第19話 青菊の部屋――18時16分、第九天菱号

 事故処理と安全点検のために、てんりょう号中一階フードコート付近のショッピングセンターは営業を終了している。事故直後の騒ぎも収まった船内にはクルーの足音と人々の低いざわめきだけが残っていた。

 怪我人でごった返す船内の医療センターに、青菊あおぎくはいなかった。ベッドが足りないので、四六時中の看護が必要でない怪我人は展望室を利用した救護スペースや船室キャビンなどに移ってもらっている、とスタッフは答えた。

 船内ネットワークは災害時対応で無料解放されていた。そこら中のディスプレイがログインIDとパスを知らせている。外界との接続はつい先程回復したらしい。えいがその場で携帯端末ワンドからメッセージを送ると、青菊からは自分の船室にいると返事があった。外は人が多くてざわついているので、こちらから船室まで行く、と鋭児は返信したようだ。


「てなわけだ。青菊のおうちに初潜入だな」


 何にせよ、すぐにメッセージが返ってくることに鋭児は少し安心したらしい。しらも同じだった。命に関わることではないようだと分かった途端、また感情が重く粘り始める。

 自分が行って、青菊だって気が詰まるんじゃないだろうか。鋭児だけなら安心して話ができたかもしれないのに。

 鋭児と白音が天菱号の青菊の部屋を訪ねるのは、実は初めてのことだ。見慣れない狭い通路や少し古びたエレヴェータで客分船員の居住区に上がり、レジデントオフィスで簡単な訪問記録を取ってから部屋に向かう。

 上六階左舷アウトサイドのワンルーム、部屋番号は627。レジデントオフィスにいた男性がわざわざ地図のコピーを出してきて通るべき道にマーカーを引いたのを渡してくれたが、確かに見取り図なしでは迷ってしまいそうな、ひどく曲がりくねった迷路のようなルートだった。慣れた者しか辿り着けないという意味では逆に安全かもしれないが、災害時には逃げにくいのではないだろうかと白音は思う。

 もらった地図の通りに廊下をあちらこちらと進み、やがて見つけた627のドアをノックすると、はあい、と返事があった。意外に暢気そうな青菊の声。……とてもとても、久し振りに聴く声。

 鍵は空いているらしい。鋭児がドアを押し開けた。なるほど内開きだ、と白音は思う。外開きだと、緊急時にみんなが飛び出す廊下を、開いたドアが邪魔してしまう。

 初めて入る船室キャビンは、なんだか酷く狭いような印象だった。天井が低いせいもあるし、実際に自宅で青菊が寝起きしていた部屋の半分くらいしかないから当然ではある。それに照明がついていない。

 小さな窓の外の空は既に夜の色をしている。作り付けのベッドに腰掛けて、だぶだぶのパーカーにジーンズ姿の青菊はラジオを片手でいじっていた。


「どおも」


 ぎこちなく、青菊はラジオから離した片手を挙げた。


「わざわざ来てもらってごめん」


「……何で明かり消してんの」


「夜は青白くて綺麗だから、この方が……いつもそうしてるから癖で」


 怪我の具合よりも映像情報を第一に会話する、完全にこれは親子だと白音は苦笑した。……自然に笑えた。

 その次に、涙が出てきた。横を向いてすぐ拭いてしまう。こんなのはいつものことだ。台詞の途中にもよく涙が出てくるから、ごまかすのは慣れっこだ。


「ああ、これは地上にはない色だよなあ。お前の好きなヒカリか」


「うん」


 見渡す限り、青菊の持ち物は、とても少なかった。巡航船の小さな船室キャビンに住む人間というのは大抵そうだと言うが、それにしても、自分だったら少し寂しい気がした。

 机の上にネガとプリントが散らばっている。……そう、写真集を出すんだった、この子は。

 それから机の側の床に置かれた箱とバスケットに気付く。カメラ箱、っていうのだろうか、と白音は思った。鋭児が言っていたオリガがその中にあるのを白音は見て取った。


「……怪我は」


「ああそうだ、怪我」


 鋭児が白音の言葉にはたと気付いたようだ。三角巾に吊られた青菊の腕に目をやった。


ひびで済んだ。写真も撮った。上腕骨に皹、背中に椅子飛んできて打撲、あと色々ぶつかって擦り傷とか内出血とか……まあ、全然動けないほどじゃないから運は良かった方かな」


