第10灯 鎖の狩人

 数日のあいだ地上を陰鬱な舞台に仕立て上げた雨はすっかり鎮まり、久しく顔を出した太陽が恵みの光を流し込み始めた。水と光が交わることで、この世の命はより力強い高鳴りを響かせる。


「一応確認だが、ザイバ領に向かえばいいんだな?」

 大司教が突然話し出す。


 マーガレットは少し驚きながら答えた。

「はい、スターミル家はザイバ伯爵領にあるメトウィットの商家です。第二教区と第三教区の境に近いでしょうか。ご存知ありませんか?」


「知らんな。第一教区の外は馴染みがない。」



《ネナ・ルーファイ第二教区》は、第一教区の南に存在する教会領である。古代から伝わるニグテズ語で「良き女王」を意味するこの地は、ガヴテン・タヴィ大聖堂を中心として発展し、経済的発展が著しいことで知られる。

 ナツガレオは、辺境にありながら流通の便が絶えない栄えた街であり、ずっしりと重い荷物を乗せた馬車やかごが、踏み荒らされて石畳の歪んだ街道を行き交っていた。


 しかし、そのなんと賑やかことか!


 食品から反物、武器、装飾品、食器の数々──。中央街道の脇には多くの露店が立ち並び、店主たちが呼び込みの声を上げている。道を急ぐ馬車や人々の合間を縫って、がなるような騒音が響く。賑わいながらも厳かなタギテンシチェや、静かなバンベガンの村にいては頭をよぎりそうもない光景だった。



 マーガレットは人という人を掻き分けながら、先導して歩く大司教を見失わぬようについて行ったが、彼を視界に留めておくことはそれほど苦労を要するものではなかった。マーガレットは、上手く隙間を見つけてはネズミのように入り込んで進んで行くのだが、一方の大司教はすれ違いざまに肩をぶつけたり、横から割り込まれたりするせいでなかなか前へ進めないので、マーガレットはむしろ大司教を置いていかぬよう気を配らなければならなかった。


 人の海に揉まれながら大きな中央街道をしばらく進むと、大司教が分かれ道を確認しようし始めた。しかし、彼は産まれたての臆病な子ガメのように海流を突き破るのに手こずってしまうので、マーガレットは大司教の手を掴んでぐいと引っ張ると、分かれた道を右に曲がった。


「ひょっとして、人混み慣れていらっしゃいませんね。」


 マーガレットがいたずらっぽく笑ってみせるので、大司教はバツが悪くなり、面白くないような顔をしながら脇道を進んで行った。


「来い。はこっちだ。」


 この脇道は民家が立ち並び、人通りも落ち着いていた。時折、住居に混ざってゴシップ、呪術用具、不気味な輸入品などを売る怪しげな店や、昔ながらの民間療法や占いを行う館も見られた。

 マーガレットがそんな見慣れぬ光景に目を奪われ、無意識の内に歩みの速度を落としていた。前を歩いていた大司教は距離が離れたことに気づき、振り返って少女を待った。すると突然、マーガレットの近くで唸るような声が上がった。


「よぉ、姉ちゃん。ここ初めてかい?」

 マーガレットが気がついた頃には、彼女は既に鎖帷子かたびらを身につけた二人組の男に囲まれていた。一人は、建物の扉が小さく見えるほどの巨大な男で左目には眼帯をしており、もう一人はマーガレットよりも背が低く、子どものような顔で睨みつけている。


「カァアッ! ハトみたいにキョロキョロしちゃって可愛いねぇ。観光客かい?」


 眼帯の大男が笑いながら言う。すると、小さい方の男は大男の腹に勢い良く拳を打ちつけた。


「いってぇ!! 何するんだよ、社長?」


「おい、テメェの目ん玉は腐った多肉植物みたいにブヨブヨなだけで、なんの役にも立たねぇのか!? よく見てみろ、新入り。この女の腰には何がついてる?」


 大きな新入りは目を細めてマーガレットを見つめると、やや長い時間が経ってから、何か思いついたように顔を輝かせた。


「分かった! ベルトだ。」


「違う、違う!!」

 小男は首をブンブンと振って叫ぶ。


「全く、お前って奴はダメダメのダメだ。ベルトが腰についてるのは当たり前だろう。オレは腰に巻いてないものをベルトと認めてないからなッ! そうじゃなくて、オレはこの銀ピカのチャームのことを言っとるんだ。」


