「アハハハハ、それは実に災難だったねェ。同情するよ」

「もう、笑いごとじゃないですよ烏丸先輩! セクハラされるこっちの身にもなってください!」

 あれからというもの、宣言通りフレデリカは辰子がシャワーを浴びているところに毎晩侵入してきた。それだけではなく、寮の部屋にいるあいだはベッタリくっついて、離れようとしない。しかも彼女の寝間着は、いわゆる「シャネルの五番」なのだ。添い寝を要求されないのがゆいいつの救いだった。

「まァまァ、これでも飲んで落ち着きたまえよ」そう言って、烏丸はビーカーに入ったコーヒーを差し出した。「安心したまえ。チャント薬品を入れるヤツとはべつにしてるから」

 勧められるまま辰子はコーヒーに口をつけた。インスタントにしてもひどい不味さだった。あまりの苦さに顔をしかめる。

「オヤオヤ、せっかくのかわいい顔が台無しだ」

「だったら、もっと美味しいコーヒーを淹れてくださいよ……」

 烏丸は高等部三年生の化学部部長だ。といっても、部員は彼女ひとりしかいない。にもかかわらず、なぜ廃部にならないかといえば、それは彼女が創立者一族で、現理事長の娘だからだ。彼女はその権力で好き勝手できるのだ。教師たちも彼女には逆らえないらしい。

 烏丸は長い髪をした大人っぽい知的な雰囲気の女子で、モデルみたいにスタイル抜群だ。いつも制服の上から着ている白衣と、赤いプラスチックフレームの伊達メガネがよく似合う。

 辰子がこの先輩と出会ったのは、六月はじめの雨が降った日だった。その日は朝からジメジメと蒸し暑く、汗がジンワリと染み出して、下着がビショビショになってしまってとても不快だった。放課後、化学の授業でハンカチを忘れてきたことに気づいた辰子は、実験室へ取りに行った。すると烏丸がひとり、液体窒素でアイスクリームを作っていたのだ。烏丸はこちらに気づくなり、開口一番告げた。「食べるかい?」想像以上に美味しかったせいで食べすぎた辰子は、数時間後、下痢に苦しんだが。

 以来、辰子はこうして週に一、二回は化学部で入り浸っている。先輩ではあるが、辰子にとってこの学校でただひとりの親しい人間だ。本来は正式に入部すべきなのだろうが、廃部の危機がないため烏丸もそのあたりはいいかげんだった。

「しかしアレだね。かぐわしい百合の花が咲いているね。咲き誇っているね。プンプン匂っているね。やはり女子校というのはステキだね。アラニュ・ジャーダはいい仕事をしてくれたね」

「もう、茶化さないでください。こっちは真剣に悩んでるんですから。いくら女同士だからって、スキンシップっていうにはやりすぎですよね。ヤッパリ、チャント拒否したほうがいいのかなァ」

「なぜ? せっかくラブラブなのにもったいない」

「ラブラブじゃないです」

「ああ、ルームメイト。何たる甘美な響き。ボクも屋敷から通学するのをやめて、ほかの生徒たちと同じように寮で暮らそうかな? でも、今のタイミングだと一人余るから意味ないか。そうだ、母に頼んでフレデリカを部屋から追い出し、代わりにボクが入居しよう。どうだね? これでキミの悩みも万事解決じゃアないか」

「先輩と同室はエンリョしますよ。イビキうるさそうだし」

「聞き捨てならないな。ボクの寝息は静かだと、ご近所に定評があるのだ。むしろ死んでいるようだとさえ言われている」

「そりゃアそうでしょうとも。ご近所のひとなんて近くにいませんからね。ここの山は全部学校の敷地なワケですから」

 相談する相手を間違えたかもしれない――。そんなことは辰子も最初からわかっていたのだが、ほかにアテがなかったのだからしかたない。万が一マジメに答えてくれる可能性もゼロではなかった。とはいえ結局ムダに終わったので、辰子は話題を切り替える。

「そんなことより先輩、今日は何も実験しないんですか」

「実はまだ実験に必要な素材がそろっていなくてね。でも大丈夫、もうすぐ手に入るだろうから」

「どんな実験をやるんですか?」

 烏丸はいつもユニークな実験をおこなう。それらは授業でやるような堅苦しい内容とは異なっていておもしろい。初めて会ったときの液体窒素アイスが好例だ。場合によっては役得もあるかもしれない。辰子が化学部に入り浸っているのは、そういった理由もあった。