「良いか?」


「良いよ。頭にでも当たってたら命にかかわったってクルーに言われたし」


「ああ、……うん、そうだね。入院とかいらないの」


「平気、痛いことは痛いけど自分で動けるし。っていうか、入院なんかする隙間がない。もっと重症な人がいっぱいいてメディカルのベッド満杯」


「ああ」


「天候回復次第、地上で検査受けろとは言われたけどめんどくさいな」


「受けなさい」


 鋭児の返しにいつものような切れがない。これはこれで動揺しているようだ。


「怪我、治るのにどのくらいかかるの。欲しい物とかないの」


 代わりに白音が訊くと、青菊は少し不思議そうな顔をした。……珍しいことだからだ。


「大丈夫、ここにはたいがい何でもあるし。何せ脚を折らなかったから、必要なことは自分でできるよ。むしろ私は動ける方だから、明日からはクルー手伝いに行く。ていうか座る所なくてごめん。普段ここ人こないから……その、机のとこの椅子と、もう一人は悪いけどベッドだな」


 鋭児が机に付属の椅子を引いて座り、白音が青菊の隣に座った。少し、まだ少しだけ距離を取ってしまうけれど。

 青菊はベッドの頭側の壁に並んだ小さなスイッチをぱちぱちと指で押した。ナイトランプと机のライトが点灯する。メインの照明はやはり点けないようだ。


「それにしても、良く来られたね」


「うん、最初に飛べるバスに乗れるように天菱号から鴬台おうだいに話つけてくれてな。スタッフと医療物資積んで一便だけすぐ飛ぶっていうやつに乗せてもらった。珍しい飛行機だったな。よくあるバスと違うんだ、翼がある昔の形の」


「ああ、じゃ柴さんのシップでしょ。メディカルで手当てしてもらってたとき聞いた。シバのアホが物資とスタッフ乗せて無理矢理おうだい離陸したって、報せが来た途端みんな万歳してたよ。消毒液も包帯もガーゼも切れそうになってたし、スタッフもへとへとだったから。そっか、オリオーザに乗ったのか」


「シバサン? 知り合い?」


「パイロット。天菱の住人」


 あと変人、と付け足して青菊は微笑む。

 見慣れない、と白音は思った。妹が誰かの事を親しげに話すのを、今までほとんど見たことがなかったのだ。青菊は友達を家に連れて来たことがなかった。食事の席で友達の話をすることも、まずなかった。

 白音が学校や仕事先の友人だのスタッフだのの話をする側で、そういえばこの子は大人しく好き嫌いなく食事をし、何となく座っていた。その地味な存在の仕方が、白音には鬱陶しかったり、時には全く目に入らなかったりしていた。

 少なくとも、こんな微笑み方はこれまで見たことがない。


「折り返し、またどっか飛んで行ったんでしょ。ちょっと前に窓から見えた」


「ああ、患者を他のシップに分散するとかで」


「やれやれだね、せっかく地上で給油したのに……何時間かしたら、また片道分だけ残したギリギリで帰って来てぶっ倒れて眠るんじゃないかな」


「随分詳しいね」


「柴さんのは定期便じゃないし今時のバスよりスピードあるから、病人移送だとか緊急の用事に他のシップからも要請があって結構飛ぶんだって。それで燃料の残量が地上給油に行けるギリギリになるまで頑張って、戻ってきて、丸一日寝てるとか珍しくないの。天菱の人の中じゃ結構知られてる有名人。それに私は割と良く話すから……時々学割で乗せてもらうし、行きつけの定食屋いっしょだし、サボる場所いっしょだし、本屋でも大体同じ棚が好き」


「……青菊」


「ん」


「この時代にジェット機乗りっていうこだわりは職人気質っぽくてかっこいいし、今回このコンディションにも関わらず母船のために飛ぶとかすげえ熱い人だと思う。ここ着いた時もスタッフに涙ながらに歓迎されてたし、きっと信頼厚い人なんだろうなと確かに思った。思ったけど、でも、いきなり結婚はやめてね?」


 言われた青菊と、聞いていた白音が同時に噴き出した。


「何で。何でそうなるの。柴さん五十過ぎてるし」


「だって青菊が男の話したことなんてないじゃん! 異常事態だ」


「パパより年上だし、バツイチ子持ちだよ。多分お子さん、私より年上」


「カオスだな……」


「もう、ほんと、そういうんじゃないってば。友達なんだよ」


 ちょっとパパ泣きそうな顔してるよ、と白音は本当におかしくなって笑ってしまい、青菊はふざけた風に口を尖らせた。


「分かったよ、じゃあ別の男の話もしてやる。定食屋の板さんとか、船内ラジオのパーソナリティとか、シンガーソングライターとか、本屋さんとか、ところでパパ、マジな話どうして私を異性愛者だと思ってるの?」


