第4回 山公の啓事

 漢文大系本、第3巻、77ページ。


 山濤告人曰、「自非聖人、外寧必有内憂。釈呉為外懼。豈非算乎。」時濤為吏部尚書。濤昔在魏晋之間、与嵆康・阮籍・籍兄子咸・向秀・王戎・劉伶相友、号竹林七賢。皆崇尚老荘虚無之学、軽蔑礼法、縦酒昏酣、遺落世事。士大夫皆慕効之。謂之放達。惟濤仍留意世事。至是典選、甄抜人物、各為題目而奏之。時人称之為山公啓事。


 さんたう、人に告げて曰く、「聖人に非ざるよりは、外やすければ必ず内憂有り。呉をゆるしてがいと為すは、に算に非ずや」と。時に、たう、吏部尚書と為る。たう、昔、魏晋の間に在り、けいかうげんせき・籍の兄の子、かんしやうしうわうじゆうりうれいと相ひ友たり、竹林の七賢と号す。皆な老荘虚無の学をすうしやうし、礼法を軽蔑し、酒をしいままにしてこんかんし、世事をらくす。士大夫、皆な之にしたならひ、之を放達と謂ふ。たうのみ、ほ意を世事に留む。ここに至りて選をつかさどり、人物をけんばつし、各〻おのおの題目を為して之を奏す。時人、之を称して山公の啓事と為す。


 さんとうは人にこう告げた。「聖人でない以上は、国外が安寧ならば(気が緩んで)必ず国内の憂いがある。を許しておいて国外の恐れを残しておくのが、深謀遠慮というものではないか。」このとき、さんとうは吏部尚書であった。さんとうは、これより以前、魏晋にまたがる時代に、けいこうげんせきげんせきの兄の子のげんかんしようしゆうおうじゆうりゆうれいと交遊関係があり、竹林の七賢と号していた。かれらは、みな老子や荘子の虚無の学を尊び、礼法をさげすみ軽んじ、気ままに酒を飲んでは酔いつぶれ、俗世の事を忘れ去っていた。士大夫は、みな、かれらを慕い、真似をし、これを放達と言った。たださんとうだけは、まだ俗世の事に心を留めていた。吏部尚書となって選挙を担当してからは、人物を見分けて抜擢し、それぞれの人物鑑定を書いて皇帝に奏上した。当時の人々は、これを「山公の啓事」と称した。

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