最終章 麗らかなる《春》の誕生

第三十七譚 《季節》懸かり

 雪に葬ったはずの真実を語り終えて、長は長く息をついた。

 町の聴衆はざわめくこともせず、項垂れて沈黙を湛えている。凄惨なる冬と春の経緯に、掛ける言葉を町の者は持たない。悪政と憂懼ゆうくの時を生き抜いていない者が、なにを言えるというのだろうか。季環師きかんしだけが真直ぐに顔をあげ、長の背を透して、過去の悲劇を見続けていた。


「春のなきがらは、それはそれは美しかったというよ。あたしは直接みていないがね。いまの話は、当時季節殺しの英雄と近しかった者達から聞き及んだことだ。誰も彼もが、彼の死を悼んでいた。

 春は無辜むこだ。されど、季節殺しの英雄にも、罪などはなかった。ハルビア――あたしの可愛い愛娘まなむすめ。おまえの先祖は英雄だったんだよ。町を護ってくれた、いまも護り続けているんだ」


 長は静かに、セツをふり仰いだ。


「だから、どうか《春》を甦らさないでおくれ」


 長は重く重く頭をさげる。


「あのひとが命懸けで授けてくれた《冬》を奪わないでおくれ」


 セツは青葛あおかちひとみに憂いを漂わせ、ゆったりと言葉をかけた。


「冬が、長すぎたんですねぇ」


 憐れみながら、セツは町の者が知り得ぬことを報せた。


「大陸ではすでに、爵位制度は廃止されています。戦争などの功績により爵位を持った軍人がいきなり領地を与えられて領主となることで、領地の管理や経営、維持が成り立たなくなる事例が多発して、爵位制度そのものがなくなったんです。八年も前のことだ」


 長は理解できないとばかりに頭を振る。


「男爵と血縁があるとの后一族ですが、こちらは六十五年前に没落しています。敵の大陸との内通が発覚したとか。あなたがたの町が恐れていたものはすでに、残っていません」

「そんなこと、信じられるはずが」

「事実です」


 長は後ずさり、ふらついた。


「時はすべてを変えていきます。変わっていくのがあたりまえだ。ましてや、七十二年という時には、それだけの重みがある。長い時が経ったんですよ。変わらなかったのは雪のなかで眠り続けていた、この町だけだ」


 冬の砦にさえぎられて、町に情報がもたらされることはなくなった。

 町は殻にもるように延々と繰りかえす冬に籠城ろうじょうし続け、時の流れまで凍らせたのだ。だが変わらないものはないのだ。変わることを恐れていても、いずれはかならず、変革が訪れる。


 季節は巡るべきものだ。冬は、終わるのだ。


「証拠は」

「新聞でよければ」


 そういって、セツは一枚の紙を差しだす。


「爵位制度に執着した一族が処刑されたとの記事が載っています」


 爵位制度が終わった当時の新聞は残っていない。だが現実を知るのに不足はないはずだ。長は新聞を受け取り、紙が焦げそうなほどに目を凝らして、遂には石畳に崩れ落ちた。

 背後から車椅子が近寄る。ハルビアはなぐさめるように囁きかけた。


「すべてが終わっていたんですね、おばあさま」

「そう、そうか……そんなに、長い時が、経ったのね」


 長は感慨に浸るようにつぶやいた。

 長が落ち着くのを待って、セツは声をかけた。


「それから、もうひとつ。《春》は人を怨んではいません。季節を殺した者は凄惨な死を遂げましたが、それは理を侵したからであって、《春》に怨まれたからではありません。はじめから終わりまで、《春》は人を怨まなかった。ですから、その子孫に残されたものは、祟りではなかったんですよ。長さんは、ほんとうは気がついておられたのではないですか」


 長は息まで殺して、沈黙を落とす。

 この期に及んでも黙り通すつもりなのか。


「それでは、言いかたを変えましょうか。僕が《春》を甦らせずとも、季節は修復します。じきに《新たな春》に継承されるからです。ですがその頃には収穫が減り、冬患いが蔓延まんえんして、数えきれないほどの町の者が犠牲となるでしょう。町を存続できるかどうかも不明確だ。町を護るものがなくなるからです。僕の言っている意味がわかりますか?」

