第6話 ほしいもの――9時10分、鴬台

 要らない。

 あたしはカメラなんか持たない!



 夢の中でさえ歪んで頭の痛いような気持ちのまま、しらは目を覚ました。

 たった今、夢の中で何かをわめいたような気がするのに、何だったのか思い出せない。

 動悸がする。

 現実でなくて良かった、と思う。


 でも本当にそう?

 本当に思っていることを叫んだような感触がある。

 ……分からない。


 遮光カーテンの裾から漏れる光が弱弱しくて、どうやらまだ晴れてはいないようだと思った。

 ベッドから立ち上がって、サイドテーブルに放り出されたノートとペンを手に取る。昨夜、眠くてたまらないのに無理をして書いたから、字がめちゃくちゃだ。所々、何を書いたか読み取れない。

 最近調子が悪かった。発想が来ない。スランプかも知れない。

 そういえば、えい青菊あおぎくにスランプはあるのだろうか、とふと思った。二人とも、映画や写真を撮るのに困っている姿なんて見たことがない。

 いや、青菊のことはそもそも、よく見ていたこと自体がない。


 それにしても。

 スランプ。

 そもそもあたしは、調子良く書けた事なんかあった?

 スランプじゃない時期なんてあった?

 ノートに書きつけられたこの文字列に果たして意味があるのか。何をしているんだろう。あたしはモデル。あたしは俳優。それが小説なんか書いて、何がしたい? 何から目を背けてる? 何が気に入らないの、あたしは。

 負けてる。いつだって本当は、あの子が先を歩いてる。


 白音はカーテンの向こうの雪空に背を向けた。

 青菊の住む空。


 嫉妬はしたくない。だが敗北感はあたしを歩かせる、それを越えなくてはならない。負けたくない。あたしはもっと、


 ……もっと、何?


 片手で目を覆うように押さえてゆっくり溜め息をついた時、枕元に放ってあった携帯端末ワンドにマネージャから着信があった。


『白音さん、起きてました?』


 マネージャの緒方も事務所の社長も、みんな白音を「中原さん」ではなく、白音とか白音さんと呼ぶ。デビュー前には、芸名も「白音」のみにしようかと思ったことがあるくらいだ。中原なかはらえいの娘だということは極力意識したくない。

 だから青菊が本名も出自もすべて伏せて写真を発表したことも、半分腹立たしいが半分理解できる。中原鋭児の娘、市谷いちがやまどかの娘、としてだけ語られてしまうことが鬱陶しいからだ。表現者なのに自分自身を単独で認識してもらえないのが辛いから。

 本当は、こんなにこだわっているのに。


「おはようございます」


 色々考えながら通話口で答えると、思いのほか鈍く低い声が出た。


『ああ、すいません。今大丈夫ですか?』


「大丈夫ですよ」


 寝起きの声と思われただろうか。実際そうだから仕方がないが。

 だが電話の向こうの緒方は、何時間も前から目が覚めていたみたいにハキハキ喋る。いつだってアナウンサーみたいな綺麗な発音をした人だ。


『実はですね、この雪で交通機関が空陸ともダメになりまして。雪閉せっぺい宣言が出ました。色々調べて調整も検討したんですが、雪が何とかなるまで移動も安全が保証できない感じなんですよ。で、とりあえず今日の予定、全部白紙です』


「あぁ……そんなに酷いんですか。いま起きたばっかりで、ニュース見てなくて……」


『もうヒドイですよ。僕も外に出られなくて、今自宅です。事務所も泊まり込んでた人しかいない状況で。何せ辿り着けないので』


「そんなに? じゃあ緒方さん、昨夜家に帰れて良かったですね。風邪引いてましたよね?」


『あ、知ってたんですか。すみません、大丈夫です風邪は薬飲みましたから。それでとにかく、テレビ局ラジオ局も大雪ニュースとかでかなり番組飛ぶみたいで、こりゃもういっぺん仕切り直しですね。封切まで時間がないんで、交通が動き始めたら、この年末かなりハードになるかもしれません、すみません』


 緒方さんのせいじゃないし仕方ないですよ、と答えながら白音はカーテンを開けた。つめたい白と灰色の世界。家も木も塀も道路も、もったりと重い生クリームを盛られたように冬そのものを背負っていた。

