四月四日

 ベーカー街221B! そうよ! ベーカー街221Bだわ!

 どうして気づかなかったのかしら。ハドソン夫人の下宿こそまさしく、名探偵シャーロック・ホームズの居場所ではありませんか。

 わたしの脳裏に、ある名案がひらめきました。ヘルシングの素性とホルムウッドの行方を、ホームズに調査してもらったらどうでしょうか。考えれば考えるほど良策に思えてきました。

 わたしは安宿の前で辻馬車をつかまえると、まっすぐベーカー街221Bへと向かいました。ハドソン夫人にもあらためてお礼を言いたかったけれど、あいにく再会できませんでした。その代わり本命のホームズはちゃんといました。それに相棒のワトソン博士も。

「すみません。わたしはハドソン夫人のお世話になったもので、いえ、今日は彼女は関係なくて、ミスター・ホームズ、『緋色の研究』読みました、じゃなくて、実はあなたに依頼したいことがあるのですけれど、お会いできて光栄です」

 本物のホームズが目の前にいると思うと、わたしは緊張して舌がもつれてしまいました。さしずめ恋する乙女のように。

「落ち着いてくださいシスター。僕に解決してほしい事件のことを、最初から順を追って説明してもらえますか。ああ、その前に自己紹介をしていただきましょう。教えてもらうのは名前だけでかまいません。キミがトランシルヴァニアからやって来て、路銀をケチって歩いていたら馬車が跳ね飛ばした馬糞が命中し、ハドソン夫人の厚意で浴室を貸してもらったことはわかっていますので」

 「なぜそれを! まさかハドソン夫人から昨日の話を?」

「いいえ、彼女からは何も聞いていません。初歩的なことですよ。私が昨夜帰宅すると、ハドソン夫人は鼻唄まじりに夕食を作っていました。彼女は機嫌がいいとよく鼻唄をするが、しかし昨夜のそれは、ふだんと異なるメロディでした。私は音楽には造詣が深いものでして、それがすぐにハンガリーの哀歌だとわかりました。しかしハドソン夫人はどこでその曲を覚えたのか。尋ねてみましたが、はぐらかして答えようとしない。見たところ、あまりひとにしゃべるべきではないと考えている様子でした。理由は入浴しようとして気づきました。排水口からほのかに馬糞の残り香がしたからです。馬糞を引っかけられるようなマヌケは――失礼、とにかくロンドン市民ならそんなヘマはしません。となると旅行者の可能性が高い。したがって、不運な旅行者にハドソン夫人が風呂を貸したと結論づけました。彼女の口が堅かったのは、その人物の名誉のためでしょう」

 するとそれまでだまっていたワトソン博士が苦笑して、「ホームズ……。そこまでわかったなら、その指摘が配慮に欠けることも気づくべきだったな。ハドソン夫人の心づかいが台無しだぞ」

「……これは失礼。気を悪くしないでくださいシスター」

「いえ、それより、なぜわたしがトランシルヴァニアの者だと?」

「まず、その革ひもを巻きつけたサンダルはbocskorですね。ハンガリーの農民がよく履いているものだ。あなたからは農民らしからぬ高貴さがあふれ出ているが、質素倹約を尊ぶ修道院の人間にはふさわしいでしょう。そして、あなたの英語にはハンガリー訛りだけではなく、ドイツ語とルーマニア語も含まれている。これらの言語が交錯する地域と言えば、トランシルヴァニアくらいのものだ」

「すごいわ。伝記のとおりなのね。魔法使いみたい」わたしは心の底から感心しました。まさしく本物のホームズ、本物の名探偵だわ。

 ホームズは得意げに、「見たまえワトソン。これがあるべき反応というものだ。それなのにキミときたら、僕がタネを明かすといつも『なんだ。案外たいしたことないな』という顔をして」

 ワトソン博士ははぐらかすように咳払いしました。「それでシスター、あなたのお名前は?」

「イロナ・コルヴァンと申します」

 わたしが答えると、ホームズはとても興奮した様子で、「コルヴァン! するとあなたはもしや、かの偉大なるハンガリー王にしてボヘミア王、マーチャーシュの一族ではありませんか?」

「ええ、そのとおりです。トランシルヴァニアでもっとも由緒ある家柄に生まれたことは、わたしの誇りです」

「ワトソン、きみはマーチャーシュ王を知っているか?」

「いいや、あいにく東欧の歴史にはくわしくなくてね」

「歴史に覇王は多かれど、賢王は非常に少ない。ましてや戦乱の時代ならなおさらだ。マーチャーシュ王はその数少ない一人と言える。彼の治世がハンガリーの黄金時代だった、と断言しても差し支えないだろう。もし彼が早世していなければ、神聖ローマ皇帝の座に就き、ヨーロッパをさらなる繁栄へと導いていたに違いない」

「しかしホームズ、きみが犯罪史以外の歴史にそこまで造詣が深いとは知らなかった」ワトソン博士は愉快そうにほほ笑んで、「待てよ。ボヘミア王といえば、あの女性の事件を思い出すな」

