【40】「俺は何もやっていない」2

 マンションを出るまで、前を歩く理事長は一言も発しなかった。扉をくぐり、あっちだ、と示されたのは近くの駐車場。高級な外車に迎え入れられ、助手席に座った。ふっかふかのシートはすでに傾いていて座り心地のいい角度。シートベルトを装着し、理事長が運転席に回るのを待つ。

 ほとんど音のない扉が閉まり、運転席に座った理事長が深々と頭を下げ、俺はめちゃくちゃ慌てることとなった。

 頭をあげてください、と震える声で訴えると、理事長はため息とともに眉尻を下げて笑ってくれた。やばい。かっこいい人は困った顔もかっこいいんだな。

「本当にすまなかった。私もまだまだだ」

「そんなことはないと思いますよ! 高井先生、どう見てもおかしかったですから」

「保坂先生は普段から高井先生と行動を共にする機会が多いでしょう。なにか、気付いたことなど教えてもらえないかな」

「んんっ。ええ、もちろん。うーん」

 と、唸る声は高井先生のことを考えているのではなく、熟した雰囲気にも関わらず無邪気な仕草でこっちを頼ってくるもんだから、そのギャップってやつにヤられているだけだ。さっきのあの、高井先生を拒絶する強さも見ちゃっているもんだから、なんかやばい。


 そういう危なげな思考から必死に抜け出して、高井先生のことを思い出す。今思えば、生徒会に対する感情は人並み以上に持っていた、のかもしれない。

「生徒会顧問としてはきっちりしていたと思います。いつも言っていたのは、自主性、だったっけ。自主性を重んじる、とか。確かに、行事なんか生徒会が仕切ってやっちゃいますからね」

「ほう」

「付かず離れずサポートする。俺はそれを心がけていました。高井先生も同じだと思っていましたけどねぇ」

 俺も高井先生も、生徒会顧問や生徒指導を担当して二年以上経っている。俺の場合、ここに勤める前までいわゆる一般的な学校でも働いていたから、その異常性も理解しているつもりだ。必要以上に生徒たちへ干渉せず、見守る。いや、見て見ぬふりをする、という方が正しいかもしれない。

「生徒会も風紀委員会も自分で考えて行動する、でも大人が必要な場面ってのはありますから、そういう部分で手助けする。正直、優秀な生徒が上に立った時はほんとに何もしないってこともあるくらいですよ」

「なるほど。では、今の生徒会役員たちはどうでしょう」

「優秀な子たちだと思ってました。っていうか、風紀委員会の委員長がとんだ暴れん坊で、そっちまで目がいかなかったっていうか。高井先生どんなふうに生徒会と接してたっけなぁ……」

 脳裏に浮かんだのは生徒会と風紀委員会が集まって開いた会議のことだった。


 二学期が始まってあの転入生が現れ、騒動が起きる度に風紀委員会はどこか楽しそうに活動していたからそっちにばかり気を取られていたのは事実だ。

 会議で初めて生徒会がサボりまくっていたことを知り、生徒指導を任されている俺も、生徒会を管轄する顧問の高井先生も、さすがにちゃんとしろよって言って聞かせなきゃならない場面。高井先生は生徒会を責めなかった。

 今思えば、盗難の件で生徒会に罪を着せるには生徒会室に侵入者がいるのはまずかったのか。高井先生が選んだのは、侵入者を捕まえることに躍起になっていた風紀委員会を焚き付ける、だった。俺はそれが腹立たしかった。

「隣にいて、こいつ何考えてんだって思う時が多少はありましたね。まぁ、あの高井先生を見た後だから思い出せるって感じですけど」

「普段は普通の先生だったわけか」

「そりゃ、盗難の自作自演なんてするような人には見えなかった。あんなキレ方、まだ信じられない」

 それなりの時間を過ごしてきた同僚だ。直前まで酒を酌み交わしていた。明日の話だってしていた。

 横塚は生徒会の一員なんだから、本来は生徒会顧問の高井先生が面倒を見るべきだ。飲みの席で少しだけ進言したが、高井先生はどう返してきてたっけ。今となっては、あんな本性を持つ高井先生に任せることなんてできない。

 俺だって、できれば知りたくなかった。

「保坂先生から見て、さっきの高井先生はどう感じた?」

「明らかにヤバいやつって感じです」

「私には駄々をこねる子供に見えたのだが……」

「あっ! それ、俺も思いました!」

 理事長がハッキリと拒絶の意志を示したのは正解だったと思う。あんなの相手にしてたって、得られるものはなかった。高井先生の要求を飲んで、生徒会の子たちに謝罪させに行こうもんなら、横塚の傷を深くするだけに違いない。

 それでもなお、高井先生の開き直りは終わらなかった。俺の話を聞け、と喚いていた。

「もしかして、かまってほしかっただけとか? 自主性を重んじるって距離とってたくせになぁ。それにやりすぎ」

「……うむ。複雑に見えるものも、存外、単純なのかもしれんな」

 理事長は自嘲するように吐き捨て、車のエンジンをかけた。高級車だからだろう、振動はほとんどない。見渡すとあちこちでなにやら装置が移動している。なんだこれ。SFが始まってる。

