涙雨

 涙雨なださめが止まぬ。

 しとしとと、それはそれは美しい音で鳴る。時には激しく降り注ぐそれは、川となり濁流で障害物を押し流す。

 嗚呼ザァザァと五月蝿いなァ。なんて煩わしいのだろうか。その思考がまた其れを強調するのだとは知らない僕。何時になったら気付くのだろうね。


「お兄ィさん、お兄ィさん」


 レトロ調の君が僕を呼ぶ。マゼンタとアイボリーの混ざった袴風のワンピースを身に纏い、踝まで届きそうな艶髪の一部を――顳顬こめかみから取ってきて――後ろで括る。ハーフアップ、とか言うのだったか。妹がやっていたような気がする。黒い大きなリボンがまたよく似合っていた。


「ハイハイ、どうしたんだね」


「お兄ィさん、ここらは雨が酷くってよ。傘も持たず歩くのは少し億劫なのではないかしら。ホラ、道もぬかるんで歩けないでしょう」


 17かそこらであろう若き少女は番傘片手に泥濘を指さす。嗚呼確かに。これじゃァ歩き辛い。


「此れをお貸ししても良いのですけれどもね、手っ取り早く雨を枯らす方法があるのですよ」


「……なんだね、それは」


 随分と呆けた顔をしていたらしい。クククと艶やかな口元に小さな掌を持ってゆき笑っている。顔を見て嗤われるのはあまり良い心地はしないが。


「その心持を変えるのですヨ」


「はい……?」


 ケタケタと心底可笑しそうに目を細めて彼女は笑う。


「お兄ィさん、実はもう気付いてらっしゃるんじゃ無いかしら? 何時までも自分のことを責めてらっしゃるでしょう。それさえ止めれば雨は枯れます」


 図星、だった。僕は目の前の濁流を生成する、諸悪の根源たるこの雨こそ、自分の心の有り様なのだと気付いていた。それはもう、とっくの昔に。


「あまり見て見ぬフリは続けない方がよろしくてよ、お兄ィさん。これ以上はもうココちませんわ」


「分かってる。だが……もう少し、この雨に縋らせておくれ……」


 涙雨を観ていると、何故か穢れが落とされるかのような気分になって落ち着くのだ。スゥ、と引いていく、自分の中にドス黒く渦巻く闇。此を葬らねばならんのだ。


「お兄ィさん、男泣きってのも、時には粋なモノですよ」


「……そうかい」


 隣に立つ彼女は僕にそっと薄紅色のハンカチを差し出す。何だ、どうしたのか。


「ふふ、気付かぬ時もあるのですね。エエ、何故渡したかって、お兄ィさんの目からも雨が降ったからですわ?」


「……そうかい、泣いていたかい」


 ヒラリと僕の頬から落ちた雫は、羽となり鳥となり蒼空そらへと羽ばたいた。認めてしまえば呆気ないものだ。不思議とドロドロと心に泥濘を作っていた闇の部分が小さくなり消えてゆく。


「ホラ、彼処をご覧になって。雨が枯れてきましたわ」


「本当だ」


 涙雨の枯れた後には色とりどりな花々。


「綺麗だ……なんて……」


「お兄ィさんの鳥も悦んでますねェ」


 花畑を見やると先程飛び立った瑠璃色の羽が囀り唄っていた。それは鈴の音。希望への歌。未来への明るい気持ちを忘れるな、と高らかに叫んでいる。


「お兄ィさん、もう暫く此処には来ちゃァ駄目ですよ。迷って迷って仕方無くなったらその時は話くらい聞きますから」


「嗚呼。有難う」


 涙雨との別れを告げるように僕は目を伏せた。

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