「病院の魔女」

…いつしか、

薄暗い廊下をスミ子は歩いていた。


手首には赤い毛糸の紐が巻き付いていて、

服はシャツと出勤用のズボンというラフな姿。

足は靴下で靴をどこにやったかも覚えていない。


つい先ほどまでジャケットを着ていたはずなのに、

上着の類が見当たらない。


だが、そんなことはどうでもいい。


スミ子は疲れていた。

ただ、疲れていた。


だが体は動く。


ふわふわと定まらないながらも、

確実に足は動いている。


みれば、左右に並ぶドア。

大きな引き戸。


その横には電子パネルが付いていて、

人の名前が二人ないし四人ほど表示されている。


そこは人気のない夜の病院。


非常灯と電子パネルの光だけがぼんやりと浮かぶ、

どこかの病棟のように見えた。


体も、頭も重い。


休みたい。

ただ、自分は休みたい。


足は動くも考えることがほとんどできず、

ただひたすら腰が落ち着けられるところを探す。


そして一つのドアを見つける。


なぜかそこに惹かれるものを感じ、

スミ子は壁につけられた

患者の名前をぼんやりと見つめたあと、

フラフラと中へ入ることにする。


広い個室。


壁にはみっしりと大小のぬいぐるみが

敷き詰められていた。


たいていのものは小ぶりなものだが、

中には人間大のぬいぐるみも置いてあり、

それはぬいぐるみというよりは着ぐるみに

近いのではないかとスミ子は一瞬、頭の隅で考える。


その中央に置かれた一台の保育器の中には、

栄養の管と酸素吸入器に繋がれた赤ん坊がむずかっていた。


色の白い赤ん坊。

赤い産着に包まれた赤ん坊。


スミ子はぼんやりと赤ん坊に近づき、

顔をよく見ようとした。


すると、赤ん坊の目がうっすらと開き、

奥に見える赤い炎のような瞳がスミ子を見つめ、

こう言った。


『ああ、ようやく来たかい。溝口の嬢ちゃん。

 待ちくたびれて死んじまうかと思ったよ。』


なぜかスミ子の苗字を知っている赤ん坊は

赤ん坊らしからぬ声で「ひっひっ」と笑う。


『なあに、心配するこたあない。

 私はあんたを誘ってあげようと思ってね、

 ほら、あんたたち。立ちな。』


呼吸器をつけている赤ん坊がそう言うと、

大きなぬいぐるみのうち2体が動き出した。


…いや、それはぬいぐるみではない。


それはスミ子の思った通り、

人の入った着ぐるみだった。


遊園地で見るようなトラやクマの着ぐるみ。


スミ子の身長よりもひとまわり大きい

着ぐるみがのっそりと起き上がる。


そして、2体は何かをつかんでいた。


それは、ジッパーの開いた、

誰も入っていないネコの着ぐるみ。


『嬢ちゃん、あんた疲れていないかい?』


赤ん坊の声にスミ子は危うくうなずきそうになる。


…そうだ、自分は疲れ切っている。

それは肉体的な問題ではない。


人と接すること、社会を生きていくこと。

その両方にスミ子は疲れ切っていた。


これからどうすればいいのかもわからず、

自分に何ができるかもわからない。


真っ暗な将来、真っ暗な人生。


『だったらこの中に入りなよ。』


赤ん坊は笑う。


『この連中はあんたと同じ子たちだ。

 人生に疲れ、生きる希望を失った子たち…』


スミ子は、ぼんやりと左右の着ぐるみを見る。

どうやら、着ぐるみに入っている人間は眠っているらしい。


『私は、休める場所と働くところを与えているんだよ。』


赤ん坊の言葉。


『辛いことも、悲しいことも感じることはない。

 着ぐるみの中に入っている間は怪我一つしやしない。

 あんたが寝ているあいだに私が肉体を動かし、

 維持も管理も寿命が尽きるまで行ってあげよう。

 …なかなか、魅力的な話に思えないかい?』


ケケケと赤ん坊は笑う。


『私は過去も今も未来も見える、

 いにしえから街に根ざした存在。

 その下で仕えることはとても栄誉なことだ。

 さあ、溝口の嬢ちゃん…私に仕える気はないかい?』


着ぐるみは中に柔らかな綿が敷き詰められており、

中に入ればスミ子は生涯において安心感を

手に入れられるような気がした。


これ以上苦しまなくて済むという言葉、

その言葉にスミ子は涙が出そうな気持ちになる。


今まで苦しんでいた社会を捨て、

ただ静かに休んでいればいい。


…それが、どれほど楽なことか。


スミ子はふらりと前に進もうとしたが、

