「はい、いろは屋です」

 瑶子のはきはきした声が受話器を突き抜けた。

「お仕事中すみません。先日お邪魔した夜枯です」

「あー!こないだはありがとね!どうしたの?」

「えっと、暖簾が不自然に落ちた時の事なんですけど、あの時挨拶してたおばあさんについて教えてもらえませんか?」

「あぁ、松井さんね」

「確かいつもは付き添いの方がいるんでしたよね」

仁美ひとみさんの事?そうよ、店の前が散歩のコースなの」

「その仁美さんって人、お天気キャスターと関係あったりしますかね?」

「関係って……旦那さんでしょ?」

 ――ビンゴ。

「松井さんがどうかしたの?」

「いつも紫陽花を置いていくの、もしかして仁美さんじゃないかと思って」

「えっ?」

「旦那さんがお天気キャスターなら出来ますよね、予言」

「……そっか、雨ね!でも、どうしてそんな事を?」

「それはまだ分かりませんけど……今日は通り掛かりましたか?」

「ううん、多分四時頃だと思う」

 あと二時間後か。

「話を聞いてみたいんで、そちらに寄っても良いですか?」

「いいわよ。ついでに紫陽花ちょっと持って帰ってくれる?」

「分かりました」

 軽く笑って祈は電話を切った。

「面白そうだな」

 横で聞いていた颯が興味津々の様子で身を乗り出した。

「俺も行っていい?」

「あぁ。あと、帰りにちょっと寄りたいとこがある」




 二人は駅周辺のビルや商業施設を回り、写真を撮影し、管理人に話を聞いた。

 課題はこの数時間で大方片が付き、四時前にはいろは屋に着いていた。


「いらっしゃい」

 夕飯の支度をしていたのか、出迎えた瑶子はエプロン姿だった。

「急にすみません。あ、こちら友人の谷崎です」

 颯がペコっと頭を下げる。

「いいのよ、それより本当なの?仁美さんが犯人って」

「犯人かどうかはまだ……例の紫陽花ってどのくらいの間隔で何時頃置かれてるんですか?」

「えっとね、間隔はバラバラ。雨の日の前日とか。時間はいつも早朝」

「置かれるのを待ち伏せたりはしなかったんすか?」

 颯が不思議そうに聞いた。

「だってもし変な人だったら怖いじゃない」

 それもそうだ。

「その紫陽花、見せてもらえますか」

「玄関と浴室に置いてるけど、普通の紫陽花よ。予言ならここにあるわ」

 瑶子はエプロンのポケットから小さなメモ用紙を出し、祈に渡した。

 メモ用紙には走り書きで『六月二十日 十一時』と書かれている。

「二十日、確かに昼前から雨だったな」

 颯が感心したように言う。

 祈も覚えていた。

 やはり天気予報か?

