第2話

第2話-01 いきなりの実戦

 停滞した薄暗い部屋の隅で、黒髪にはさみを入れる。しっかりと掴んだ柄をぐっと握りこもうとした瞬間、降姫と目が合った。


「いいの?」


 何を意味しているのかは分かった。分かりたくなかった。

 だから僕は乱暴に鋏を動かした。じゃき、じゃき。小気味よい音を立てて、次々と黒髪が畳に落ちていく。

 やがて僕は鋏を取り落とし、鏡に映った青白い自分の顔に手をやった。


「外彦は強くないといけないんだ」


 その言葉だけが、鏡面に反射する。





 ぱちりと目を開くと、そこには女性の顔があった。


「……え」


 思わず間抜けな声をあげてしまう。女性はそんな僕をのぞき込み続けていた。

 今、僕は寝転がっている。ということは、ついさっきまで僕は夢を見ていたんだ。そのことだけは理解できたが、目の前の女性――多分、自分よりちょっとだけ年上の少女の顔にはやっぱり見覚えはなかった。

 ちらりと少女から目をそらして傍らを見ると、僕同様に混乱した様子の降姫があわあわと僕と彼女を見比べていた。

 少女は僕の頬に指を滑らせ、ゆっくりとその輪郭をなぞっていく。心臓が忙しなく跳ね回る。彼女の長い髪がさらりと落ちてくる。濁った緑色のその目から目を逸らせなくなり、僕は必死で息をして言葉にならない言葉を発した。


「あの、あの……」


 喘ぎ声にも似たその音を受けても、少女は微動だにしなかった。何が何だか分からないが何かひどい目にあわされるのではないかと、僕は硬直しながら彼女を見つめ続けた。

 しかしある瞬間。少女は唐突にゆっくりと僕から顔を離すと、まるで溶けるかのようにしゅるりと消えてしまった。


「えっ」


 残されたのは何が起きたのか分からないままの僕たちと、どこかから香る濃い水のにおいだけだ。数十秒。呆然とする僕たちの沈黙を破ったのは、ゆっくりとこの部屋のドアを開いた女性だった。


「あ、起きました?」


 ほんわかとした気持ちになる優しい声で喋りながら、その女性は荷物を抱えて入ってきた。彼女は見た目よりも力持ちのようで、生活用品が入っているらしきその箱を、軽々と持ってきてそれを部屋の隅に置いた。


「初めまして。私は歌歌うたうたい。犬崎班担当の支援部隊の者です」


 身長の低い僕たちに合わせて、歌歌さんはかがんでみせる。僕はぼんやりとその言葉を繰り返した。


「支援……?」

「鬼切は鬼を切る組織ですからね。色々とやらかした後始末をする部隊が必要なんですよ」


 ゆっくりとその言葉を飲み込んでいく。目を伏せて考え込む。歌歌はそんな僕たちを微笑みながら待っていてくれた。僕はといえば、じわじわと思考がまとまってくると同時に、先ほどまで感じていた感情が噴き出てきて、歌歌に縋り付いてしまった。


「う、歌歌さん! さっきお化けが! 黒髪のお化けがー!」

「女の人が、外彦くんに……!」


 ぱたぱたと腕を動かして必死で彼女に主張する。歌歌はちょっとだけ驚いた顔をした後、にっこりと笑ってみせた。


「ああ、それは気にしなくていいです」


 気にしなくていい? どういう意味だろう。困惑の表情を向ける僕たちを置いて、歌歌さんは部屋の隅に置いた箱の中身を取り出し始めた。


「それは御前様ですよ」

「ごぜんさま?」


 聞き覚えのない名前に僕は首をひねる。とりあえずお化けではないのだろうか。となると、あの少女は鬼か何かということなのか。だとしたら失礼な反応をしてしまったかもしれない。


「悪さはしないので……いえ、まあ、するかもしれませんが、つまみぐいぐらいなので……」


 また意味の分からないことを言われて、僕はますます首を傾ける。ちょっとだけ考えた後、僕は人差し指を顎に当てた。


「つまみぐいするってことは、すごく食いしん坊さんなんですね?」

「ああー、食いしん坊というかその……」


 歌歌は言葉を濁して視線を僕たちから外した。彼女が何か言うのをためらっているように見えて、僕は何度もまばたきをする。歌歌は僕に顔を近づけてささやいてきた。


「外彦くん、御前様に変なことされてませんか?」

「変なこと?」

「その……味見とか」


 尋ねられた言葉の意味が分からずに、僕は口をぽかんと開ける。すると隣から勢いよく降姫は身を乗り出してきた。


「されてました! すごく、されてました!」


 僕は彼女を振り返り、その必死な形相を見た。降姫はかなり焦ったような表情をしていた。


「え……されてたの?」

「されてたよ!」


 頬を膨らませて彼女は言う。降姫がこんなに感情をあらわにするだなんていつぶりだろう。それこそ幼いころ以来の気がする。


「ああー……されてたんですか……」


 心底同情したまなざしを向けられて、もしかして自分はとんでもない状況に立たされているのかもしれないとようやく僕は気づく。


「自分を強く持ってくださいね。彼女にはそれが一番の対処策ですから」

「は、はあ……」


 肩にぽんと手を置かれて、僕はあいまいに答えることしかできない。――その時、半開きになっていたドアを引き開けて見知った人物が顔を覗かせた。


「外彦くん、起きているか」

「犬崎さん」


 きびきびとした所作で入ってきた犬崎に、僕もぴしっと背筋を正して応える。犬崎はこちらにかがんでみせることなく、僕を見下ろした。


「起きて早々で悪いがD案件だ。出られるか?」


 突然の要請に僕はぎゅっとこぶしを握った。実戦がこんなに早いなんて思っていなかった。だけど、ここでいいところを見せないと、もしかしたらここを追い出されてしまうかもしれない。

