41 わたくしの自惚れでしたら、笑い飛ばしてください


「フェリエナは、無事にヴェルブルク領を出られただろうか……」


 返事が来ないことなど重々承知の上で、それでも胸に巣食う不安を抑えきれず、鎧姿のアドルは、馬上で低く呟いた。


 視線の先にあるのは、暮れなずむ空の下、木立の向こうにわずかに見えるランドルフの陣幕だ。


 ランドルフとしては、一気に城まで攻め入りたかったのだろうが、アドル側の対応が早かったため、急遽きゅうきょ、城の少し手前で陣を張ることにしたらしい。


 北部の平原部と中部の丘陵地帯の中間に位置し、森林が多いこの辺りの地形では、騎兵が正面切って戦えるような平地は少ない。

 そのため、領同士の小競り合いでは、せいぜい十騎程度の騎士しか動員されないのだが。


「数が多いな。ランドルフは、本気でヴェルブルク領を手に入れる気らしい」


 いや、貧しいヴェルブルク領はついでで、本命はフェリエナの高額な持参金か。

 どちらにしろ、アドルにとっては己の命を賭けてでも、守るべき大切なものだ。


 アドルの隣にくつわを並べたギズが、低い声で返す。


「奥方を亡くしてから……。いえ、もしかしたら不作の年に金を貸した時から、ランドルフ伯爵はずっとヴェルブルク領を手に入れる機会を狙っていたのでしょうね」


「先日のパタタを盗んだ賊……。あれも、ランドルフの手の者だろうな」


 もし、あの時に賊がランドルフの手の者だと気づいていれば、もう少し手の打ちようもあったかもしれないと思うと、己の迂闊うかつさが情けない。


 アドルの苦い声に、ギズが頷く。


「間違いないでしょう。パタタそのものを狙ったのか、ヴェルブルク領の情報を得るためかはわかりかねますが……。申し訳ございません。まさか、異端者として告発されるとは」


 ギズの言葉に、「気にするな」とかぶりを振る。

 ランドルフの手の内を読めなかったのは、アドルも同じだ。


「木立ちでよく見えぬが、陣幕が多いな」


「ブルジット領からも、援軍が出ているようです。子爵自らが率いているとか」

 ギズが顔をしかめる。


「こちらの方が、数で劣っております。エディス様が援軍を率いて駆けつけてくだされば、同数になりましょうが……」


「士気の高さなら負けはせんが……。それだけで勝てるものではないからな」


 アドルは小さく吐息する。

 自領に、しかもいわれのない口実で攻め込まれたヴェルブルク領側の士気は高い。


 ランドルフの陣幕を見つめるアドルの視線の鋭さに気づいたのか、ギズが心配そうに眉を寄せる。


「一刻も早く奥方様を迎えに行かれたいお気持ちは察しますが、お一人で突撃などなさらないでくださいよ」


「わかっている」


 心中の焦りを押し隠して頷くと、疑い深い視線が返ってきた。乳兄弟の目は、簡単にはあざむけぬらしい。

 アドルは、ゆっくりと首を横に振る。


「ようやく……。パタタを得、ようやくヴェルブルク領が生き残るすべが見つかったのだ……。ここで、それを水泡に帰すわけにはいかん。自分が総大将だという自覚はちゃんとある。無理はせんさ」


 笑える気分ではないが、無理矢理、唇で笑みの形を作る。


 と、アドルはギズが何やら言いたげな眼差しをしているのに気がついた。

 いつも主人を主人と思わぬ、歯に衣着せぬ物言いをするギズにしては、珍しい。


「何だ。お前が黙っているとは珍しい。腹でも下したか?」


 おどけた口調で促すと、ギズが眉間にしわを寄せた。


「沈黙を美徳になさっているアドル様と違い、わたくしは正直を美徳にしておりますので。……まあ、アドル様は肝心なところで、口の栓がもろくていらっしゃいますが」


 婚礼のその日に、領の窮状をフェリエナにばらしたことを揶揄やゆしているのか、それとも別のことか。


 ギズがしれっとあるじをけなす。

 が、やはりギズの表情はどこか晴れない。


「言いたいことがあるなら、言ってみろ。明日は戦だ。何が起こるかわからん。今なら、多少の都合の悪いことも、聞き流してやるぞ?」


「……アドル様が」


「うん?」

 いつもより遠慮がちなギズの声に、柔らかく続きを促す。


 ギズは、意を決したようだった。

 ギズの視線が真っ直ぐにアドルにそそがれる。


「わたくしの自惚うぬぼれでしたら、笑い飛ばしてください。アドル様が奥方様をめとられると決められたのは……。姉のことが、あったからですか?」


 重い沈黙が、二人の間に横たわる。


「……グレーテ、か……」


 アドルは呼び慣れた名をそっと呟いた。


 懐かしい名だなどと言うつもりはない。

 グレーテの名は……。愛しく、同時に、あまりにも痛みを伴い過ぎる。


「今回のことを、お前に責任転嫁するつもりはない」


 本心から告げたのだが、ギズから返ってきたのは、心底嫌そうなしかめ面だった。


「気を回していただかずとも結構です。わたくし自身、姉さん……。いえ、姉の死の責任をアドル様に取っていただこうとは、芥子粒けしつぶほども思っておりませんので」


 心底迷惑そうな……だが、その実、アドルへのなぐさめに他ならぬ台詞に、思わず苦笑がこぼれる。


 グレーテは、アドルの乳兄弟であるギズの、二つ年上の姉であり――そして、不作にあえいだ去年の冬を越えられずに亡くなった者の一人でもある。


 不作が続いて三年目の去年の冬は、領内で最も多くの死者が出た年でもあった。

 戦が起こった年よりも多かったのだから、一番恐ろしいのは自然の怒りだとしか言いようがない。


 亡くなった者の大半は、体力のない老人や子ども、病みついていた者だったが、領内の村に嫁いでいたグレーテは、妊婦だった。


 せた身体に不似合いなほどの大きな腹を抱え、それでも幸せそうに膨らみを撫でていた笑顔が、今も脳裏から離れない。


 栄養の足りぬまま、月足らずで赤子を産んだグレーテは……産褥熱さんじょくねつで、ろくな手当も受けられぬまま、死んだ。母の後を追うように、赤子もすぐに。


 ギズと共に、幼い頃から姉弟のように育ってきたグレーテの死に、心に傷を負ったことは否めない。


 明るく気立てのいいグレーテを、アドルは本当の姉のように慕い、甘えていた。

 領主として無力な自分を責めたのも確かだ。


 ギズと視線を合わせ、アドルはゆっくりと首を横に振る。


「先ほど言った通りだ。ヴェルブルク領は、死にひんしていた。グレーテのことがあろうとなかろうと、一つでも生き延びる可能性があるならば、足掻あがいていたさ。……フェリエナと出逢えたのは、僥倖ぎょうこうとしか言いようがない」


 たとえ、フェリエナの存在がこの戦を招いたとしても。

 もう一度、花嫁を選び直せと言われたとしても――アドルはフェリエナ以外を、選ばない。


「では、一刻も早く奥方様をお迎えにあがらねばなりませんね」

 真摯しんしなギズの声に、力強く頷く。


「ああ。フェリエナに戻ってきてもらわねば、ヴェルブルク領の未来は、暗いままだからな」


「アドル様の未来も、でございましょう?」

「ああ。その通りだ」


 いつもの、からかうようなギズの声音に、アドルは迷いなく頷いた。

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