02 仕事はほしくないか?

 薄暗い路地裏で、老占い師の声がした。

(お待ち。子供)

(変わった――色を持っているね)

(お前はいつか)

「お前はいつか、翡翠の宮殿ヴィエル・エクスに行くだろう。望むと望まざるに関わらずね」

「ひすいの――宮殿だって?」

「そう。それはお前の運命さ、子供。どんなに抗っても、お前の道はそこに通じるよ。だが安心おし。お前は決して、ひとりではないから」

 はっ、とエイルは目を開けた。馴染みの食事処で茶を飲む内、うたた寝をしてしまっていたようだ。

(変わった色を)

 占い師の言葉が彼の脳裏によみがえった。

翡翠の宮殿ヴィエル・エクス

 あのときの――〈予言〉の夢を見た。久しぶりだ。リターの言葉の影響に違いない。

 少年は首を振って身体を起こす。今朝は結局のところ市場での仕事を見つけられなかった。昼の間に小銭稼ぎをしたら夜の街へも出て何かやることを見つけなくてはならない。あんなおかしな予言──世迷いごとを思い出して動悸を早めている場合ではないのだ。

(もう一旬も母さんのところに帰ってないな。そろそろ売りに出せるくらい、駕籠がたまってるだろうか)

 母親の竹細工を思い出しながら、エイルは伸びをした。母の竹編みの稼ぎでは彼女自身が食べていくのが精一杯。彼自身の食い扶持と、できれば母への土産を買っていけるくらいにはラルを貯めてから家へ戻りたいものだ。

「おや、エイル。お昼寝はおしまいかい」

 からかうように言う女主人に何か適当なことを返して、エイルは身軽に椅子から立ち上がった。

「食事は?」

「今日は済ませたよ」

 問いかけに彼はさらっと答えた。ナシアの果実ひとつでは、育ち盛りの少年にはずいぶんとささやかすぎる食事だが、金がなければどうしようもない。

「また無茶してるね。ちょっとお待ち。……ほら」

 言うと女主人は彼に小さな包みを差し出した。

「何、これ」

握り飯トーイナザだよ。昼の分を炊きすぎてね。悪くさせても仕方ないから、今日は特別」

「やったね、ありがと」

 エイルはにっと笑ってそう言うと、遠慮なくそれを受け取った。こういう余禄は大歓迎だ。

「あんたはいっつも忙しくしてるね。言っておくけど、くれぐれも悪いことには手を染めるんじゃないよ」

「まさか。俺は金に困ったって後ろ暗いことなんか絶対、やんないよ」

 上っ面だけのような応酬に見えるが、彼は本気だ。母を泣かせることだけは、しない。

 いい返事だね、と満足そう言うに言う主人にもう一度礼を言って、エイルは食事処をあとにした。

 外へ出ると、太陽リィキアは傾きつつある。もう一度市場へ足を向けようか、とエイルは考えた。うまくすれば酒瓶や食材を運ぶ手伝いをして手間賃をもらえるかもしれない。笑ってしまうほどささやかな仕事だが、ないよりはましだ。

 少年は、庭と言えるほど慣れ親しんだ大通りから小道からをひょいひょいと通り抜け、いつもと変わらぬ〈幸運神ヘルサラク〉通りを行こうとした、そのときだった。

 風が変わった。彼の周りを取り巻く風が。

 だが――まだ少年は知らぬ。

「何だよ、あんた、そんなとこに突っ立って」

 路地を曲がった途端、彼の目の前に男の姿があった。彼はその男にぶつかる寸前に足を止め、文句を言ったのだ。まるで誰かを待つように立っていたその男が、紛う方なきエイルの行く先を塞ぐように立っていることには気づかないままで。

