第2話 こぼれた本音

「今日はここまで」


 本を閉じると、優奈は不服そうな表情を浮かべた。


「もう少し読んで」

「だーめ。寝坊して出社ぎりぎりになったら、またお兄さんから小言を言われるよ」


 付き合い始めたとき、同棲の前に挨拶に行ったとき。第二の義父さんと錯覚してしまうほど心配された。優奈への叱責が僕に聞こえるような声量だったため、どれほどの男か品定めしていたのかもしれない。だからこそ小さな信頼から勝ち取りたいのだ。


 僕の心中を察し、優奈は素直に頷いた。よほど疲れていたのか、横になるとすぐに寝息を立て始める。

 寝ることを勧めたものの、僕はすぐに眠れなかった。闇に目が慣れてから、優奈の寝顔を見つめていた。

 仲間、協力者、慰め役といくつかの役を演じてきた。親のような役にはならないよう気を付けているのだが、ついつい指示や命令の言動になってしまう。


「僕はいい彼氏になっているのかな?」


 優奈の反応はない。僕は自分で首を振った。

 贅沢な悩みだ。最初は近付くことさえ躊躇したのだから。




 社先生、卒業論文とは別に読んでもらいたいものがあるのですが。

 僕は乾ききった唇を動かした。


 とある賭けを引き受けた二週間後、空きコマに研究室を訪れていた。ドアを開けると、社先生は伸びをしながらよく来たねと微笑んだ。その姿に、普段であれば癒されていただろう。


 座って。

 僕が緊張していることを読み取ったのか、社先生は本の塔を崩していた。均衡が破れ、机の片隅に置いていたメモ用紙がはらはらと舞う。


 自然と足が動いていた。床に散らばったメモ用紙を拾い、元の場所に戻したときには肩の重みが消えていた。そんな僕を、社先生は誇らしげに見つめている。

 面と向かって話せる空間ができたところで、僕は本題を話し始めた。


「サークルの部誌に載せる小説を、先生に批評していただきたいんです」

「いつも言っているけど、俺の専門は文学研究だよ。創作指導はほかに適任者がいる」


 適任者とは、創作演習の教員を指していた。だが、研究室を持たない非常勤のおじいさんには負担が大きすぎた。 


「僕が求めているのは社先生の分析力です。どうかアドバイスをお願いします」


 先生の気持ちは傾き掛けたように見えたが、まだ腑に落ちない様子だった。


「寺本は創作初心者じゃなかった気がするんだけど」


 社先生はキーボードを叩いた。高校在学時の情報が表示される。


 確かに、小説のノウハウは分かっている。地方大会の散文部門では最優秀賞を取っていた。

 学内での表彰、報告したとき曾祖父が嬉し涙を浮かべたこと、文芸部の功績に加われたこと。夢のような出来事が立て続けに起きた。

 サークルでより良い作品を書きたい。そんな願いを持つのは自然なことだろう。だが、僕を待っていたものは長いスランプだった。

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