06 別世界じゃない

 案内された風呂場とやらは、エイルがこれまで何度か訪れたことのある城下町の湯屋とはかなり違った。

 いくら城とは言え、使用人のためのものだ、そう変わることはないだろうと考えていたエイルは、設備の説明に一カイはかかるといったファドックの言葉が冗談ではないと知る。見慣れぬ器具に薬草、香液。髪の毛と身体と顔を洗う薬がそれぞれ別に存在するなんて、いったい誰が考える?

 これまたファドックの見越した通り、エイルはそれらをおそるおそると使っては慣れぬ香りに口をひん曲げた。彼の能力と判断ででき得る限り、彼がもう充分だと思う状態の数倍にきれいに洗い上げ、清潔な布地で身体を拭いて――本当に、この布で濡れた身体を拭いていいのかどうかも、悩んだ――これまで彼が身につけていた、かぶるだけの簡単な衣服と違う「制服」に四苦八苦していると、ファドックが戻ってくる。

「ねえ。――セラス」

 どう呼びかけていいか一リア迷ったエイルは、先のレイジュに倣ってそう呼ぶことにする。騎士コーレスという存在がどの程度「偉い」ものかさっぱり判らない。

「これ、どうすんの。この紐、何さ」

「ああ、それは下衣につけるんだ。穴が空いているだろう、そこに通して――そう、そして肩に掛ける」

「面倒くさいもんだな」

「いずれ慣れる。ふむ」

 ファドックはエイルに近寄ると、両手で彼の頭を挟んだ。

「ちょっと、何」

 エイルは顔をしかめた。一リア、痛みのようなものを覚えたからだ。先の、雷に似た。

「じっとしていろ。……こんなところでいいだろう」

 どうやら髪を直されたらしい。エイルは礼のようなことを口の中で呟いたが、何となく自らが着せ替え人形にでもなったような気分になった。

 と言うのも、これは彼がいままで袖を通したどんな服よりも上等だ。妙な言い方だが、似合っていないだろう自信がある。

「しゃんとしろ、エイル。背筋を伸ばして。そう。これでヴァリン殿も文句を言うまいよ」

「……ふん、多少は見られるようになったね」

 しかし当然と言えば当然、ヴァリンはそれを手放しで褒めたりはしなかった。

「制服に『着られてる』みたいではあるけれど、これはおいおい馴染むでしょう」

 お仕着せの上衣と薄手の下衣はしみひとつなく、これを汚したり破いたりしてはたいへんと、エイルは妙な緊張をしてしまっていた。

「それじゃファドック。厨房へ連れていってやって」

「仰せのままに」

 ぷいっと背を向けたヴァリンに苦笑しつつ、ファドックは応じる。女中頭というのは騎士よりも偉いのだろうか、とエイルは内心で首をかしげ、何となくふたりを見比べた。そう言えば、ヴァリンは城内でいちばん強いと言う話だった。この迫力あるご婦人は、もしかしたら侯爵閣下相手でもこんな口調なのかもしれない。

「エイル、料理をしたことは?」

 またも少年の先に立ちながら――当然、そうしてもらわなければどこへ行くものか判りはしないが――ファドックは問うた。

「料理? ないよ。食堂で働いたことはあるけど、ビックの皮むきとか皿洗いくらいさ」

「皮むきができれば上等だ。お前の仕事は城の厨房の下働きになる。毎食の下拵えだの、片づけだのといったところだな」

「別にかまわないけど……って言うより、仕事くれてラルくれるんなら何だっていいけどさ、姫さんはどうしたんだよ?」

「もちろん、シュアラ姫の話し相手というのがお前の第一の仕事だ。だが王女殿下と言っても日々遊び暮らしている訳ではない。いまは学業のお時間だ。お前がお目通りできるにはまだ数刻かかるな」

「成程、そうだよな。姫君とちょっとお喋りして日に三十ラルもらえるとは俺だって思ってないよ。世の中はそんなに甘くないってね」

「いいぞ、エイル」

「……何が?」

 ファドックが面白そうに笑うのを見て、エイルは尋ねた。どうやら褒められたらしいが、いまの言葉のどこを気に入られたのか判らない。

「お前は、この出来事を単なる幸運だとは思っていないようだ。仕事だと、解っている」

「そりゃ、そうだろ? 俺は自分の食い扶持と、あと母さんに少し楽をさせてやりたくて毎日頑張ってんの。孝行息子なんだぜ。仕事をして、報酬をもらう。それが俺の生活で、仕事場が城下町から城内に変わったっておんなじだ」

「いいぞ」

 ファドックは繰り返した。

「それを忘れるな」

 厨房は、城の一階にあった。

 そこで少年は、またも自身の想像力の貧困さを知ることになる。

 彼の知るいちばん大きい食事処ほどもあるだろうか。――厨房が、だ。

「よう! きたな、ファドック!」

 エイルが目を丸くしていると、厨房の端からひとりの男が寄ってきた。年の頃は三十の半ばほどだろうか。丸みがかった顔は汗で光り、調理人テイリーの格好がよく似合う。身長はファドックと同じくらいだが、幅は明らかにあった。

「トルス、エイルだ。エイル、これがトルス。この厨房の主で、城の全使用人の食事の責任者だ。顔と口は悪いが腕はいい。ここで仕込まれれば、たいていの調理場で使い物になるだけの力が身に付くぞ」

「顔が悪い、は余計だ。自分がちょっとばかりもてると思って。しかし何だな、細っこい坊ずだな。体力はあるのか、ええ? この仕事はきつい、半刻かそこらでへたばるようじゃ話にならんのだぞ」

「朝から晩まで荷運びやってんだ、体力には自信あるよっ。それでも筋肉がつかないのは体質であって俺のせいじゃないね」

 むっとしてエイルは言った。トルスは陽気に笑う。

「ほう、威勢がいいな。結構だ。何だ何だ、新品の制服だな? ここに一ティムいたら油まみれになっちまうぞ、ほらほら、出た出た。調理着を用意しておいてやるから、ここに入る前に着てくるようにな」

 トルスはエイルを追い払うような仕草をして、それからファドックに向き直った。

「で? 俺はいつからこの坊ずをもらえるんだね?」

「夕飯の片づけからでどうだ」

「上等だ。バールとメイが帰郷してからこっち、手が足りなくてなあ。頼りにしてるぜ坊ず。しっかりやってくれよ」

「俺はエイル。聞いてなかったのかよっ」

「わはは、判った判った。元気がいいのと声がでかいのは、ここじゃ歓迎だ。ま、お姫様に蹴り出されなかったら夜に来い。俺はこれからひと休みだ。それじゃまたなファドックに……

 エイルはもう一度抗議をしようかと思ったが、トルスがからかっているのに気づいて舌を出すにとどめた。

 そして少しほっとする。ここは、彼の知っている世界と似ている。

「安心したか? ここは必ずしも別世界じゃない」

 言われたエイルは驚いてファドックを見た。そんなに、顔に出ただろうか。

「俺、そんなにおどおどしてるように見えました?」

「いや、堂々としたもんだ。ただ、街の少年がいきなり城内に放り込まれれば戸惑って当然だからな」

「そりゃ、どうも、お気遣いいただきまして」

 どう答えていいか判らずにそんな台詞を吐くと、ファドックは笑った。

「さてエイル。城内を一通り案内してやりたいところだが、私にもやることがある。姫君のお時間が空くまで、ひとりで城を見て回るか、それとも私につき合うか?」

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