 眼下に鋭児の車らしき雪の膨らみが見える。そう大きな車ではないにしろ、あれが沈むということは二メートル近い積雪だ。確かにこれは酷い、駐車スペースが吹き溜まりになりやすいことを差し引いても酷い。


「まあ……封切日から何日もこの状況になるよりは、と思うしかないですかね」


『そうですねぇ、想像するとゾッとします』


「道路って、どのくらいで使えるようになるか目途は立ってないんですか?」


『全然ですね。ずっとニュース見てるんですが、幹線道路から順次対処としか言わないですねえ。多分まだ始めたばっかりで、除雪車自体があんまり動けてないんだと思います。雪積むトラック連れてくるにも一苦労でしょう』


「うーん。あたしより、緒方さんとかスタッフのみんなが困っちゃいますねぇ……」


『いやー正直困っちゃってます、はい』


「とりあえず、外には出られそうにないですし自宅にいますね。携帯は繋がるようにしておきます。ざっくりでも予定立ったら知らせてください、石橋さんが来られないようなら私服選んで持って行って何とかしますし……」


 その時、斜向かいの家の屋根から雪の塊が雪崩なだれ落ちるのが見えた。物理法則通りに雪は、庭の植木に当たる。持ちこたえるかと思ったが、木は可哀相なくらいあっさりと何本かの枝を折られた。

 室内にいるから音が聞こえない。それがかえって、折れて雪とないまぜになった枝を印象的に見せた。

 音のない風景。


「……ああ」


『え?』


「いえ、何でもないです。それじゃ宜しくお願いします。緒方さんも無理しないでください」


 緒方はとても聞き取りやすいはっきりした発音で、ありがとうございますと言って電話を切った。

 通話の切れた携帯端末を手にしたまま、白音はまだ折り取られて落ちた枝を見ている。

 音のない風景だった。誰に向けられたのでもない、無名の動き、無名の風景。人知れず進む偶然の物語。

 それがだから。それが――青菊がカメラで捕獲しているものの、仲間だ。


 あたしのノートの上には降りてこないもの。


 反射的にカーテンを閉めた。全部閉めた。部屋はまた薄暗く閉鎖された。パジャマを脱ぎ捨てて服に着替える。携帯端末を取ってスリッパに足を突っ込んで、部屋を出た。

 暖かい家の中。雪に沈んだ家の中。

 顔を洗って歯を磨いて、階下に下りると真っ直ぐキッチンに入った。鋭児がインスタントのポタージュを作っている。


「……パパ、おはよう」


「おはよ。さすがに今日は仕事飛んだろ」


「うん、まあ仕方ないわ。外、車埋まってるね。ママは?」


「今朝方、連絡あったよ。帰って来られないから実家寄ってくるって」


「向こうは降ってないんだ」


「全然みたい。異常気象だなぁ……何か食う流れ?」


「うん、適当に作るけど食べる?」


「食うー。白音の料理久し振りい」


 子供みたいに語尾を伸ばして鋭児は笑う。料理なんて言うほどの物作らないよ、と白音も苦笑して、食パンを二枚トースタに入れてから冷蔵庫を開け、卵とベーコンと、野菜を適当にピックアップした。


「あたし料理は上手くならなかったなあ」


「そうかあ? 十分上手いよ」


「ママは凄く上手じゃん……」


 熱したフライパンにベーコンを敷くと、油が出てくる。塩胡椒を振って、卵を三つ割って落とす。


「ママは料理っつうかお菓子作りだからな。あいつはね、昔からほとんど図工みたいなノリで調理するから。まあ量に正確なところなんてお菓子に向いてるんだろうな。何、ママのケーキ懐かしくなった?」


「そうじゃないけど」


 フライパンに水を回し入れて蓋をし、白音は鋭児を盗み見た。キッチン用のテレビをつけて音を消し、ニュースをザッピングしているらしい。

 テーブルの上には、インスタントのポタージュを注いだマグカップが二つ。


「誕生日、家にいられそうなら作ってもらえばいいよ。お前の好きなチョコケーキ」


「ケーキ太る……」


「ちょっと太んなさいよ、お前、この夏の撮影以来だいぶ痩せたよ」


 野菜をざるに入れて水をかける隙に、白音はマグカップを指差して、これもらっていいの、と訊いた。鋭児は、他に誰がいんの、と笑った。ありがとう、と言って一口ポタージュを飲んでから、白音はぼそりと言った。