その時、腕につけていた紐に気がついた。


それは、赤い毛糸で編まれた紐状のミサンガ。

毛糸を編んでいた女性はなんと言っていたか。


…人である以上、この場所とは距離を置かねばならない。

…鳥を追いかけていけば、その答えは自ずと出る。


もう状況は変わり始めているのだから。


そして、スミ子は口を開き…


「鳥について教えて下さい。

 街に根ざしているあなたならわかるでしょう?」


赤ん坊に対し、いつしかそう問いかける。


それは、思ってもみない言葉。

どうして出てきたかわからない質問。


だが、その問いに対し、

赤ん坊はどこか楽しげに含み笑いをした。


『ふふん、鳥ね。

 自分のことよりも真実を先に知りたいと…』


そして、赤ん坊は「ひゃあひゃあ」と笑った。


『…正解だよ嬢ちゃん。

 その選択で間違っちゃあいない。』


2体の着ぐるみが、

ネコの着ぐるみのジッパーを元のように締める。


『もし、嬢ちゃんがこの着ぐるみを着ていたら、

 不死の代わりにろくな最後を迎えられなかった。

 …賢明だ。あんたは利よりも理を選んだのさ。』


その時、スミ子の肩を誰かが叩いた。


みれば、それはユウキであり、

彼は保育器を一瞥して眉をひそめる。


「気味悪い婆さんなんかほっとけ、

 さっさと起きないと空間に取り残されるぞ。」


その言葉にスミ子は目を白黒させる。


「え、婆さんて…いや、それよりなんであんたが?

 あれ…そういえば私、確かマンションの部屋で倒れて…」


そうしてスミ子が現状に混乱していると、

急に周囲の景色が変化した。


そこは、先ほどスミ子が歩いていた長い病院の廊下。

いつしか二人は病室から廊下へと移動していた。


「おい、逃げるぞ…!」


その時、ユウキが廊下の奥へと視線をやった。


みれば廊下の電気が奥の方から

消えていくのが見える。


いや、消えていくだけではない、

奥から何かが迫ってくる。


それは真っ暗な空間。


ブラックホールのように渦を巻き、

中央には何か巨大な生物が顔を覗かせようとしている。


「早く起きろ!『うろ』になる前兆だ。

 でないとあんたも死ぬだけじゃあすまないぞ!

 起き方はあんた自身が見つけないといけないんだ!」


ユウキの必死の言葉を聞くも、

スミ子はどうすればいいかなんて見当もつかなかった。


…ただ、わかることは早く出口を見つけること。


周囲を見渡すと院内の中央棟のドアが

開いていることに気がつく。


暖かな光が射し込み、

そこに誰かいるのか電灯の明かりも見えていた。


「こっち!」


スミ子は自分の感覚に従い、

光に向かって駆け出した。


だが、次の瞬間。


周囲の空気があっという間に冷たくなり、

吐く息が白くなる。


ドア横の電子パネルは大量の霜をつけ

暗闇に飲まれながら次々に消えていき、

足元には薄い氷が張っていく。


足元が凍える中、

ユウキもスミ子も必死に走る。


背後で雪混じりの風が吹く。

廊下の左右には積もった雪が溜まっていく。

…そんな、もう春も終わろうとしているのに。


その時、スミ子の耳に

先ほどの赤ん坊の声がした。


『ひどいもんだ。あんたは院内にいる別の人間の

 虚に取り込まれる寸前じゃあないか。』


その言葉に、スミ子は憤った。


「何よ、これもあんたのせいじゃないの!」


すると赤ん坊の声は『やれやれ』とため息をつく。


『違うね、私とは別に空間にいる誰かの仕業だ。

 もっともそいつも随分と寿命に近づいているようだけどね。

 それより聞きたいんじゃなかったのかい?

 さっきの質問の答えを、鳥がどこにいるかを。』


スミ子は赤ん坊の声を

耳にしながらも必死に走る。


光の溢れる部屋は目の前に迫り、

上には『集中治療室』の文字もちらりと見えた。


『…私の部屋に来な。ヒントを渡そう。

 もっとも空間を泳ぐ鳥の足跡を辿るには、

 常に困難と犠牲を払うがね。』


部屋に飛び込みながら、スミ子は聞いた。


「あなたは、一体何者?」


すると、『ふぇ、ふぇ』と赤ん坊は笑い、

こう答えた。


『マザー・ヴンダー…

 驚異とは、世界の薄皮一枚下にあるものさ。』


その言葉が聞こえた瞬間、

スミ子の意識は遠くなり…

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