ソレイユの森 7 約束


 薬は、二つ用意した。


 親指ほどの、小さなガラス瓶に入れ、一つを資料と一緒に、鞄の中にしまった。


 紛失を恐れて、もう一つは、ここに残して行くことにする。


 もともと生えていた桜の木が、庭先やレンガの道に、柔らかな絨毯を敷いた。


 暖かい日差しを浴びながら、周一はソレイユと並んで、家の周りを歩いた。


 これから、しばらく留守にする。こうして二人で歩くのは、当分ないだろう。


 歩きながら、家に隠した薬の場所を、ソレイユにはそっと伝えた。


 薬のことは、何があっても、必ず秘密にすること。


 もしも誰かが盗みに来ても、絶対に渡してはいけないと、約束させた。


 散歩から帰ると、桜の花びらが降る中で、丸本が待っていた。


 少し痩せてシャープに見える。


「散歩のおかわりを」と丸本が言ったので、周一は薬を守らせるため、ソレイユを家に戻し、丸本と二人で、家の周りをもう一周することにした。


 鞄を下げている周一を見て、「お出かけですか?」と珍しげに聞く。


「ああ。これから、世界を変えるんだよ」


 落ち着いた声で言った、そんな周一に目を細めて、丸本は明るい声で笑った。


「見れたらなあ……」


 その言葉に、周一は何か引っかかりを感じて、寂しそうな横顔に目を向けた。


「あまり体の調子が、よくなくてね」


 細めた目のまま、丸本はそっと、風に流すような小声で話した。


「飲み過ぎがよくなかったかな。あとどのくらい、俺は生きていられるだろう。薬が合わないんだよ。始め、先生は良いと言ったのに。進行が治まらない。昨日、分かったことなんだけど……この薬には、ひどい副作用もあるんだって。薬害さ。薬を作った人が……自殺したって、大きなニュースになってるよ」


 周一の足が停止した。丸本も立ち止まり、首を傾げて、振り返る。


「開発者が逃げるなんて、どうかしてるよね? あの藤崎ってやつ……」


 許せない、と抑えた声で、丸本は言った。


「薬の名前を教えてくれ」


 周一は高鳴る心臓を片手で押さえつつ言った。脈が急に速くなってくるのが分かった。


 丸本から製品名を聞かされた瞬間、周一は後頭部を、強く何かに殴られた衝撃があった。


 それは、かつて自分が発明した薬だった。そう、あの奪われた資料の。


 開発ミス。周一は震えた。


 ……自分の代わりに、彼女が死んだ。罪を背負って、自害した……。


 不安そうに見守る丸本から、周一はふらつく足で後ずさり、距離をおいた。


 全身から力が抜けていくように感じ、鞄を地面にずり落とした。


 次の瞬間、春の嵐か、突然強い突風が吹いて、鞄の中から、紙が空へと舞い上がった。


「危ない!」


 丸本が短く叫んだ時には、もう周一の足は、後ろの崖を踏み外していた。


 桜吹雪の中を落下しながら、周一は誰かに名前を呼ばれた気がした。


「シュー教授」


 ああ、藤崎か……。周一は目を閉じて思った。


 新しい薬で、きみを驚かせたかったよ。しかし神の罰だろうか。分からない……。


 だだ約束しよう。きみと一緒に、私も行こう。


 どこまでも美しい、きみと……。


 花びらと遊ぶように、何枚もの紙が、高い空を泳いで行った。


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