 そう言って小男が怒り狂うと、大男は手をポンと叩いて目を丸くした。


「なーんだ。てっきりオレは、どっかの森の奥に住むおばあちゃん姉妹からもらった外傷用の薬草でも入ってそうな、この袋かと思ったよ。」


 大男の言葉に、小男は足を踏み鳴らしながら呆れる。


「だからテメェはダメだってんだ、新入り。このチャームはダイアード教会のお守りだ。てことは、この女、巡礼者だぜ。」


「オホッ、巡礼者!? ──なんだ、それ?」


「ハァァ!! テメェは一度、人生をアリンコからやり直すべきだな。巡礼者ってのは金持ってる奴を言うんだよ。という訳で小娘、無事に帰りたきゃ、金を置いていきな。」


 小男と大男は腰に下げた短剣を抜き取ると、不敵な笑みを浮かべながらマーガレットに詰め寄った。しかし、マーガレットは驚く間もなく、戸惑った表情を浮かべて二人の盗賊の背後を指差した。


「あ、あの……。それ、いいの?」


「アァ!? どれだよ!?」

 小男が歯を剥き出して怒鳴りつけると、その背後から声がした。


「俺だよ。」


 大司教は、盗賊たちのベルトを手荒く掴むと、力いっぱい引いて二人をマーガレットから遠ざけた。盗賊は最初こそ驚いたが、背後にいるのが若々しい男だと知ると、再び威圧的な態度をとり始めた。


「なんだァ? テメェ──。」


「第一に!」


 小男社長の言葉を遮って、大司教が後ろで手を組みながら声高らかに話し出した。


「巡礼者とは、祈願、贖罪、鍛錬などを目的に諸聖地を巡り歩く者のことをいう。敬虔の念深く、厚い信仰のもと儀礼に努める、敬うべき存在だ。

 第二に、巡礼者が金持ちとは限らない。最低限は持ち歩いているだろうが、多くの者が大金を持たずに訪れる。馬、牛、車などの乗り物を使用しなければ、教会が宿や食事を提供、保証する場合があるからだ。最近は農民も巡っていたりする。旅人だと思って舐めていると、教会はすぐ異変に気づくぞ」


 悪行を働く者に、説教というものはとにかく効果がない。それは、大司教も重々承知していた。しかし、立場上に加えて己の信念に基づけば、そうせざるを得ないこともあるのだ。自分の言葉が盗賊二人組に全く響いていないことに驚きはしないが、一方で少し悲しく、腹立たしくあるものであった。


「分かったらとっとと帰れ。騒がしくしたくはないし、されても困る。余計な時間を食いたくない。」

 大司教はそう言い放つと、二人の間をすり抜けてマーガレットへ歩み寄った。彼が少女に声をかけ盗賊を背に先を急ごうとすると、社長が声を上げた。


「ちょっと待て! 今言ったことは本当か?」


「はぁ?」


 大司教は振り返って立ち止まる。社長は大きな目をキラキラと輝かせ、大司教を見つめていた。


「今、テメェが言ったことが事実なら、俺は盗賊稼業をやめるッ!!」


「ええぇぇッ!?」

 驚いたのは新入りだった。


「どういうことだよ、社長! 急にやめるだなんて。」


「いいか、新入り? 今、コイツは確かに言ったんだ。“巡礼者には教会が宿や食事を提供する”ってな! つまり、巡礼するだけでタダ飯を食らえるってもんだ。こんなに美味い話があるってのに、臭くて汚ぇ盗賊なんかやってられるか。」


「で──でも、オレは盗賊に憧れてこの会社に入ったのに、社長がいなくなったらどうするんだよ?」


「あぁ、会社はテメェにくれてやるよ。俺とお前しかいなかったんだから、テメェが次期社長だ。オメデトッ!」


「そんな……! ──え? あ、やった! オレが社長だ。」


 盗賊たちがこんなことを話している間、大司教は呆れ、マーガレットは目を丸くして立ち尽くしていた。やがて、二人は道の真ん中で騒ぐ盗賊を置いて立ち去ろうとしたが、その直後、道の脇のあるものに気づいて立ち止まった。


「うわぁぁ────!!」


 それは、鳥が翼を広げてから飛び立つまでより、遥かに一瞬の出来ごとであった。金属の擦れる鋭い音の直後に、何かがぶつかる鈍い音が鳴り響き、小さな盗賊は尻もちをついて悲鳴を上げたのだ。愕然と震える盗賊の目の前には、ひとけのない路地を鋭く睨みつける大司教の姿があった。前に突き出した左腕には、太く頑丈な鎖が巻きついている。それは、大司教が見据える路地から伸びていた。


