【9】彼と友人とその他もろもろ


 一年B組の教室はふだんと変わらない朝を迎えていた。彼が到着して扉を開けば、生徒のほとんどが席に着き、ホームルームの開始を待っていた。そそくさとロッカーに荷物を置きながら視線を向けるのは、奥。まだ転入生は登校していない。彼は教科書やノートを取りだして席へ向かった。なんら異常のない朝。隣の友人にいつものように挨拶を投げかけ、かたん、と椅子を引いた。

「なあ、お前さ」

 いつもなら明るい挨拶が返ってくるはずの友人の口からは、神妙な声音が漏れた。彼はそれだけで存分に驚き、つい声を潜めてしまった。

 椅子に腰を下ろし、さらに上半身を屈め、口元には手のひらまで添えて話し始める。

「なんだ?」

「昨日、特別棟で転入生と会ったんだっけ?」

「うん、そうだけど。厳密には特別棟の近くの廊下な」

「あー、じゃあやっぱりお前だ」

「わかるように言えよ」

 友人が額に手を当て、あたかも自らの失態を悔いるように目を覆う。彼はその友人のわざとらしい態度からさほど深刻な事態ではないのだと判断し、強く反応しなかった。

 額から顔面におりてきた指の隙間で、ころりと瞳を転がし、友人が彼を見る。ここまでくると甚だ面倒だ。

「今朝っつうか、さっき。食堂で」

 話を始めるタイミングを狙ったかのように、担任の教師が前方の扉を開いて現れた。そして同時に溌剌とした挨拶が響き、後方の扉から転入生と同室者が姿を現す。友人の言葉は遮られ、彼は耳を傾けることが難しくなる。ぎりぎりセーフだなんだと教師と転入生が一悶着している間、友人の話は結局聞けずじまいだった。

 手短にホームルームが片付けられ、一時間目の数学の授業が始まった。担任と入れ替わるように入ってきた教師は、騒がしい転入生に対しすでに苛立ちを顔に出していた。


 数学の教師は厳しいことで有名で、一時間目の冒頭に宿題の提出があったのだが、転入生はその宿題の存在すら把握しておらず、大きな雷が落ちた。齢五十を過ぎた初老の体から、よくもそこまで迫力のある怒声を轟かせられるものかと、最前列中央に座る彼は嘆息せざるを得ない。

 結果、転入生は休み時間に連行されていくこととなった。宿題を課されるか、はたまた奉仕活動を命じられるか、それは彼の知るところではない。多少の脱線はあったもののその後の授業は、いつもなら騒がしい転入生も肩を落とし、至って平和なものとなった。

 鐘が鳴る前に教師は授業を切り上げ、転入生の手を取って足早に教室を出ていった。助けを求めるように同室者の名を呼び、千切れんばかりに腕を伸ばした転入生だったが、その手は空を切って扉の向こうに消えた。自業自得とは言え、クラスメイトたちはまるで捧げられた生け贄を見送るような気持ちになっていただろう。

 荘厳な鐘が響きわたると、みながみな、はっと目を覚ましたかのように休み時間に突入した。


 数学の教材をしまい、次の現国の教材を取り出す。休み時間となった今、彼はロッカーの前にいた。隣では、渋い顔をした友人が同じように授業に備えている。

 友人は転入生を好いてはいない。だが、今し方展開された転入生の哀れみに満ち満ちたその姿は、クラスメイトの一員として楽しめなかったようだ。もちろん、彼も似た心境だった。

「宿題、忘れたときは助けろよ」

「お互いにな」

「……あいつ、生きて帰ってくるよな」

「円周率とか覚えて帰ってきそうだな」

「うわ、それありそう。やられそう」

「悪くはないけど」

「いやいや」

 ロッカーに体重を寄せながら、軽口を飛ばし合う。結局のところ、他人の不幸は密の味なのかもしれない。

 苦いため息のあと、友人は突然息をのみ、目を見開いて彼へ視線を投げた。

「つか、今朝の話! 忘れてた!」

「ん? ああ、なんか言ってたっけ」

 友人の目がしたりと笑う。そのままロッカーにとどまり、会話を続けることになった。

「飯食って、時間が結構やばくてさ。急いできたんだけどな、入れ違いで転入生が食堂に来たんだよ」

「へえ」

「もちろんスルーなわけなんだけど、珍しく同室の奴ともう一人、誰だったか思い出せない奴の三人でさ」

「そこは思い出せよ」

「クラス違うししゃべったことないからさ! 許せ」

「はいはい。生徒会はいなかったのか」

「そうそう! ちょっと気になって入り口のとこで話聞いたんだ。あいつ声でかいから全部聞こえるし」

「だろうな」

「鼻息荒く、昨日の昼に特別棟で会った生徒を捜すんだーって大張り切り。つまりお前だろ?」

「……だろうなあ」

「生徒会は生徒会の仕事で手伝ってくれないから、同室の奴とその友達を仲間に引き入れたんだと」

「なるほど」

 ようやく言いたいことを吐き出せたからか、もしくは彼が置かれた状況に愉快を覚えているのか、友人はけたけたと笑ってみせた。まだ休み時間は五分ほどあるが、彼は教材を小脇に挟むと足早に自席へ向かう。背後を歩く友人には、心なしかうつむき加減が普段より下に向いているように見えたのだった。