「ちょっと、そこどいてく――」

 睨みつけようと長身の男を見上げ、エイルは言葉をとめてしまった。

 年の頃は三十前ほどであろうか。

 黒い髪に黒い瞳。すっと立った隙のない姿勢は、腰の剣を見なくても青年が戦士キエス――職業としてではなく、戦う者――であることをうかがわせる。

「その少年か?」

 男の背後から、声がした。少年ははっとなる。彼が闊歩する下町ではついぞ聞いたことのないそれは、命令に慣れた人間のもの。少年は一歩ひいて、その声の主に目をやった。

 じろじろと彼を見やる、こちらは初老の男だった。その姿は絵に描いたような上流階級のものである。薄手の黒いコートに真白い手袋。少年にはわざとらしく見えるような帽子、ステッキに口ひげ。それは絵に描いたような――貴族。そう、こんなところではお目にかかることのない人種であった。手触りのよさそうなコートの生地だけとっても、エイルなど何年、いや何十年分の稼ぎをつぎ込めば手に入るだろうか。若い男の衣服も上質なものではあったが、この「貴族」の比ではない。

「名は、何と言ったかな?」

「何……」

 エイルは眉をひそめ、突然の問いかけに警戒を見せる。だが男が問いかけたのはエイルに対してではなかった。

「エイル、と呼ばれていたようです」

 答えた声に少年はどきりとする。「貴族」の前にいた先の若い男。エイルが目を見開き、口をぽかんと開けたのは、何も見知らぬ男に名を呼ばれたからばかりでは、なかった。

(エイルと――呼ばれていたようです)

(エイルと)

 何かが脳裏を走った。それは強烈な印象。「名を呼ぶ」行為は魔術的に大きな意味を持つと言うが、少年はそのようなことは知らず、目前の青年も間違っても魔術師リートには見えない。

 エイルがこの一リアに走った衝撃について整理できるのはずっとあとのことになるが、それでも初めてまみえるこの黒髪の男が――この男との交流が、彼にとって重大なものになるだろうという感覚は、予感などという曖昧な言葉で済ませるにはあまりにも強すぎた。

(こいつ……)

だ?)

 そのときのエイルが思い浮かべたのは、疑問の形にもならない、そんな曖昧な言葉だった。

 見覚えなどない。当たり前だ。エイルには、こんな「上等な」知り合いなどいない。せいぜい、酔っ払いの戦士キエス崩れと言葉を交わしたことがあるくらいだ。

 なのにどうして、この黒髪の剣士を知っているような気がするのだろう?

「ふむ。まあ、見られなくはないな」

 初老の男の声が、さまよいかけたエイルの思考を瞬時に引き戻した。

「街の子供にしてはいい方だろう。清潔にして身なりをきちんとすれば、ヴァリン殿セル・ヴァリンの文句も出るまい」

「なっ、何だよ!」

 彼はつまり不潔できちんとしていない、と言われたも同然で、当然の権利として声を荒らげた。

「黙って聞いてれば、名前がどうとか身なりがどうとか。そりゃ、あんたみたいなご立派な旦那に比べりゃ俺らみたいなのはクラー同然かもしれないけどね、いきなりそんなことを言われる筋合いはないし、第一、俺は忙しいんだ。用事があるならさっさと話してくれないかっ」

「これはまた、元気なことだ」

 男は笑った。

「ではエイル少年。単刀直入に言おう。仕事はほしくないか?」

「何だって?」

 エイルは聞き返した。当然だ。こんなご立派な男性が、彼みたいな下町の少年にどんな仕事を与えるというのだ?