 装置の中には美しいモニターもあり、音声ガイドで行き先を尋ねられる。機械の優しい女声と、理事長の甘い男声に導かれるまま住所を入力。車はなめらかに出発した。


 道中、理事長はそういえばと話を切り出した。

「高井先生に聞こうと思っていたが、ああなってしまったから代わりに聞かせてほしいんだ」

「なんなりと聞いてください」

「助かるよ。実はね、テストの盗難がどうやって発覚したのか、がわからないんだ」

 信号に引っかかり、ハンドルから離れた手が顎を摩っている。仕草がいちいち様になっているのはなんなんだ。視界を瞬きで遮って、質問に集中する。

「それはあれですよ。パソコンのアクセス履歴です」

「アクセス履歴?」

「はい。校内のパソコンはほとんどがローカルネットで繋がってて、ログインさえできればどのパソコンからでも共通のフォルダにアクセスできるんです」

 おおまかな説明になるが、インターネットは世界と繋がるもので、ローカルネットは繋いだパソコン同士で繋がるもの。インターネットだと外部に情報が漏れる可能性があるため、校内のパソコンはローカルネットを繋いで情報の共有などを行っている。メールなんかも送りあえるので、業務連絡をするにも便利だ。

 テストのデータも共有フォルダに保存されている。それぞれ教師たちは自分のパソコンで作ったテストのデータを共有フォルダに送信して、プリンターと繋いだパソコンがそれを元にプリントアウトするわけだ。ちなみに、生徒が勝手にアクセスしても大丈夫なようにパスワードの設定もできる。

「フォルダにアクセスするのはテストを作った先生たちのパソコンとプリンター用くらいですから、生徒会室のパソコンからアクセスがあったら疑われるのは仕方がないですよ」

「それはそうだが、そのアクセス履歴はテストの度にチェックしているものなのかい?」

「え? そういえば……アクセス履歴なんか確認したことないな」

「では、今回に限ってアクセス履歴を確認したら、妙な履歴が見つかったと?」

「そうなりますね……」

「ならば、そのアクセス履歴を見つけたのは?」

「えっ……ええっと……」

 言われてみれば、生徒会室のパソコンからテストが盗まれた可能性があるって話になって、相手が生徒会なら下手につつくよりテストを作り直した方がいいっていう流れになり、盗難疑惑は隠蔽することに決まった。それに関して職員室内で異議はなかった。作り直してしまえばカンニングはできない。盗難もなかったことにできる。だから、盗難疑惑そのものに対して追求する意味がなかったんだ。

 発端となるアクセス履歴。その部分を語っていたのは、誰だったっけ。職員室で行われる朝会で一番に挨拶するのは校長だ。一言、おはようございますと告げて、バトンタッチする。誰に?

「……教頭です」

「なに?」

「いえ、誰が見つけたって話まではしてなかったと思うけど、生徒会室のパソコンの話を最初にしたのは教頭でした」

 教頭はいつも穏やかな微笑みをたたえて、業務連絡を行う。その日もテキパキと指示を出し終え、教師たちは滞りなく動き出そうとした。それを引き留めて語ったのが、盗難疑惑だった。

 テストを保存している共有フォルダに覚えのない履歴があり、調べたら生徒会室のパソコンのようだとわかった。容疑者が絞られてしまうため、テストを作り直して欲しい。そんな報告。

 途中、事前に報告を受けていたという校長が、教頭の指示に従うようにと、テストの作り直しを容認したんだ。

 あの言い方は、盗難を見つけた教頭の判断に任せる、といった感じだった。

「履歴と聞けばアクセス履歴でしょうからね。生徒会室のパソコンもローカルネットは繋いでいて、アクセス権限の設定だけしていない状態でした。生徒会の子たちには説明していませんが、少し知識があれば設定を変えられたと思いますよ」

「そうか」

 とんとん、とハンドルを握る指先が悩ましげに音を立てる。節くればったその手には、年齢以上の苦労が見て取れた。

「ありがとう。保坂先生の話は大いに役立ちそうだ」

「そんな!」

「最後に一つだけ、お願いをしてもいいかな」

 なめらかに走行していた車が、目の前の信号が赤になって緩やかに停止する。俺が入力した住所までもう少し。この非現実的で蠱惑的な時間はもう終わるのだろう。そう思ったら、見上げる赤がそのまま灯り続ければいいのにと馬鹿らしい考えが過った。横を見る。

 理事長は赤い光を見上げたまま、俺の方になんて一切目を向けることなく、お願いを口にした。


「私と高井先生のやり取り、そして今、私に話したこと全て、他言しないように」


 それは人に物を頼む態度ではなく、ましてお願いをする人間の言葉でもなかった。そう、命令だ。

「……はい、わかりました」


 俺は、いや、俺も、向こう側だったのか。

 赤だった信号が青に変わる。


 俺は何もやっていない。

 俺は何も見ていないし、聞いていない。そして、話してもいない。

 なめらかに走る車の中、ああ、明日は居酒屋の近くに停めた愛車を迎えに行かなきゃなぁとぼんやり考えていた。

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