かけてしまった。空の面倒を見たくないから、逃げたのがミエミエだった。仕方なく、美羽は洗濯物を浴室に干してから仕事に出かける羽目になった。その間、空は泣きっぱなしだった。 


 ベッドに寝かせて、「それじゃ、行って来るね。行ってきます」と声をかけると、泣き止んだ。


 ――もしかして、泣いていてもこの言葉をかけたら泣き止んでスリープに入る設定になってるのかな。それなら、もっと早くにスリープさせちゃえばいいのかも。そしたら、ゆっくり出かける準備ができるよね。


 朝から一仕事も二仕事も終えたような気持ちで、エレベーターホールでエレベーターを待っていると、隣の部屋の親子が出て来た。


「おはようございます」と挨拶すると、母親は怒っているような目つきで「おはようございます」と会釈した。小学生の息子はムスッとしていて、会釈すらしない。この親子はいつもこんな感じだ。


「あの、いつご出産されたんですか?」


 エレベーターの中で突然、母親に聞かれた。どことなく棘のある声だ。


 美羽は「ああ、レンタルベイビーを借りたんです。一昨日から始めたばっかなんです」と答えた。


「そうですか……いえ、そんな話、聞いていなかったので、てっきり赤ちゃんをご出産されたのかと思って。お腹は大きくなかったのに、おかしいなって思って。そんな話、全然聞いていなかったなって思って」


 その言葉を聞いて、美羽はハッとした。


 ――確か、掲示板で、事前にご近所にレンタルベイビーを借りるってことを言っておかないとトラブルになるっていう話を読んだな。それかあ。


「すみません、泣き声がうるさかったですか? まだ慣れてなくて」


 美羽は申し訳なさそうな声で謝った。


「いえ、それほどでも。ただ、うちの守は中学受験に向けて、夜遅くまで勉強していることもあって。泣き声がずっと続くと、ちょっと集中できないみたいなんですよね」


「そうですか、すみません、夜は窓を開けないようにします」


「いえ、そんなに気になるってほどではないんですけどね」


「ママ、うるさいから管理会社にクレーム言おうって言ってたじゃん。これから管理会社のところに行くんでしょ?」


 息子は明らかに不機嫌な様子で言った。母親は、「ちょっ、守ちゃん!」と慌てた。


 美羽は呆気にとられた。


 ――えっ、何、直接苦情を言う前に管理会社に言いつけようとしてたってこと? まだ二日間しかうるさくしてないじゃん。


 エレベーターから降りると、母親は「それじゃ、失礼します」と気まずそうに息子を引っ張って行ってしまった。おそらく、管理会社には何も言わないだろう。


 ――今晩から、窓を閉めて寝ないと。流に、帰ったら近所にレンタルベイビーのことを報告しておいてって頼んどこ。こんなことでマンションを追い出されたら、たまんないもん。


 電車の中で、LINEで流に今起きたことを伝えた。


「あの親子は陰険な感じだからね。陰で何するか分かんないから怖い」と、流からメッセージが届く。


「夜帰ったら、ご近所さんに空のことを伝えておいてね。右のお隣さんと、お向かいさんには伝えといたほうがいい気がする」


 美羽が続けてメッセージを送ると、ややあって、「なんでそれをオレがしなきゃなんないの? 美羽がレンタルベイビーをやりたいって言ったんだから、美羽がすることでしょ?」と返事が返ってきた。


 はらわたが煮えくり返る、とはこういう感覚かも、と思うぐらい、激しい怒りが沸き起こった。怒りに鳥肌が立つという経験を初めてした。


「あの、前、いいですか?」と聞かれた時、思わず「はあっ!?」と声を荒げてしまった。みると、美羽の前の席が空いていて、美羽が身を乗り出しているため、そこに座ろうとした女性が声をかけたのだ。その女性は美羽の剣幕に顔をひきつらせて、「すみません」と小さな声で言うと、別の場所に移動した。妊婦だった。


「あっ……」


 すみません、座ってください、と言う前に、他の乗客が席に座ってしまった。


 ――私、何やってるんだろ……。


 美羽は泣きたくなった。


 表参道に着き、出口から一歩外に出ると、とたんに真夏の暑い日差しが肌を刺す。抜けるような青空なのに、美羽の気持ちは晴れるどころかドシャ降りだった。

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