第4話 オリガ――22時58分、鴬台

 テレビ局から、夏なら二十分で済む道のりを一時間半以上掛けての帰宅になった。しらは完全にぐったりして、携帯端末ワンドの入力画面にそこそこのチップをつけた金額を入れて決済し、タクシーを降りた。この雪ではタクシーも皆大変だろうな、と思う。降る予定ではなかったから急遽チェーンをつけて、調子悪そうにごろごろと走っている。それでも自宅まで辿り着けただけ有難いことだった。

 鴬台おうだい空港のすぐそばにある自宅は、昔童話で見たお菓子の家のクリームみたいに屋根にたっぷり雪を乗せていた。門を人が通った跡はない。まあそうだろう、母親は海外に行っているし、父親は朝から家に籠もっているはずだ。

 足首の上まで雪に埋まりながら玄関に辿り着き、積もった雪で押さえられてドアが開かないことに気付いたので、あまり行儀は良くないが足で新雪をどける。ようやく開いた隙間から家の中に滑り込んで、白音は息をついた。

 暖かい空気が全身を包む。微かに珈琲の香りがする。

 タクシーから玄関までの短い間に髪と肩に積もった雪を払い、ブーツを脱いで家に上がる。爪先が冷えて固まりかけていた。

 スリッパを引っ掛けて居間を覗くと、暖炉そっくりの形をしたヒータの前に父親のえいが寝そべっているのが見えた。母親のまどかはそれをよく、大きい犬みたい、と言う。


「ただいま」


 声をかけると、振り向かないままお帰りと返事があった。何か見ているとき、鋭児はいつもそうだ。

 近付いてみると、鋭児は大きな写真集を眺めているのだった。

 ……写真。白音の意識のどこか奥底で、ちり、と何かが焦げた。


「何、それ」


「オリガの写真集」


「オリガ?」


「カメラ。前世紀の遺物だね。チャチなベークライト製だけどレンズがなんか超バケモノなの、すげえけったいなイイ写り。凝った頃あって結構集めたんだ。量産品だから安いんだよね」


 好きな物の事になると、鋭児は少し早口に喋る癖がある。伝えたい情報量が急に増えるので時間に対して都合を合わせようとするらしい。

 父親の好きなものを知らなかったことに白音は少しだけ心を冷やした。


 ……あたしはいつもこう。だけどカメラのことなら、きっと青菊あおぎくは知っているだろう。パパがオリガというカメラを好きだったこと。


 鋭児は顔を上げない。室内でも帽子をかぶるので、顔さえ顎のあたりしか見えない。


「白音、使う? まだ幾つかあるよ」


 青菊なら使うと言うだろう。青菊なら。


「……写真はやめておく」


 いつだってあの子が前を歩いている。


「そお? 納戸にあるから、気が向いたら勝手に使っていいよ」


「うん。今度見てみる」


 この一年、意識して窓を見ないようにする癖がついた。見れば鴬台空港を巡って行き来する飛行船が視界に入ってしまう。

 白音は自覚している。青菊が出て行って以来、空を見上げることも出来なくなっている。何気なく見た空に巡航船シップの灯がきらめいていたら、まるで青菊に会ったように心がねじれるのではないかとわずらわしくて。


 煩わしい?

 いや、違う。不安なのだ。

 不安とは、恐怖のかたちのひとつだ。

 恐怖とは、

 ……いやこれは、嫉妬か。


 嫉妬なんかしたくない。

 醜くなる。


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