「驚いた。止められてしまうとは。」


 誰もいないと思われた路地の中から、気味の悪いほど落ち着いた声が聞こえたと思うと、建物同士の薄暗い隙間から、一人の男が現れた。屈強な印象を受ける体格の良さに似合わず、頬はこけて落ちくぼんだ目をしている。鹿の角のついた帽子を被っており、右手に握った鎖の他に、背にはクロスボウを背負っていた。


 盗賊たちは、この男を見るなり身を寄せ合って悲鳴を上げた。

「テ、テメェこんなとこまで追って来たのか。しつけぇぞ!!」


 小男が叫ぶと、鎖の男は不機嫌な顔つきで、しかし穏やかな口調で返した。


「地獄の果てまで追いかけると言っただろう? 君たちは同意したんだから、口約束とはいえ、きちんと守らなくてはね。」


 彼はそう言い放った後、自分の握る鎖の先にいる男に目をやった。大司教は左腕に巻きついた鎖を離すまいと強く握り、緑色の瞳で見つめながら何も言わずに立っていた。まるで、最後の一枚だけ残った葉を落とさぬようどっしり佇む、冬の樹木のようだった。


「そろそろ離してくれるかい? 君に当たってしまったのはミスなんだ。」


 鎖の持ち主がこう告げると、大司教は僅かに目を細め、やがて口を開いた。


「俺の前で、人を傷つける行為は許さん。攻撃をした以上、貴様の手に武器を持たせる理由はない。」


 鎖の男はひどくガッカリしたようにため息をつくと、握っていた鎖から手を離した。鎖が石畳に叩きつけられ、重く鈍い音と甲高い擦れる音が同時に響き渡った。大司教はそれを手繰り寄せながら、眉間にしわを寄せて再度話し出した。


「それで? 何の用でこんなことをする?」


 鎖を持っていた男は、呆れたように首を振りながら答えた。

「売ろうと思って手に入れた大事なものを、彼らが私の分まで横取りしたのさ。手に入れた分は、みんなで均等に山分けようと約束したのに。裏切れば、私は地獄の果てまで追いかけると宣言したからね。」


 すると、大司教は背後で震える盗賊たちに振り返らず声をかけた。


「なんだか知らんが、お前たち! さっさと謝って、盗ったものを返して帰れ。早くせんと、俺がコイツに武器を返すぞ。」


 盗賊の小男は、腰に下げていた皮袋を手際悪く手に取ると、そっと地面に置いて立ち上がった。大男もそれにならう。


「テメェは死んでももう来るなぁ! アバヨッ!!」


 盗賊たちはそう叫ぶと、追い風に乗ったハヤブサの勢いで、一目散に逃げていった。


「いやぁ、逃げられてしまったね……。まぁしかし、返してくれたから良しとするか。──君はそれを返してくれないのかい? もう攻撃する相手はいないよ。あぁ、ありがとう。」


 男は鎖を握り直しながら、地面に置かれた皮袋を拾い上げる。中には、奇妙な臭いのする暗い茶色の干した何かが入っていた。


「なんですの、それ?」

 マーガレットが尋ねると、男は穏やかながら得意げな表情を浮かべた。


「私が狩った動物の肝臓だよ。熱を下げる薬になるんだそうで、高く売れるんだ。」


 男は干し肝臓を袋にしまうと、大司教とマーガレットに向かって優しく微笑んだ。


「自己紹介がまだだったね。私の名は、ロデリック・ハーンというんだ。冬は森で狩りをしていて、夏の間は街で物売りをしている。先程は驚かせてすまないね。」


 大司教は不服そうな顔を浮かべた。

「別に驚いたわけではない。人間の血が流れることは、神のご意向に反するから止めたまでだ。」


「なるほど。君は聖堂兵のようだけど、敬虔な信者だ。模範的な兵士なのだろうね。」


 狩人の言葉に大司教の表情が少し和らいだが、すぐ思い出したように険しい顔つきに戻った。

「……知ったことか。こんな話をしている場合ではないのだ。──行くぞ。」


 大司教はそう言うと、忙しない足取りでその場を後にした。マーガレットは狩人ハーンに軽くお辞儀をして、大司教の背中を追いかける。狩人は、二人の背中に向かって声を張り上げた。


「それは残念。もし、私に何か用があれば“嘘つき連盟”の管轄下を尋ねてくれよ。大抵はそこにいるからね。」


 その言葉が終わらない内に、大司教はピタリと歩みを止める。


「──何だと?」

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