第三十九譚 《春》よ 巡れ と娘は愛を捧ぐ

 雪の峠道を、短い人の列が続いていく。

 列の先頭には黄金の焔。燭台ごと黄金の焔を運びだして、数人の列は季環師きかんしが導く先に、春の巣にむかって進んでいた。

 選ばれたのは町の代表者だ。春との縁が浅からぬハルビア・ルゥ・ノルテに町の信頼が厚いヨウジュ・ゴァ・ノルテ、燭台を運ぶだけのちからがある自警隊が数人に、それを指揮する隊長エンダ・ディ・ノルテ。そうして長だ。ともに春を迎えにいきたいと名乗りをあげた者は他にもいたが、崖の真下で待たせている。

 燭台は木製のそりに乗せられていた。

 焔の核は綺麗な結晶だった。これが春の心臓だなんて、誰に想像がつくだろうか。

 結晶の表には細かなひびがあり、衝撃を受けたら最後、あとかたもなく壊れてしまいそうだ。段差があると隊員がそりごと持ちあげ、坂に差しかかってからは、そりを後ろから抱きかかえるように滑らせて、焔を絶やさないように細心の注意を払った。

 ハルビアが乗っている車椅子も段差では度々詰まってしまったので、こちらはエンダが車椅子ごと彼女を抱きあげて、移動を助けていた。


「みなさん、だいじょうぶですかぁ?」


 セツが振りかえると、エンダはあからさまに表情を曇らせた。

 良心の呵責かしゃくが残っているのだ。エンダはみずからが殺しかけた旅人に向きあい、部下がいることも構わずに頭をさげた。


「ずいぶんと、ひどいことをしてしまった。悪かった。言いわけをする気はない。責任は俺にある。俺のことは許さなくていい。ただ、他の奴は」

「急になにかと思ったら、そのことですか」


 セツは肩をすくめて、柔和にゅうわに笑った。


「許すもなにもありませんて。僕はこのとおり、元気ですから、あなたもどうか気になさらないでください。あなたは、あなたの護りたいものを護ろうとしただけなんですからねぇ」

「わたしは許さないけれどね」


 真上を漂っていたクワイヤが頬を膨らませる。


「こらこら、ややこしくしないで。僕がいいんだから、いいんだよ、クヤ」


 眸をとがらせる相棒の頬をなぜて、空に還す。

 なだめながらも彼女の不機嫌が、彼は嬉しかった。彼女が怒ってくれるから、セツは怒らずに済むのだ。クワイヤは舞いあがり、列から離れたところを浮遊する。


「季節の声の側まできています。あとちょっとですねぇ」


 天候は極めて穏やかだ。午後に差しかかるまで曇っていたのに、いまはつき抜けるような青が拡がっていた。雲にも雪にも侵されることなく青が冴え渡る。風が渡れば雪が巻きあがり、大地からは青が遠ざかるが、空が凍りつくことはない。

 季節の声を頼りに列を導く。これまでは漠然と声が聴こえていただけだが、いまは声の質まであきらかだ。純真なる幼子の、歌ともいえないような。どこまでもなごやかな響きだ。

 坂を登り終えて、崖の頂上に到着する。頂きには枯れた樹木があり、枝が掛かるところには雪に覆われたくつがあった。窟からは寝息のような暖を帯びた微風そよかぜが流れだしていて、まわりに積もった雪が緩み始めていた。


「ここが春の巣です」


 セツは振りかえり、声をかけた。

 みな、あらためて気を引き締めたのが、瞳の様子から窺えた。


 窟に踏み込んでいく。暗がりに塞がれているものと予想していたが、想像とは異なり、窟のなかは光に満ちていた。壁を覆う植物の根が微かに光を帯びている。根は透きとおっており、吸いあげる水の流れまで見て取れた。根のなかを、細かな泡がきらきらと瞬きながら、流れていく。地下に張りめぐらされた水脈が透けているかのようだ。

