今夜は何やら雲行きが怪しかった。今にも雷が落ちてきそうな空模様だ。辰子が不安や悩みに苛まれているとき、あるいは悲しみにうちひしがれているとき、だいたい嵐の日が多かったように思う。十年前に大好きな祖母が亡くなったときも、小学校で一番仲のよかったクラスメイトが転校したときも、第一志望の高校に不合格だったときも。嵐の記憶が強烈に刻まれている。もちろん単なる偶然なのだろうが、どちらにせよよけいに気が滅入るのだった。

 いつもどおりバスルームへ乱入してきたフレデリカとシャワーを浴びて、宿題を済ませてから辰子はベッドに入った。だが、寝たふりをしているだけで、今夜は眠らないつもりだった。フレデリカが夜な夜などこへ行くのか、尾行して突き止めるためだ。

 辰子の杞憂であればいいと思う。昨夜はたまたま寝つきが悪くて、チョット外の空気を吸ってきただけとか。深刻にとらえず本人へ気軽に尋ねてみれば、何でもない答えが返ってくるかもしれない。実はクライミングが趣味でアイガーの北壁を攻略したコトがあるとか、真夜中に友達の部屋へ遊びに行きたくて、寮母にバレないルートが外壁しかなかったとか、何なら相手が同性愛の恋人でもおどろかない。そんなことは女子高ではよくある話だ。何なら応援してもいい。

 午前一時ごろ、フレデリカが小声で呼びかけてきた。「ねえ辰子、まだ起きてる?」

 辰子は返事をしなかった。寝たふりは子供のころから自信がある。

「ねえ、寝ちゃった?」

 フレデリカが二段ベッドの上から降りて来ると、辰子のカラダへ覆いかぶさるようにして、顔を近づける。息がかかってくすぐったい。シャネルの五番に交じって、あの蜂蜜に似た甘い香りがした。

「寝てる。寝てるわよね? うん、寝てるわ。間違いない。寝てる」

 そう自問自答するようにつぶやいて、ようやく辰子から離れた。そして服を着る様子もなく、窓を開けて出て行ってしまう。

 もう大丈夫だろうと、辰子はベッドから跳ね起きて、気づかれないよう用心しながら、窓の外を覗き込んだ。すると視界へ飛び込んできた光景に、思わず悲鳴を上げそうになった。

 フレデリカが寮の外壁を、まるでトカゲのように這っていたのだ。

 手と指が壁に吸いついているみたいに危なげなく移動している。その動きは不気味さを通り越して滑稽ですらあった。こちらからは肉づきのいい尻が丸見えだ。しかし一方で、月光に照らされた彼女の裸身は、ギリシャ彫刻の女神のように美しかった。

 やがて彼女は一番東にある一階の窓へたどりつくと、手に持っていた針金のようなもので鍵を開け、室内へと侵入した。

 なかでいったい何をしているのだろうか。昨夜戻ってきた時間からすると、部屋の様子を盗み見て、戻ってくるくらいの余裕はあるはずだ。壁を這うフレデリカの姿を思い出すとおそろしかったが、辰子は意をけっして確認してみるコトにした。

 寮の各部屋には火災のときに備えて、避難用の縄ばしごが設置されている。それを使って下まで降りてから、フレデリカのいる部屋のところまで行き、そっと室内を覗き込む。

 辰子の期待に反して室内は暗すぎて、残念ながらなかの様子はよく見えなかった。だが耳をすませてみると、何かを啜り上げる音と、ノドを鳴らして飲みくだす音が聞こえてきた。

 フレデリカは小声で何やらブツブツつぶやいている。「……ああ、ダメ……もうこのくらいで……でも、まだ足りない……あとチョットだけ……あと、ひとくち……ひとくりだけだから……」

 辰子は室内で何が起きているのか気になってしかたがなかった。そのときタイミングよく、夜空に稲妻が走った。雷光が周囲を白く照らし、遅れて雷鳴が響きわたる。ほんの一瞬のフラッシュで、辰子の目に室内の光景が焼きついた。

 ――フレデリカが、同級生の首筋に噛みついていた。

 ふだんの食事とは打って変わって、それはそれは美味しそうに血を啜っていた。

 吸血鬼だ。フレデリカはやはり吸血鬼だったのだ。

 辰子はおのれの目を疑った。あまりにも現実離れしている。さっきの壁を這いまわる姿である程度覚悟していたつもりだったが、にわかには信じがたかった。自分はウッカリ眠ってしまっているだけで、実際には夢を見ているだけなのではないかと。しかし夜風の肌寒さが、これは現実だと告げていた。だがこの震えは本当に寒さ?