 どうする?といたずらをたくらむ子供のように問いただす友人を振り切り、かたん、と席に着く。すると、あの大きな声が、二人がさっきまで立ち話をしていたロッカーの辺りから聞こえてきた。彼は振り向きながら、まだ脇に立っていた友人の裾を引いて盾にした。

「へえ、バレたくねえんだ」

「面倒は嫌いだ」

 鐘の音が近づく教室は、次第に着席する生徒が増えていく。その誰もが、体を反転させて教室後方、声のする方へ様子を窺っていた。

「えー! 手伝ってくれないのかっ」

「俺もあいつも勉強しなきゃならない」

「なんでっ」

「なんでって、俺たちは学生だか……」

「そうじゃねえよ! なんで、嘘、つくんだ。なんでだよ!」

「嘘? つくわけないだろ」

 転入生と話している生徒はこのクラスではなかった。彼には見覚えがなく、ネクタイの色からは同学年であることがわかる。きりっとした切れ長の目に、冷めた表情。平均身長よりずいぶん高い背と体格の良さが目立っていた。

 友人の背中からひょいと顔を出し、観察を続ける。一見冷静にとれる態度だが、転入生につられて声が大きくなっていた。もう鐘が鳴るから、と吐き捨ててその生徒はきびすを返す。扉の向こう、廊下へと姿を消し、追いかける転入生は同室者によって引き留められていた。事態は収束し、彼は友人と揃ってくるりと体を反転させる。表情がかげっていたが、彼は気にせず問いかけた。

「あれ、話してたのって」

「さっき話した、今朝引き入れたっていうあの。ああー思い出せねえ」

「思い出すもなにも、話したことないんじゃなかったか?」

「いやいや。有名なはずなんだよ。誰だっけなー」

 うんうんと唸りながら、友人は隣の席に座った。教室後方では転入生が席に着き、隣の同室者になにやら話しかけている。

 そこで休み時間の終わりを告げる鐘が響きわたった。


 学内では生徒会や風紀委員会など一般生徒より権限を与えられる生徒はやはり有名となる。それ以外にも、部活動や成績などにおいて優秀な結果を残していることも有名になる条件として挙げられる。例外として、特に容姿が優れていたり、家柄によって名が知られることもあった。

 つまり、友人が思い出せないでいる正体はそんなところだろう、と現国の授業を受けながら彼は考えていた。彼は興味のないことに対する記憶力がなく、現に顔を目撃しながら見覚えがなかったわけで、友人が思い出せない以上打つ手はないと思い至っていた。

 しかし、授業中にも関わらず私語を垂れ流す転入生と、それを諫める同室者の言葉の中に、その誰かは不意に現れる。聞くつもりはないが、聞こえてくるのだから仕方がない。

「そういえばさ、あいつの名前もあれと同じ漢字だったな」

「うん、そういう話は休み時間に聞くから。授業に集中しよう」

「一つだけ! 訊いたら黙るから! お前も喧嘩強いの?」

「俺? 俺は強くないよ。ほら、授業」

「へえ……ふうん……」

 黒板には教科書にある作品の解説が半分を占めていた。転入生はその中に知った名前を見つけだしたようだ。その後の転入生は宣言通り、おそらく珍しいと言われるほど口を噤み、授業は静かに過ぎていった。


 鐘が鳴るなり、隣の友人はかたんと椅子を回転させた。彼の方へ九十度。どうしたのか、と問う前に、眉根を寄せた厳しい顔つきが迫ってきたため体を引いた。

「思い出した」

 そう言いながら友人の視線は彼から滑るように教室の後方へ向かう。言わずもがな、という意味合いを含み、友人は続けた。

「部活の勧誘をめちゃくちゃ拒否ってた」

「……はあ?」

「今年の春! たまたま見かけたんだよな。そのときにあの、同室の奴も見たんだ。なんかよくわかんないんだけど、めっちゃ誘われてた」

「へえ。それで有名なのか?」

「いや、有名なのはまた別の……なんだろう?」

「俺に訊くなよ」

 自席に着いたまま二人がそんな話をしている間、鐘が鳴るなり声を張った転入生が同室者を引き連れて人探しに飛び出していったのだが、彼は一度も振り返ることはなかった。

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