 幻想的な景観にみながこころを奪われる。

 だが立ちどまらずに進んでいくと、ぽかんと細い横穴を抜けた。

 

 青空と草原が、視界に拡がる。窟のなかとは思えない浩蕩こうとうたる野だ。

 窟がどこかに繋がっていたのだろうか。


 緑の丘には樹があった。

 樹は根のみならず、幹から枝に至るまで、結晶でかたちづくられていた。先ほどの根はこの大樹のものか。だが不思議と、それらは柔らかそうだ。指の腹をつければ、そのかたちにあわせてくぼむのではないかと疑えるほどに。

 枝には葉が繁っていた。翡翠ひすいの葉だ。葉の影では数えきれないくらいの莟が群れ、華やかに興じられる宴の到来を待ち望んでいた。


「なんて綺麗」


 ハルビアが賛美の言葉をあげた。他の者も感嘆を洩らしている。


 大樹の根もとには、なにかがうずくまっていた。

 持ちあがった根を枕にして、綺麗ないきものが微睡んでいる。

 鹿をしてはいる。だが漂わせた貫禄が、ただの野生の動物などではないと教えていた。

 枝角は細かな毛に覆われ、ふわふわと柔らかい。先端からは若葉と莟が萌えていた。たてがみは蔓草。からだを覆う被毛ひもう桃染ももぞめだ。背から腰にかけて、残雪を連想させる模様がある。白栲しらたえを春の水際に浸せば、こんなふうに清らかな色彩に染まるのだろうか。

 折り畳まれた脚は六本。翡翠の蹄の裏をこちらにむけて、穏やかに寝息を立てている。


 幻想譚から抜けだしてきたような、美麗なる姿だ。


 セツは厳かに近寄り、畏敬を表すようにひざまずいた。

 敬虔なまなざしをそそいで、そっと声をかける。


「長くお待たせして、どうか、ご無礼をお許しください」


 ふるりと玻璃はりの睫毛が震える。

 後ろで黄金の焔がごうと音をあげて、燃えあがった。

 それが最後だったのか、焔は静まり、燃えつきた結晶が割れた。裂けたところからぽわと、黄金のもやが昇る。それは一瞬だけ、角を帯びた生物のすがたを象った。

《春》は安堵したように頭を垂れた。


《春》の魂が、昇華する。


「ああ」と長が嘆きとも歓喜ともつかない声をあげた。

 死後も魂だけで留まり、地域を護っていた《春》がようやっと安らかな眠りについたのだ。

 季節のなきがらを燃やすことに良心の咎めを覚えながら、長は焔の番に就いた。長は連日連夜、黄金の焔を眺めながら、なにを想っただろうか。《春》の境遇を憂い、無辜むこたる季節にたいする所業を悔い、胸を焼いていたに違いないとセツは想った。それでも町が大事だった。《春》を犠牲にしても、護らなければならないものがあった。だから《春》の魂が解放されたいま、長はこれほどまでに重い息をつくのだ。

 セツは季節の継承が果たされたことを覚り、新たな春に報せた。


「巡りください。あなたが、いまの《季節》だ」


 絃を奏でるような声をあげて、眠った《春》が目覚めた。

 ぶわっと、たてがみの蔓草が巻きあがる。

 角の枝についていた莟が急激に膨らんで、いろどりぜた。

 咲き誇るのは八重やえの大輪。冴えるような紅と薄桃のはなびらが重なりあい、たった一輪でも百花繚乱たる華美かびさがあった。草原一帯にあまい芳香が漂った。

 萌える角を掲げて、《春》は立ちあがる。


 六脚の蹄が地を踏みしめた。


 頭上では、大樹が待ちに待った季節を祝福するように、勢いよく咲きそろった。

 宝石箱をひっくりかえしたのかと思った。

 水晶に紫水晶。瑠璃るりや真珠。紅に蒼に、ありとあらゆる輝くものが枝から芽差す。地脈に眠る原鉱を水晶の根が吸いあげるのだろうか。多種多様な輝きが一枝からなる。されどそれらは競うことなく寄り添い、華やかに興じていた。いろどり饗宴きょうえんだ。