 早く逃げなければ。のぞき見しているのがバレる前に。しかし、吸血されている同級生を見捨てて? いや、大丈夫だ。これまで襲われた生徒たちは、みな数日寝込んだだけで済んだではないか。断じて見殺しにするワケではない。だいたいこんな状況で、自分に何ができるというのだろう。むしろヘタに手を出すべきではない。

 逡巡したすえ、辰子は自分の部屋へと戻った。襲われている生徒への罪悪感と、おのれへの嫌悪感に苛まれながら。

 ベッドへもぐりこむ。さっさと眠ってしまいたかったが、目がさえてなかなか寝つけなかった。そうしているうちに、フレデリカも部屋へと戻って来た。自分も襲われるのではないかとビクビクしていたが、フレデリカは何もせずベッドへ上がった。

 ひとを襲うバケモノと、同じ部屋で仲よく暮らしていたなんて。思い返せば思い返すほど、背筋が凍る思いがした。けれどもそこで、ならばどうして自分が真っ先に襲われていないのか気になった。わざわざほかの部屋へ忍び込むより手軽なのに。どういう事情かわからないが、このまま気づかないフリをしていれば助かるかもしれない。何事もなかったかのように過ごしていれば。

 夜が明けても、スッキリしない天気が続いていた。重い雲が垂れこめて薄暗く、今にも雷が落ちてきそうだ。

 吸血された生徒は案の定、学校を欠席した。これまでもすべてフレデリカのしわざだったのだ。

 こうも立て続けだと、生徒たちにも少なからず動揺が広がっていた。ただし、恐怖とはかぎらないが。

「実はあたし、見たんだ……真夜中に寮の廊下を歩く、髪の長い女の姿を! アイツがゼッタイ吸血鬼だね! 間違いない!」

「えー、ホントに見たのォ? テキトーぬかしてるだけでしょ」

「ウソじゃないって。ホントに見たんだって。真っ白い浴衣を着て、幽霊みたいにゆらゆら歩いてたんだって」

「……あ、たぶんそれ、ウチだわ」

「エッ? マジ?」

「談話室に忘れ物しちゃってさ。取りに行ってたの」

「そういやアンタ浴衣で寝てたっけ。でも忘れ物って何だったの?」

「パンツ」

「なんでそんなもの忘れるの……」

「アハハハハ、そんなの脱いだからに決まってるじゃん」

「だから! なんであんな場所でパンツ脱いだかのよ!」

 誰も彼も、あまりに楽観的な態度だった。あるいは不安を必死で押し殺しているのかもしれないが、それにしても限度というものがある。この状況をどこかおもしろがっているフシさえあった。つぎは自分が同じ目に遭うなど、つゆほども考えていない。一度襲われた生徒すらそんな様子だった。

 ある意味楽観的なのは、教師たちも例外ではない。

「えー、最近、貧血で休む生徒が続出している。秋にしては暑い日が続いているからな。油断しないで水分補給を心がけるように。それとあんまり夜更かしするなよ。規則正しい生活を心がけろ」

 真相を知る辰子からすれば、そんな忠告は空虚に響くだけだった。

 なら、どうすればいいのか? 吸血鬼に襲われないためには。ニンニクかそれとも十字架か。

 ニンニクを手に入れようと思ったら、外出許可を得てふもとの店へ買いに行かなければならない。だが許可が出るのは休日であって、今日はまだ水曜日だ。それでは間に合わないかもしれない。

 十字架はどうか。こういう学校にしてはめずらしく、スコロマンス女学院はミッション系ではない。十字架を手に入れようと思ったら、やはり外出して買いに行く必要がある。しかし十字架なんてどこに売っているだろうか。正式なロザリオじゃなくてもチャント効果があるかどうか。いっそのコト自作したほうが早いかもしれない。

 昨夜までは襲われなかった。だからと言って、今夜も無事でいられるとはかぎらない。早く手だてを考えなければ。進んでいく時計の針におびえながら、辰子は必死に打開策を練った。

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