 僕は犬崎の顔を見上げて、力強く答えた。


「……はい!」





 鬼切本部を出た僕たちは、狭い車の後部座席に座ってどこかへと移動し始めた。僕と隣に座る降姫は、不安な目を運転席の犬崎に向けてしまう。


「あの、犬崎さん」

「なんだ」


 恐る恐る声をかけると、硬質な言葉が返ってくる。僕はその声にびくりと肩を震わせるも、やっぱり聞いておくべきだと判断してやっとのことで質問を絞り出した。


「さっき言っていたD案件ってなんですか……?」


 犬崎はちらりとバックミラーで僕たちに視線をやった。僕はさらに縮こまって鏡から目を逸らす。犬崎はすぐに前方へと目を戻したらしく、僕は彼の恐ろしい視線から外れることができた。


「少数の鬼が関与している案件のことだ。他にもG案件はグループ犯罪、H案件は人が関与している、と分けられている」


 今度はフロントガラスの方を向いたまま、犬崎は答える。急に情報が入ってきたせいで、緊張と混乱で僕の頭はぐちゃぐちゃになってしまう。そんな僕に、犬崎はほんの少しだけ表情を和らげた。


「そう固くなるな。君はまだ正規の鬼切じゃない。だから今回は後ろからついてくるだけでいい」


 その言葉に僕は安心半分、不満半分の気分になった。早く鬼切になって食い扶持を稼がなきゃいけないのに。焦りが僕の心を揺らし、もしかしたらそれを察してくれたのか、犬崎は固い表情に戻って話題を変えた。


「いいか、外彦くん。鬼切というのは、文字通り鬼を切る組織だ。個人の裁量で鬼を切ることが許されている」


 真剣な話題になったのだと察し、僕は座りながらも背筋をピンと伸ばした。


「今回の標的は、鬼欠片を売買するブローカーだ。鬼欠片の摂取は『暗都』維持法で制限されているからな。とはいえ本人たちが服用しているとは限らない。だから鬼切に仕事が回ってきた。何か質問は?」


 ぐるぐると巡る思考をなんとか整理し、僕は素朴な疑問を口にした。


「えっ、ええと、それでどうして鬼切に仕事が回ってくることになるんですか……?」


 僕の質問に、犬崎は仏頂面をさらに歪めた。僕は「ひっ」と悲鳴を上げかけ、慌てて口を押さえた。


「さっきも言った通り、鬼切は個人の裁量で鬼を切ることが許されているんだよ。だからつまり――今回の関係者を皆殺しにしろ、という意味だろうな」


 僕は腹の底から湧き出てくる恐怖を精一杯抑え込み、バックミラーに映る犬崎を見る。犬崎は口元を笑みの形にした。


「だが公式にはそんな命令は受けていない。生け捕りができそうであれば、生け捕りでも構わないということだ」


 思いがけない穏健な言葉に、僕はまじまじと彼を見つめてしまう。しかし彼はそれ以上の言葉を発せず、少しだけ広い車道に小型車を滑らせていった。





 やがて車はとある路地の前へと辿りついた。路地の前には黄色のテープが張られており、その内と外とを分断している。


「現場はこの奥から続く場所だ」


 路地の前には、数人の鬼切であろう人間が犬崎の到着を待っていたようだった。彼らの視線に晒されて首を引っ込める。犬崎はそんな僕に助手席に置いてあった一着の服を差し出した。


「これに着替えなさい。俺は先に偵察を確認してくる」


 押し付けられるような形で手渡されたそれは、黒色の軍服だった。大人用としては小さい部類に入るだろうが、小柄な僕にとっては十分すぎるほど大きい代物だ。僕はそれを広げて少し考え――降姫のほうを見た。


「……着替えてもいい?」


 降姫はハイともイイエとも答えなかった。その代わりに、ちょっとむすっとした表情でぼそりと言った。


「外、出てる」


 僕はその言葉を素直に受け止め、彼女が出やすいように後部座席のドアを開けてあげた。外姫が車から降りた後、バタンとドアを閉める。彼女はドアの向こう側に背を向けてもたれかかったようだった。

 ごそごそと音を立てながらなんとかぶかぶかの軍服を身に着け終える。そうしてから半分だけ開いた窓の外側に立つ降姫を見て、違和感を覚えた。


「ええっと、降姫、もしかして……不機嫌?」


 怖々と尋ねてみると、降姫はこちらを振り向こうとしないまま、拗ねたような声色で言った。


「外彦くんが他の女の子に近づいた」


 沈黙。何と返せばいいのか分からず、だけどきっと今朝のあの少女のことを言っているのだろうということは分かって。そんな状態が十秒ほど続いた後、僕は慌てて会話をつないだ。


「違うよ! ぼ、僕は降姫一筋だよ!」


 言葉が口から出ていってしまった直後、なんてことを言ってしまったのかと、後悔と羞恥がこみ上げる。降姫だってこんなこと言われても困るだろうに。

 しかしゆっくりと振り向いた降姫の表情は控えめではあるけれど、明るいものだった。僕は一気に赤面し、うつむいた。

 やっぱり多分、僕は彼女のことが、好きだ。だって彼女は僕の幼馴染で、だからこんな感情を抱いてしまうのも仕方がないことだ。たとえ僕と君が結ばれることがない存在だったとしても。それでも――

 その時――ざらついた感情が首の後ろをよぎった、気がした。

 好き。好き。好き?


「外彦くん、準備はできたか」

「あ、はい! 今行きます!」


 車の外から犬崎の声が飛んでくる。僕はそれに緊張しながら答えて車を降り、ぱたぱたと足音を立てながら彼のもとへと駆け寄った。

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