「その通りです。その通りです俺が悪かった。もうなんでもいい、お前が無事ならいい。ここ一時間で俺の心が疲労骨折しそう」


 青菊が曲げた指の背を唇に当てて、うつむきがちに笑った。……そう、これは見覚えがある、と白音は思う。笑うときこの子はいつもこうする、まるで隠すように。


「青」


「え?」


「その人たちの写真はないの?」


 白音の問いかけに、青菊は少し不思議そうな顔をした。白音も、自分でも少し驚いた。積極的に妹の世界を知ろうとしたことはそれまでなかった。


「ある、けど、」


「見る見る」


 鋭児が先に言った。青菊が立ち上がって、デスクの引き出しから何冊かのアルバムを取り出す。それが開くのを見た時にまた鼻の奥がつんとして、白音はこの妹の遺体と再会したのでなくて本当によかったと思う。


 そもそも、死んでせいせいするというような憎しみがあったわけじゃない。苦手ではあっても、妬ましくても、疎ましくても、生きてる方がいいに決まってる。

 どうか生きていてほしいと願った、あれは確かに本心だ。ジェット機の轟音の中でそう祈った自分のことを、生涯忘れたくない。

 あたしは、妹を嫌いなわけじゃない。

 妬んでいただけ。

 だから目を逸らしていただけ。


 青菊がようやく部屋の灯りをつけたので、スナップ写真のファイルがよく見えるようになった。昔ホームストレージに貯めてあった写真とはまるで違うのが一目で分かる。


「ええ、紙焼きにしてあるのか。ストレージじゃなくて」


「保存性はまだ紙の方が高い。それに、紙焼きの方が写真ってはるかにきれいだから」


「それはまあ、完全に同意だね」


「ただ、紙はどうしても重いから、シップに住んでる限りは何でも全部焼いとくわけにもいかないんだよね。一応、私物の重量規制あって」


「家に送りなさいよ。必要なとき取りに来ればいいじゃん」


 しかしどこで焼いてんのこれ結構きれいに出してるなあ、と鋭児は聞き、青菊は船内のDPE店の名を挙げている。フィルム現像は船内ではやっていないから、地上ラボ送りだとか何とか。地上のラボは鴬台にあり、時間が許せば自分で行って焼いているという。

 青菊はそんな行動をする子だったか。

 これと決めたことに関してなら、行動力を発揮するということ。まるで呼吸する置物みたいな子だと思っていたのに、白音からは見えていなかっただけということなのか。

 知れば変わるか、と白音は思う。

 青菊ではなく、自分の方が、変わるのか。


――よく見て、よく読みなさい。


 初めて芝居の仕事を貰ったときに母親のまどかから言われたたった一つのことを、白音は思い出す。


――対象をなるべく知ろうとすること。想像すること。一見趣味じゃないようなものでも、少し知れば理解の糸口が掴めるかもしれない。何か面白くなるかもしれない。そうしたらしめたものよ。このめちゃくちゃな世の中で、色々面白くないことや酷いことがあったとしても、興味や好奇心は自分の心を救ってくれる。

――自分の世界を面白くするのは、結局自分だよ。


 だからきっと、この妹をもう少し知れば。妬むよりも面白さが勝ってくれば。

 だって自分は、妬ましいほどこの子の才能を感じているのだから。

 少なくともその才能のことはもう、知っているのだから。


 鋭児が鋭児のペースでアルバムをめくっていると、聞いたことのないサウンドが誰かのポケットから鳴り出した。

 青菊だ。パーカーのポケットから細長い携帯端末ワンドを取り出す。手品みたいな指捌きで端末はくるりと回転させられ、ちょうど浮かび上がった通知ディスプレイが扇のように光の残像を残した。おお、そっかそっか、などと小声で言いながら青菊はディスプレイを空中に拡げる。表示させたキーボードで何か返信を打ち込んでいるのが裏側から曇りガラス越しのように見えていた。

 本当に青菊に友人知人がいるんだなあ、と白音は思う。連絡を取り合う相手がいるのだ。本当に自分は妹を舐めていたのだろう。妹が人間のようなことをするたびに驚くのだから。一人で住んでいる。人間関係を構築している。

 これまで、なんて目で妹を見ていたのだろう。

 その妹は、端末のディスプレイを引っ込めながらまた人間のようなことを言った。


「ごめん、ちょっと知り合いが来ることになった」


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