「それだけは、どうか」


 か細く、長が言った。

 だが真実をあきらかにしないかぎり、町の者からすれば、《春》とは最後まで祟るものでしかないのだ。あれだけの善意と慈愛が、雪に葬られてしまう。それは、あってはならないことだとセツは考える。

《春》は報われるべきだ。最後に一度くらいは。


「町の護り神たる黄金の焔は、いえ、《春》の心臓はもうすぐ停まります」


 群衆に衝撃が走る。

 町の者は想像を絶する真実に戸惑い、声を失っていた。


「黄金の焔が、《春》の」


 ハルビアが驚愕して、長を振りかえる。長は顔を覆って、うつむくばかりだ。


「この町は護られている、季節に。それは真実です。ですが、それは《冬》のみならず、《春》にも護られていた。この地域では豊かな収穫が続いていますが、豊穣とは季節の循環あってのものです。ひとつの季節では維持できない。春が護ってくれていたから、町は収穫に恵まれ、地下からは温泉が湧き続けていた」


「ですが《春》は殺されたはずではないのですか」


「ええ、殺された。ですが魂は残っていた。春の魂は、ある者に憑くことで、抜け殻の心臓にちからを送り、この地域に春の息吹を巡らせ続けた。季節を《冬》に留めたまま。後は、長さん、あなたが語ってください」


 老いた指が拳を握る。墓場まで持っていくと決めていたのだと、その挙動が教える。されど黙すか、報せるかを選択する権利は、すでに長にはない。


「教えてください、おばあさま」


 ハルビアが懇願する。


「そうだな、是非に伺いたい」


 群衆を掻き分け、ヨウジュが割り込んできた。


「重い犠牲のもとにこの町が護られてきたならば、その責任は、町の者が平等に担うべきだ。長だけが重責を担うのは間違っている。これまで町に暮らす者は身を寄せあい、ひとつの大きな家族のように極寒の冬を生き抜いてきた。そうではないのか。町の衆」


 叫ぶようなものではなかったが、ヨウジュの言葉は切々と、町の者のこころに浸みた。

 長が群衆を振りかえる。町の者が続々と頷くのをみて、長はふと息を零す。泣いているのか、微笑んでいるのか。影になって、表情は見て取れなかった。

 長はむかい直すと、旅人ではなく、愛娘に視線をさだめて語り始めた。


「先ほどの昔語りには続きがある。《春》が死んでからというもの、町は凄まじい吹雪に見舞われた。屋根には一晩にして膨大な量の雪が積もり、重みにたえかねて、次々に建物が壊れていった。寒さもまた、尋常ではなかった。不用意に外に繰りだせば、肺が凍りついて、玄関から数歩で死に絶えた」


 それはまさに地獄の冬だった、長は語る。吹雪に曝された者は、氷狼ヴォルガに喰いちぎられたかのように喉が裂け、肺まで凍りついて息絶えた。雪は猛獣だったと誰もがすくんだという。


「季節殺しの英雄は死のふちを彷徨いながら、町の者にあることを言い残してくれた。「《春》の心臓を取りだして、焔をつけよ」――それが英雄の遺言だった。町の者が一縷いちるの望みをかけて《春》の骸から心臓を持ち帰って燃やすと、急に町が暖かくなった。驚いたね。救われたと思った。あれだけ泣き荒ぶように続いていた吹雪がとまったのさ。春になだめられるように」


 春は、最後まで怨まなかった。

 殺されてもなお、怒りもせず嘆きもせずに、人を護り続けたのだ。


 怒っていたとすれば、彼だろうか。あの雄々しき竜が凍てつく憤怒を振るったのか。いや、考えすぎだ。冬は望まずとも人命を奪い取るものだ。故に砦たりえる。理の均衡が崩れ、気候が荒ぶのは季節の意にはらない。


「冒涜だった。償いきれないほどの。無残に殺して、あげく、そのなきがらを燃やして暖を取るだなんて。《春》と彼のあいだに、どのような盟約めいやくがあったのかを知り及ぶものはいない。だがいかなる言葉があろうと、これは、許されるべきではなかろうと」