 町の者はほうけたように、大樹をふり仰いでいた。

《春》が踏みだすと、多数の視線がまた《春》に集う。

《春》は長の前まで踏み寄ってきた。

 長は震えながら、崩れ落ちるように膝をついた。なにも言えない。どんな言葉も弁解にしかならないから。せめてもの敬意を表そうと、長は頭巾を取り、頭を地にこすりつけた。

 長の素顔は想像とは違い、綺麗な老いかたをしていた。苦境を経験してきたとは思えない穏やかな皺が、瞳の縁や頬にきざまれている。


 静かに《春》がいなないた。翡翠ひすいの瞳は穏やかだった。

《春》は長の側に通りすぎてから、緩やかに頭をあげた。


「貴方が、《春》……なのですね」


 ハルビアが畏敬を滲ませて、言った。

 翡翠の瞳には車椅子に乗った娘が映っている。ハルビアを、先任の《春》を殺めた者の子孫を見つめて、新たな《春》は果たしてなにを想うのか。


 エンダが無言で身を乗りだす。

 ハルビアをかばうように、彼は《春》とのあいだに立ち塞がったが、ハルビアは首を横に振ってそれを制する。エンダはなにかを言いたげに唇の端を震わせて、けれど彼女の意を汲み、黙って後ろにさがった。

 幼さの残る指が、木製の輪をまわす。


 あこがれていた。慕っていた。

 彼女ひとりが、春を望み続けてきたのだ。

 春を殺めた者の血脈を継ぎながら、春を愛していた。それを、無恥むちだと罵るものはいない。純粋なる愛慕あいぼを、とがめる者はすでにいなかった。

 春を敬愛する娘は、そっと語りかけた。


「私は、幼き頃から貴方を望んでおりました。貴方にあこがれ、慕い続けてきた。貴方にどのようなことをしまったのかも知らずに。ごめんなさい。謝っても、ゆるされないことだとは理解しています。貴方が望むのであれば、このいのちを捧げます」


 後ろにいた者が騒めいた。まわりが制するのを待たずに、ハルビアは続けた。


「けれど、貴方が、それを望まないことも理解しています。貴方は、お優しいから。ならば、せめて貴方が傷つけば、私にその傷をお頒けください。貴方が嘆けば、私にもその涙を」


 愛を捧げるように指を組んで、彼女は涙ながらに言葉を紡いでいく。


 巡らぬ春を愛した幼き時から絶えず。

 胸に燃やし続けてきた、たったひとつの。


「ですから、どうか」


 願望をしのぐ、希望を。


「その慈愛をもって、この地域を巡り続けてください」


《春》は美しく声を響かせて、啼いた。

 大樹の枝がいんいんと震えて、爛漫らんまんと光が降りしきる。

《春》が娘に近寄り、肩に頭を乗せた。角があたらないようにそっと。頬をこすりつけて、いたわるように。慈愛に満ちた仕草だった。《春》は愛を表しながら、涙を零す。透きとおる涙は織物の生地に浸みて、彼女の肌を濡らしていく。


「《春》……貴方はまだ、人を愛してくださるのですか」


 きゅうといて、《春》は頭をあげる。

 肯定を、その穏やかに濡れた瞳が教えた。

 どこからともなく暖かな風が渡り、野を吹き抜ける。草の香りに誘われたように《春》が走りだす。踊るように蹄を奏でて、《春》は窟の細道に消えた。


「追いかけましょう」


 セツにうながされて、みなが春の後に続く。


 窟を抜ける。光が一瞬、視界を覆った。風景に先んじて、歓声が押し寄せてきた。崖の真下で待機していた群衆が騒いでいるのだ。


 遅れて、視界が拓けた――――。

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