「リンの元素を分離する実験だ。十七世紀にヘニッヒ・ブラントというドイツの錬金術師がおこなった実験を再現する」

「具体的にはどういう?」

「ひたすら尿を煮詰める」

 辰子はおのれの耳を疑った。思わず訊き返す。「にょう?」

「尿というのはオシッコのコトだ」

「言い直さなくていいです! ていうか、冗談ですよね? 本気でそんなバカげた実験をするつもりで?」

「バカげたとは失礼な。化学史における偉大な功績のひとつだぞ」

「それはそうかもしれませんけど、だからってマネしなくても」

「いや、だからこそだよ。イマドキ誰もやりたがらないからこそ、再現するコトに意味があるのさ」

「……わかりました。勝手にやってください。どうぞお好きに」

 もうこれ以上何を言ってもムダだ。実際、興味深い実験ではあるし、あえて止める理由はない。ただし、自分が関わらなければの話だが。尿を煮詰めるなんてマネをすれば、実験室に充満する悪臭は相当なものになるだろう。そんな現場には絶対居合わせたくはない。さっさとお暇するコトにしよう。それが賢い選択だ。

「上手くいったかどうかだけ、あとで教えてくださいね」

 辰子はトイレに寄ってから寮へ帰ろうと思ったが、なぜか実験室の扉が開かない。カギが閉まっている。

「ムダだよ。さっき顧問に連絡して、キミが来たら外から施錠するよう伝えておいたんだ。生徒が立てこもれないように、教室の扉は内側から施錠できない作りになっている。言い換えれば、室内から解錠することもできない。キミは籠の鳥というワケだ」

「何の悪ふざけですか? アタシを閉じ込めていったい何を。言っておきますけど、実験を手伝うのはナシですよ。オシッコの臭いがカラダに染みついちゃいそうだし」

「安心したまえ。頼みを聞いてくれれば、すぐに解放する。言っただろう。まだ実験の素材が手に入っていないと」そう言って、烏丸は大きめのフラスコを差し出した。「これにオシッコを出してくれ」

「絶対イヤですッ! 自分のを使えばいいじゃないですか!」

「一人分だけだと、さすがに量がチョット心もとないからね」

「そんなのアタシの知ったことじゃありません。とにかく帰りますから。何なら窓から抜け出してでも」

 化学実験室は二階だ。その気になれば降りられなくもない。

 だが烏丸はあざ笑って、「それはどうかな? すぐにそんなコトは言っていられなくなるぞ」

 そのとき、先ほどから感じ始めていた尿意が、急激に高まった。膀胱が張り詰めて痛いくらいに。

「……まさか、さっきのコーヒー!」

「アハハハハハハハハハハ! 油断したね。実を言うと、利尿剤を一服盛らせてもらったのだよ」

 辰子は思い出した。初めて出会ったときの液体窒素アイスも、自分は「ダイエット中だから」と言って、辰子にだけ食べさせたのだ。あとで下痢をしたのは腹が冷えたからだと思っていたが、ひょっとしたらあのときも、下剤か何か盛られていたのかもしれない。

「さァ、ここで子供みたいにおもらしするのがイヤなら、このフラスコのなかにオシッコしたまえ」

 辰子はもはや一歩も動けそうになかった。ヘタに動けばもらしかねない。細長くゆっくり呼吸して、何とかこらえようとする。はたしてどのくらいもつか。本音を言えば、一分一秒もガマンできそうにない。脇の下や股間からジットリと冷や汗がにじみ出る。

 こちらが動けないのをいいことに、烏丸は辰子のスカートに手を入れて、パンツをムリヤリ脱がせようとしてくる。ガマンするのに精いっぱいで抵抗できない。股間が外気に触れる。ふだん生徒たちがまじめに授業を受ける場所で、下半身をむき出しにしている。

 フラスコの口があてがわれる。ガラスの冷たくて硬い感触に辰子はビクリと震える。

「そうそう、そうやってイイ子にしていたまえよ。ジッとしていないとこぼれちゃうからね。というか、もうチョットくっつけたほうがいいかな? そらグイグイっと」

「あ、チョット、待って、そんなしたら出ちゃ――アッー!」

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