「今年、青菊の誕生日は、何もしなかったじゃん」


「あー、みんな仕事で遠出してたからな。ずれてもいいからこっち来ればって言ったんだけど、わざわざ予定合わせてもらうの悪いからってあいつ」


 返事が、遅れた。白音は流水に手を突っ込んで、レタスとトマトと胡瓜きゅうりを洗う。冬の水道水をまともに受けて、手の骨が喰われるように冷たい。そして、何と答えたらいいのか分からない。


「欲しがらない子だよね」


 心を通ったか通らないか分からないようなことだけが舌先から流れ出していった。


「そうだなあ。結局それなりに独り暮らししちゃってるし、誰に似たんだか。俺なんか人に呼ばれて祝われたり何か貰ったりするの大好きだけどね」


「パパのは飲み会好きの延長でしょ?」


 水気を切った野菜を千切ったりナイフで切ったりしてからサラダボウルに盛り付ける。このあたりのセンスは子供の頃から青菊の方が上だった。……嫌なことを思い出してしまった。嫌なこと? あれが気になって料理の本やレストランの盛り付けを参考にして白音もそこそこ上手になった。嫌なことなんかじゃない。ちゃんと白音も誉められた。


「プレゼントも特に欲しい物ないって言うし。あ、お前は何かないの?」


「あたしもない」


 本当は新しいバッグとママのケーキが欲しい。反射的にないと答えたのは青菊が。


 溜め息をついて、白音はサラダボウルをテーブルに運んだ。鋭児はテレビに視線を向けている。

 フライパンの水が無くなりかけた音がする。


「嘘。パトロンのお財布次第では多少ゴネてみたい」


「ふ。やっぱし」


 何がやっぱりなの。あたしは青菊と違って欲しがる? でも二十三歳の女がバッグとか靴とか欲しがるのは、絶対に不自然なことなんかじゃない。

 あの子はまだ子供で、今はカメラに夢中で、自立と新しいフィルムだけが欲しい時期っていうだけじゃないの。服やなんかを欲しがらないのだって、あの子は元々そう。欲しいも欲しくないも、嬉しいも悲しいも、何も言わない子なんだから。


 火を停めて、蒸し焼きになったベーコンエッグをフライ返しで切り分けパン皿に移す。丁度トースタが小さな鐘のような音を立て、食パンが並んで飛び出した。


「パトロン的にはお前に似合う物しか買わねーぞ」


「今あたしって何が似合うの?」


 バターを冷蔵庫から出しておくのを忘れた。冷え切っているけれど、仕方ないからすぐにスライスして食パンに乗せる。

 パン皿をテーブルに運び、やはり忘れていたナイフとフォークを棚から出して来る。どうもこの辺の段取りが上手く行かない。

 気付くと、鋭児はじっと白音を見ていた。


「……何」


「いや、改めて考えると俺の娘その一は、いま何が似合うんだろうかと……こないだ新聞似合うなとは思ったけど」


「新聞」


 白音が椅子に座ったところで、親子は声を揃えて、いただきます、と言った。


「えー、あとな、CMで髪にシダの葉っぱとシルバーのヘッドドレス付けてたのは似合ってたな。それと最近ジーンズ多いよね」


「役の都合でね」


「知ってると思うけどあれ意外と似合ってるよ。お前スカート多かったけど、ああいう路線もかなりいいんじゃない? ベルト派手な方が映えるな」


「……そうか。ベルトも欲しいかも……」


 装うこと、と白音は頭の中のノートに書き込んだ。あとで本物のノートに移植しなくては。


 あたしが装うこと。あたしが世間に通用する中原白音になること。憧れと羨望の対象として、あるいは偶像として笑うこと。

 だがそれで――勝てるか。


 勝つとは、何なのか。

 本当にほしいものは、何なのか。


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