 長は泣いていた。織物の生地に涙が落ちる。

 冒涜だろうと、それを悔むわけにはいかなかった。無辜むこの死により町は護られた。それを悔んでしまえば、祟りを受け、無残な死を遂げた英雄を否定することになる。


「《春》の心臓は、当時の長が洞窟に奉納した。これがいまの、黄金の焔だ」


 町の者がざわつき始めた。

 長から直接話を受け、やっと真実を呑みこめたのか。

 無理はない。町の護り神が、斯様かようなものだったとは想像を絶していたはずだ。町が殺めた季節のなきがらを、あろうことか、町は護り神として奉ってきたのだ。


「ユラフとその妻が残していった赤ん坊は、町の者で大事に育てた。時が流れ、ユラフの息子は妻をめとり、新たないのちが産まれた。その妻が出産してすぐになくなり、産まれたのが音を聴くことのできぬ赤ん坊だと発覚した時に、いまだに祟りが続いているのだと思った。だが、その頃から黄金の焔を観測する役職に就いていたあたしは、気づいてしまった。段々と衰えてきていた焔が、赤ん坊の誕生と時をおなじくして、また勢いを取り戻したことに。赤ん坊が体調を崩すと、焔も衰え、町を寒気が襲った。ぞっとしたよ。黄金の焔は、英雄の子孫と繋がっている。いや、それどころか」


 長がぶるりと震える。


「あの焔は、彼らのいのちを燃やしているようなものだと」


 ハルビアは今後こそ絶句する。


「犠牲を積みあげて、町は護られてきた。いまもこれほど可愛い娘をにえにして」


 長の震える指が、木製の車輪に触れた。愛娘の動かない脚も、果敢はかなく燃えつきる寿命も、強いられた供儀くぎだと気がつきながら、長は黙殺してきた。愛する娘が非業な命運に縛られていることを理解して、町を護ることを優先してきたのだ。


「ごめんなさい、どうか、ゆるしておくれ」

「謝らないでください。おばあさまが謝ることなんてないじゃないですか」


 ハルビアは否定するが、長は泣き崩れ、謝罪ばかりを繰りかえす。


「祟りではなかったのだな。だが、そうか、町の犠牲か」


 ヨウジュは鼻にしわを寄せた。町と一緒に護られてきた立場では非難する権利はないと、彼はわきまえていた。感情をもって、善悪を決められることではない。


「季節の魂が彼女を贄にしているのか」

「いえ、それは違います。どうか、誤解なさらないでください」


 セツはすかさず、相手の見解を否定する。


「彼女やその先祖のような者を《季節懸きせつがかり》といいます。季節は地域に宿る。これはご存知のはず。この地域とは、通常土地を差しますが、稀に人を地域とさだめる季節があります。季節とは強い生の息吹を宿すもの。季節懸かりとなった者は生の息吹をわけられ、怪我や患いでは死に至りにくくなります。寿命も延びる。ですが、季節そのものが死の際にあってはそのかぎりではありません。人側が、季節にいのちをわけることになる。だから結果、贄のようなかたちになりますが、本質は異なります」


 セツは言いながら、ハルビアに視線をむける。


「季節は贄など望まない。祟ることもない。さわりがあるのは死にかけた《春》がかっているからです。ですが、いのちをけてもらっていても永遠に留まれるわけではありません。他のどんな生物よりも、季節はことわりにちかい生き物です。その季節が理にそむき続けている。これがどれほどのことか、ご理解いただけますか? 死後もなお、大地に留まるということは理からはずれています。季節を殺め、理に抵触した者は凄惨な死を遂げました。季節もまた、理を侵せば、障りを受ける。《春》は僕らの想像を絶する苦痛に曝され続けているのです。よく、ほんとうによくこれまで、たえ抜いたものだ」


 細いひとみを見張り、セツは涙をこらえるように頬を震わせた。


「どうか、季節と季節懸かりの者を解きはなってください。お願いします。循環することもできず、留まり続けていたふたつの季節に、もう、いいのだと……解放されてもいいのだと、言ってあげてください」


 これまでの彼からは想像もつかないほどに、声は細かった。

 願い、縋りつくように、セツは長に頼んだ。

 長は揺れている。憂うことはないのだと旅人に言われても、急激な変革を受けいれるには、冬が長すぎた。それに重ねて、護りたいものが重すぎるのだ。

 町が掛かっている。

 選択を誤れば、故郷の町が滅びかねない。


「……わからない」


 長が熟考の果てに言った。

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