「……」

 四時になり、三人は店の扉から外へ出た。

 日差しはまだまだ届くようで、斜めに通りを貫いている。

「いつも来るとは限らないわよ?」

「ええ」

 無駄足は覚悟の上だ。



 五分後、通りをゆっくりと進む姿が現れた。

 腰の曲がった老婦人、それと細身の中年女性だ。

 背は低めで、歩幅を老婦人に合わせている。

「こんにちは」

 瑶子が声を掛けると仁美も「こんにちは」と返した。

「いつも付き添いご苦労様です」

「この歳だし、一人で外を歩かせられなくてね」

 仁美が話している間、老婦人はじっと店の外観を眺めている。

「仁美さんみたいなお嫁さんがいて、志津子しづねさん幸せだと思いますよ」

「そうだといいんですけど」

 仁美はやや恥ずかしそうに笑うと小声になった。

「最近ちょっと様子が変なんです」

「変?」

 何となしに店周りの鉢植えを見ていた祈と颯は聞き耳を立てた。

「なんだか妙に悲しげで。ずっと怖がってるような……」



『怖くなってね』



「――そうか」

 いろは屋の店先に枝垂れる名も知らない植物を見つめて祈は呟いた。

 違うのだ。志津子の目に映る世界と、自分達が見ているものは。


「夜枯?」

 志津子と仁美が帰った後、瑶子と店内に戻ろうとした颯は付いて来ない友人を探して振り返った。

「何やってんだ?」

 祈はさっき志津子がいた場所に突っ立っていた。

「分かった気がする。あのおばあさんが何を怖がっているのか」

「えっ?」 

「佐々木さんに話してみる」





 日曜日はからりと晴れ、ゆうかげ商店街に吹き抜ける風も既に夏のそれになっていた。

 祈がユーフォリアを訪れた九時過ぎ頃、着信音が鳴った。


「もしもし。夜枯です」

『おはよう。私よ』

 電話の相手は瑶子だった。

 イヴがキッチンから顔を覗かせたので、祈はスピーカーに切り替えた。

「今ユーフォリアにいます。それで、どうでしたか」

『貴方の言った通りだったわよ』


 祈の話を聞いた瑶子は今朝早くに二つの事をした。

 一つは暖簾を外す事。

 そしてもう一つは来るであろう犯人を待つ事。

 犯人が来るかどうかは確証が無かったが、紫陽花の置かれる間隔からそろそろだと予測した。

 しかして、犯人はやって来た。


「おはようございます。松井さん」

 瑶子は店から出て仁美の夫・すぐるの前に立った。

「あ……」

 スーツ姿で明らかに動揺している優の手には美しい紫陽花の束が抱かれている。

「すみません」

 優は静かに頭を下げた。

「父は婿養子なので母は生まれてから一度もこの街を出ていません。母にとってこの街は――いえ、この道や景色は家族みたいなものなんです」


 あの日、珍しく休みが取れた優は久しぶりに志津子の散歩に付き合った。

 いろは屋の前で足を止めた志津子の哀しげな顔を見た優は昔の景観を愛する彼女の為にそっといろは屋の暖簾を外そうとした。

 が、躓いて落としてしまったのだ。

 その時、店内から男を含めた複数の声がし、広く顔を知られている優は怖くなり隠れた。

 そのまま帰宅するも罪悪感に駆られ、詫びに庭で採れた紫陽花に予報を付けて届けたのだという。


「ただ降らぬ先の傘になれば、という気持ちだったんです。本当にすみません」

「いえ……」

「実は時間が出来たらお願いに行こうと思っていたんです。あの暖簾を暫く外してもらえないかという、勝手なお願いをしに。母は近々入院します。その前に母の知る昔の風景を用意してやりたかったんです」

「そんなの、言ってくれればいつだってするわよ」

「え……」

「この街が好きなのは私も同じ。志津子さんの愛には敵わないかも知れないけど……」

 瑶子は道の真ん中に立った。

 今まで大きな暖簾で気付かなかったが、いろは屋の向こう側――隣町まで遠く遠く見渡せる。

 蜃気楼のような、透き通った景色だ。

「気付きませんでした」

「えっ?」

 瑶子が思っていた事を口にした優は反対に店先を見ていた。

 水をやったばかりの葉先から滴下する雫が紺藍にきらめき、葦簀よしずに遮られて揺れる朝日と影の間に小さく虹が浮かんでいた。

「綺麗ですね」

「……ええ、とても」




『――まぁ、そんな訳で暖簾はもう少し小さいものに変える事にしたわ』

「志津子さんは納得してくれたんですか?」

 瑶子は笑った。

『納得してくれなくてもいいの。でも貴方の言葉を伝えたら分かってくれたみたい』

「俺の言葉じゃないんですけど……とにかく、もう紫陽花は来ないんですね」

『ふふ、そういうこと。ちなみに今度地元番組で取材に来てくれる事になったの。また連絡するわ』


「お手柄だったようね」

 電話を切るとカウンターにアイスコーヒーが置かれた。

「どうも」

「何故仁美さんではなく旦那さんが犯人だと?」

 イヴがカウンターの向かいに座り頬杖を付いたので、話を聞きたいのだと解釈した。

「仁美さんは志津子さん一人では歩かせられないって言ってたのに、あの日は志津子さん一人だった。二人共暖簾に手は届かないから暖簾を落としたのは別の人」

「暖簾は風では落ちない。残る関連人物が旦那さんだったという訳ね」

「ああ。それにあの暖簾は今まで外した事が無い。逆に言えば犯人は暖簾を外す必要があったって事だ」

「彼女が恐れていたのは……」

「――変わっていく事」

 祈は八神との会話を思い返した。



『ゆうかげ商店街の『紫陽花』という喫茶店に行った事がありますか?』

『紫陽花……ああ』

 八神の目が過ぎた日々を辿った。

『良い所だった。実に。良い時間とも言うべきか』 

 二人は廊下横のバルコニーに出た。

『店主ご夫婦も良い人達でね。浮かない日でもあそこへ行けば何故か軽くなった。だから無くなると聞いた時は戸惑ったよ。自分の居場所が無くなるようで……怖くなってね』

「それからは行ってないんですか?」

『私が本町の方に引っ越してね。一度だけ行ったよ』

 祈は無意識に鞄の紐を握り締めて八神の言葉を待った。

『良い店だった。私と同じように誰かが求める居場所のようだった……それで思ったよ。変わった先の新しい景色でかけがえのないものに出会うこともあるものだ、と』

 祈はこの八神の言葉を瑶子に伝え、瑶子は志津子に伝えた。



「ところで貴方、その為だけにいろは屋に行ったの?」

 イヴの信じられない、という顔が物珍しくて祈はつい笑った。

「用があったからそのついでだよ。ほらお土産」

「これ……!」

 カウンターに置いた薄桃色の箱の中にはプリンが二つ入っている。

 地蔵門駅の近くで買ったものだ。

「月乃が教えてくれた」

 あのイタリアンレストランで開いたメールには、ちょっとした情報が書かれていた。


〈件名:ありがとうございます

 今日はイヴさんを手伝ってくれてありがとうございます。きっと助かっていると思います。イヴさんはいつも七星堂のプリンを買って帰るので、祈さんも寄られたら是非食べてみて下さい。 月乃〉


「それと、報告」

 そう言って祈はイヴの前にプリントを掲げた。

「『街の景観保持に関する一提案』――良いんじゃない」

 相変わらず澄ました顔で笑うとイヴはキッチンに戻った。


「……イヴ」

 いろは屋から持ち帰った紫陽花がカウンターからこちらを覗き込んでいる。

 イヴの心はいつも曇り空のように思う。

 どんなに平然を装っていても、いつか降る雨を溜め込んで隠しているみたいだ。

「何」


 もしかすると魔女というのはイヴにとっての、そして祈にとっての言い訳なのかもしれない。

「イヴと同じものが見てみたい。だから友達になりたい」

 言葉にすると陳腐で、けれどハッカ飴のようにすうっとした。

 答えとは言わない。ただの、本心。

「ええ」

 カウンターからふわりとプリンの甘い残り香が舞い上がった。

 イヴの髪の毛が軽やかにそよぐ。


 降らぬ先に伸ばす手が同じなのは、きっと必然なのだろう。








 Meaning of friends?

【Hydrangea】

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