「ワトソン、僕にはきみが何を言っているのか、まるでわからないな。おっと、いかんいかん。すっかり話の腰を折ってしまったようだ。申し訳ありませんシスター。続きをどうぞ」

 お兄様のことをほめられるのは悪い気分ではないけれど、わたしは促されるままに続きを話しました。

「それで頼みというのは、ある人物を見つけてほしいんです。わたしの夫――ではなくて、わたしの亡き姉の夫、つまり義理の兄の失踪に、その男が関わっているかもしれなくて」

 危ないところでした。修道女に夫がいては不自然ですものね。つい弾みで架空の姉を創造してしまいましたが、わたしはそれ以上ボロを出さないように、気を引き締めなおしました。

「義兄のドラキュラ伯爵は由緒ある家柄で、その歴史の古さはわがコルヴァン家はもちろん、成り上がりのハプスブルグ家やロマノフ家など足元におよばないほどです。一族の者が何度もトランシルヴァニアの領主に選出され、中世には十字軍の先鋒として武勇を振るいました。ですが、そんな名家も現在ではすっかり没落し、居城とわずかな土地を残すだけ。そのせいもあってか、伯爵は時代に取り残された片田舎を出て、文明の最先端であるロンドンへ移住したいと長年もくろんでいました。その計画が実行に移されたのが、今から四年前のことです。しばらくは手紙が着ていて、いずれ屋敷へ招待すると書かれていたのですが、やがて音信不通に。待てど暮らせど便りがなく、今年になっていよいよしびれを切らしたわたしは、こうしてロンドンへ駆けつけたというわけです。伯爵から最後に届いた手紙には、赤毛のヘルシングなる人物ともめている旨が書かれていました。彼に会えば、伯爵のゆくえがわかるかもしれません」

「つまり、そのヘルシングを捜せばよろしいので?」

「ハイ。それともう一人。ハドソン夫人に助けていただいたあと、伯爵が暮らしているはずのカーファックス屋敷を訪れたのですが、どういうわけか空き家として孤児院に貸し出されていたのです。何でもゴダルミング卿ことアーサー・ホルムウッド氏が慈善事業として、ロンドンのあちこちにある空き家を借り上げて、私設の孤児院や救貧院として提供しているのだとか。もしかしたら、ゴダルミング卿も伯爵の失踪に何らかの関わりがあるのではと。手紙にもヘルシング氏だけでなくその仲間たちと書かれていましたし」

「手紙の現物をこちらへお持ちでしょうか? 可能なら実際の文面を確認しておきたいのですが」

「ごめんなさい。トランシルヴァニアに置いてきてしまいました」

「そうですか。僕の目で直接見れば、何か新たな手がかりに気づけたかもしれないのですが、残念ですね。まあないものはしかたがありません。では、伯爵とヘルシング氏とのあいだのもめごとが、具体的に何だったのかはわかりますか?」

「いえ、手紙にハッキリとは書いてありませんでした。ただ、文面からすると女性問題のように感じられました」

「ということは、手紙に女性の名前が書いてあったのですか?」

「はい。二人の女性の名が記されていました。ルーシーとミナです。何やら二人をとても気に入っている様子でした。ひょっとしたら伯爵は、彼女らを後妻に迎えようと考えていたのかもしれません」

「一度に二人とは、伯爵は気の多いかたのようですね」

「いえ、どうやらまずルーシーのほうから袖にされて、次にミナへ目をつけたようでした」

「そうですか。ではあなたは、伯爵が女性をめぐりヘルシング氏たちと揉めて、失踪することになったとお考えですか?」

「ええ。そのように想像しています」

「なるほど、事情はおおむね把握しました」

 ホームズは肘かけ椅子にゆったりと身を預けて、両手の指を三角形に合わせると、何かを深く考えている様子で沈黙しました。邪魔をすべきではないと思い、わたしはそのままだまっておとなしく待ちました。その間、ワトソン博士が何やら言いたげにこちらを見ていらしたけれど、結局話しかけてきませんでした。

 やがてホームズは指を解き、依頼を引き受けてくれると答えてくれました。

「ただし、これは承知していただきたいのですが、僕はつねに複数の事件を手がけています。また、緊急性の高い相談が舞い込むことは日常茶飯事でもあります。よって、あなたの依頼にかかりきりというのはむずかしいでしょう」

「わかりました。わたしはしばらくロンドンに滞在する予定です。ひとまずホワイトチャペルの宿に泊まっていますので、調査に進展があったら教えてください」

 わたしはホームズに礼を告げ、ベーカー街をあとにしました。上手く見つけれくれるとよいけれど。

 さて、ホームズがヘルシングたちを捜索するあいだ、わたしもただ座して待つ気はありません。ここはわたしなりの方法で、連中をおびき出してやるとしましょう。

 とはいえ、やはりその前に拠点の構築が最優先です。日が暮れるまでのあいだに、わたしは辻馬車でロンドンじゅうをめぐり、棺桶を隠すのに最適な場所を探しました。そしていくつか候補を検討した結果、もっとも安全と思われる場所を選びました。利便性には何がありますが、ここなら敵には絶対見つからないはずです。

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