「城仕えをする気は、ないかね?」

 貴族は言い換えたが、少年が目をしばたたくのは同じだ。

「何、だって?」

 たっぷり五トーアの沈黙のあとに、エイルは同じ台詞を繰り返す結果となった。

「城仕えに興味はないかと聞いておるのだ。君が日がな一日働いて、どれほどの稼ぎになる? 十か、二十か? 食事代に宿代を使ってしまえば、手元には何も残るまい?」

「三十ラルくらい、稼ぐことだってあるさ」

 エイルはむっとして言い返した。本当を言えば三十ラルなど稼いだのは一度きりで、たいていは言われた通りである。十にすらならないことも多い。

「だが五十にはなるまいな。そこで月に一千もらえるとしたら、どうする?」

「い」

 エイルは口を開けた。

「いっせん!?」

 頭のなかが真っ白になった。彼は、店で釣りをごまかされないための簡単な計算ならばできるが、いまはついていけなかった。急に桁数が増えたこともあれば、そんな桁は彼の日常に必要ないということもある。

「左様。一日なら、三十を超す計算だな。経費は別だ。つまり、手元に日々、三十ラルが残るとしたら?」

「いっせん!? 一日、三十が、何だって!?」

「働き次第では昇給も有り得る。城に住み込みという形になる故、自由になる時間は少ないが、制服はもちろん日に二度の食事、部屋も支給される。それを考慮に入れればかなりいい条件ではないかね?」

「ちょちょちょ、ちょっと待てよっ」

 エイルは自らの考えをまとめようと頭をかきむしった。

「かなりも何も、よ、よすぎるじゃないかっ。いままでやった、いや、聞いたどんな仕事だってそこまで条件のよすぎる話なんてないぜっ」

 はっきり言って、胡散臭い。エイルは一瞬、このまま逃げ出そうか、とも考えた。だが、魅力的な話だ。ただ、魅力的すぎる。

「……あのなっ、儲け話は歓迎したいけどなっ。俺は人道にもとるような仕事はやらねえぞっ。命の危険があるようなのも断るっ。命あっての物種ってやつだからな」

 老紳士をキッと睨みつけてエイルは言い放った。貴族は苦笑する。

「そうか、いささか突飛すぎたかな。順を追って話そうか」

 貴族はついてくるようにエイルを促した。その穏やかな笑顔――エイルは知らぬ、父親のような――を信頼していいものかどうか、彼は躊躇する。

「閣下が信用できないか。それとも、私がか?」

 いままで黙っていた青年が、エイルの迷いを見て取ったか声を出した。

「……信用なんて、いきなりできる訳ないだろ。見ず知らずの人間にいきなりそんなこと言われて、はいそうですかとついていくのはよっぽどの度胸の持ち主か、ただの馬鹿だぜ。だいたいあんたたち、何者なんだよ」

 エイルは非常にもっともな問いをここでようやく発した。

「そうだな。隠し立てをする必要もない」

 青年は言った。

「こちらの御方はマザド・アーレイド三世陛下の信頼篤い重臣のひとり、セラー侯爵閣下。御名前を聞いたことくらいはあろう。私は第一王女殿下シュアラ様付きの者だ」

「……何だって?」

 エイルはぽかんとした。予想もしない言葉。聞いたことのある名前。黒髪の青年はいま、何と言った?

「証拠があるのか、と言われれば何も見せられぬがな、エイル。信じるか否か、ついてくるか否かはお前の決断次第だ」

 青年は言葉を切ってエイルを見た。エイルは初老の男を青年とを交互に見て――心を決める。「仕事」をもらうときは迷っている暇などない。それが彼の生活だった。

「判ったよ! 侯爵サマだのお姫サマだの、俺には縁なんてないし俺に用があるとも思えないけど、話、聞かせてもらおうじゃないか。……危ない仕事じゃ、ないってことは保証してもらえるんだろうな」

「もちろん。私の名誉にかけて誓おう。ただ」

 セラー侯爵――と言われた男――は咳払いをひとつした。

「たいへんな、仕事ではあるかもしれないがね」

「たいへんじゃない仕事なんてあるもんかよ。侯爵サマにおかれては、どうだか知らないけどさ」

 持ち前の威勢の良さでエイルは言い切って見せ、またセラーを笑わせた。

「成程、よさそうな少年だ。ついてきなさい。私の馬車のなかで話をしよう」

 ――こうしてエイル少年の運命の水面に、最初の第一波が広がったのだ。

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