18 夢うつつに紡ぐ名は――。



 自分の小さな手が、真っ赤に染まっている。

 けれど、痛みなんて感じない。

 早く、早く集めなくては。

 だって、もっと痛みに苦しんでいる人達が待っている――。



「っ!」

 フェリエナは鋭く息を飲んで、まぶたを開けた。


 最近、ようやく見慣れたものになってきた天井と、ぎ慣れたハーブの匂い袋の香りに、ここがヴェルブルク城の自分の部屋の寝台なのだと気づく。


 心臓が、早鐘のように鳴っている。


 もう何年も夢に見ていなかった、心の奥底に閉じ込めていた悪夢。


 今になって見た原因はわかっている。

 夕刻、剣を振るうアドルを見た時、夕陽を跳ね返した刃が、まるで血塗ちぬられたように見えて――封じていたはずの恐怖が、一気によみがえってしまった。


 悲鳴を上げ、気を失ったフェリエナを見て、アドルは仰天したに違いない。

 理由を明かすことはできないが、せめて、アドルのせいではないと、伝えておかなければ。優しいアドルは、きっと気に病むだろう。


 柔らかな掛布にくるまりながら、フェリエナは己が犯した失態に、深く吐息した。


 裏庭で気を失ったフェリエナを、アドルか誰かが部屋に運んでくれたのだろう。

 もう夜も更けているらしく、燭台しょくだいが一つ灯るきりの部屋の中はかなり暗い。


 そっと身を起こそうとし、寝台についた手が細く柔らかなものにふれて、驚く。

 いったい何が寝台に乗っているのだろうと、フェリエナはそろそろと身を起こした。


 最初に目に飛び込んだのは、薄暗い部屋の中でも、蝋燭ろうそくの光をはね返してきらめく金の髪。


 金の縁取ふちどりに彩られた秀麗な横顔が、腕を枕にしてフェリエナの寝台に伏していた。耳に心地よい低い声を紡ぐ唇からは、今は健やかな寝息がれている。


 もしかして、まだ夢を見ているのだろうかと、フェリエナは思わず我が目を疑う。


 初めて見たアドルの寝顔は年齢よりも幼く見えた。フェリエナには決して見せぬ無防備さに、やはりこれは夢ではないだろうかと、疑念が湧く。


 一方で、気を失ったフェリエナを放っておけない優しさがすこぶるアドルらしいと思う。


 持参金しか取り柄の無い妻など、冷たく扱われても仕方がないものを、騎士道精神にのっとるアドルは、いつも優しい。


 決して寝台を訪れることはないと宣言していたアドルが、今、フェリエナの寝台で眠っている不思議さに、自然と口元が緩む。


 いつか……。いつか、もし、アドルに本当の妻だと認められたあかつきには、隣で眠るアドルの寝顔を見られる日が来るのだろうか。


 思わず夢想し、あまりのはしたなさに頬が熱くなる。


 そんな日が来る未来が、果たしてあるのだろうか。

 もし、訪れる日があれば……。


 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

 だが、悪夢から目覚めた時とは違う、どこか弾むような、とくとくと軽やかな鼓動。


 ふだんは恥ずかしくて、まじまじと見られないアドルの端麗な横顔を、じっと見つめる。


 令嬢にふさわしくない傷だらけの両手を、手など関係ないと初めて言ってくれた人。


 この人に、本当の妻として認められたら、どれほど幸せなことだろう。

 もしフェリエナが、淑女としての慎みを捨てたなら――。


 おずおずと、アドルの頭に手を伸ばす。

 少しくせのある短い金の髪を優しくで。


 不意に強い力で指を掴まれ、フェリエナは息が止まりそうになるほど、驚愕きょうがくした。


 フェリエナの手を掴んだアドルが、目を閉じたまま、ふにゃりと笑う。


 まるで子どものような、安心しきった笑み。

 フェリエナが初めて見る幸せそうな笑顔で、眠ったままのアドルが、掴んだ手にすり、と頬を寄せる。


「ああ、ここにいたのか……」

 どこかねだるような甘い声で、アドルが呟く。


「会いたかった……。もう、どこにも行かないでくれ、グレーテ……」


「っ!?」

 叫ばなかったのは、奇跡に近い。


 初めて聞く名。

 だが、グレーテという女性がアドルの心の深いところにむ女性なのは、笑顔と声を聞くだけで、嫌でもわかった。


 フェリエナが見たことのない幸せそうな笑顔を、アドルが向ける女性ひとなのだから。


 凍りついたように動きを止めたまま、フェリエナの思考だけが、目まぐるしく巡る。


 いったいどんな女性なのだろう。


 グレーテという名に心当たりはないが、アドルが夜をどこでどう過ごしているかなど、フェリエナには知るすべもない。

 もしかしたら、フェリエナをめとるために、泣く泣く別れた他領の令嬢という可能性もある。


 ただ一つ確かなことは、フェリエナはやはり、持参金のためのお飾りの妻でしかないということだ。


 アドルが向けてくれる優しい笑顔に自惚うぬぼれていた自分が恥ずかしい。


 以前に、はっきりと言われていたではないか。ヴェルブルク領が立ち直るまでの数年間だけ、猶予ゆうよが欲しいと。


 きっとその後は……。


 離縁され、持参金を抱えて故郷に帰る自分と、新しい花嫁を迎えているアドルの姿が脳裏に思い浮かび、胸が潰れそうに痛む。


 アドルがフェリエナの寝台を訪れない理由が、今わかった。


 教会はなかなか離縁を認めないが、妻が石女うまずめとなれば、話は別だ。


 そもそも、訪れがなければ子どもを授かりようがないが、誰がそんな事態を信じるだろう。

 嫁いだが、手をつけられさえもしなかったのだなんて、恥ずかしくて人に言えるわけがない。


 こぼれ落ちそうになる涙を、固く唇を噛みしめてこらえる。


 今までアドルの真意に気づかなかった己の浅はかさを自嘲する。

 いや、それ以上にあざけるべきは、真意を知った今でさえ、アドルを憎む気になれぬ自分の愚かさだろう。


 がたいのはわかっている。

 だが、それでも今までのアドルの優しさや誠実さが、全て嘘だとは思えない――思いたくない。


 震えが止まらぬ指先を、苦労してアドルの手から引き抜きながら、決意する。


 この恋心を、決してアドルに知られるわけにはいかない。


 アドルには、負担にしかならないだろう。それに、フェリエナにだって、なけなしの矜持きょうじくらいある。


 アドルに同情で妻にしてもらうなど、絶対に御免だ。

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