インプット:四 まもる

マン•イン•ザ•ミラー

 この世は、歪んでいた。歪みきっていた。

「試合、どうだった」

 穏やかに、訊いてやった。

「勝ったよ。危ないところだったけど、後半で逆転した」

 息子は、中学生である。多忙な仕事のために観に行ってやることが出来なかったサッカーの試合のことを、訊いてやったのだ。

「そうか。良かったじゃないか」

「お父さんは、今日も仕事?」

「そうだ。しないといけないことが、多すぎてな」

 正さねばならなかった。歪みを。それには、力が要る。

「ねえ、お父さん」

 息子が、少し恥ずかしそうに言った。

「明日、誕生日だね」

「ああ、そうか。そうだった」

 忘れていた。

「あなた。昨日も、その話をしたばかりよ」

 妻が、呆れたように言う。

「そうだったな。済まん」

「あなたはいつも、人のことばっかり。もっと、自分のことにも気をかけなきゃ」

 スリッパがフローリングを鳴らす音が、心地よい。それがすぐ隣で止まり、同じソファに腰掛けてきた。

「ねえ、お父さん」

 息子が、ちょっと恥ずかしそうにしている。

「その顔、もう慣れたよ」

 この顔を得たとき、息子は怖がった。自分の父なのに、父でない。そんな風に思えたのだろう。

「こら、たく。お父さんは、世の中のため、人のために働いているのよ。優しくしなさい」

「いや、いいんだ、はな

 妻の名を呼び、その背に掌を当ててやった。

「俺のすることは、世の流れに逆らおうとすることだ。そのために、俺は、姿を変える必要があった。たとえ、俺でなくなったとしても、俺にはしなければならないことがあるんだ」

 妻が、潤みかけた瞳に、優しく、高潔な志を持つ夫の姿を映した。

「そして、俺が誰であるのかを、お前や拓が知っていてくれている。それで、俺には十分なんだ。世の知る俺など、所詮、俺が作り出して見せてやっているものに過ぎん」

 だから、姿形や名など、どうでもいいのだ。

 今、目の前にあるもの。これこそが、真実。これこそが、かけがえのないもの。


 拓は、日毎に成長している。中学に入学した頃は、クラスでも一番背が低かった。しかし、それから急激に伸び、今では百七十センチに達している。勉強は得意ではない。身体を動かしたり、歌を歌ったり、絵を描いたりする方がいいというのは、母譲りなのだろう。

 別に、学者になってほしいとも思わない。拓がもっと長じたとき、自らの前に出来るだけ多くの可能性が提示され、そしてそのうち最も望むべきものを手に出来るだけの力があればいい。それは、拓自身が決めることである。

 人というのは、つくづく不思議であると思う。飯を食い、眠りさえしていれば、勝手に大きくなる。培養液の中に一年浸し、細胞を活性化させ、あらゆるホルモンのバランスなどを見ながらそれを高めてやれば、身体は大人にはなる。しかし、その脳、いや、心は、与えて得られるものではない。

 心とは、その個が、自らの意思でもって、得なければならぬものなのだ。それはときに美しく、そして悲しいほど醜い。


 心は、流されやすい。もともと実態がなく、その存在を証明することすら不可能なものである。心、という語を認識し、その概念を頭の中で構築し、それが何であるのかと考えている時点で、それは心である。

 そのように不確かなものを、最も重要な核のうちの一つとして、人は生きる。

 それとは別に、動物には一定の条件や刺激に対して自らの行動を決定する、走性というものがある。たとえば羽虫が光に向かって飛ぶのがそれである。機巧が指示に従うのも、ある種、走性であると言えるかもしれない。

 きっと、人は、他の動物よりも複雑な心を持つがゆえ、それが何であるのかということに向かってゆく正の走性を持つのだろう。そして、そのこころの存在を脅かそうとするものから逃げ出そうとする、負の走性を持つ。


 逃げ出したい一心で、人は、その脅威を断とうとする。

 それが、歪みを産む。

 やはり、世は、歪んでいるのだ。

 それは人が人として神に作られた瞬間に与えられた、走性のためなのだ。

 争うべくして争い、奪うべくして奪う。理由など、後付けである。仰々しく飾り立てられたそれらの奥底にあるもの。

 それは、心という、不確かで未熟で脆く残忍なもの。


 人は、多過ぎる。

 心の存在を確かなものとし、その不確かさに怯えずに過ごしてゆくには、確固たる証が、いかりが必要だ。

 それは、あるいは、慈しみ。あるいは、愛。

 しかし、それらもまた、不確かなものである。

 ゆえに、そういう根幹となりうるものを裏付ける何かが必要になる。

 それは、あるいは、力。


 人が人として存在してゆくには、人は多過ぎるのだ。

 政府も、企業も、自らの心を打ちこわされることを恐れた人が産み出したもの。

 そのようなものは、要らない。

 それを打ち毀し、人を解放する。


 そうすれば、拓も人に苛まれることなく、歪んだ世に歪められることなく、あるべき姿で生きてゆける。



「お父さん?」

 はっとして、笑顔を作った。

「また、変な顔。明日も、仕事なんでしょ?」

「ああ、そうだ」

「じゃあさ、今から、何か食べに行こうよ」

「今から?もう八時だぞ」

「いいじゃん、たまにはさ。行こうよ」

 仕方ないな、と立ち上がり、家族三人で食事に出かけた。


「なあ」

 近所のレストランで食事を済ませ、その帰り道で、妻に話しかけた。

「お前は、ほんとうに、幸せか?」

「なによ、急に」

 改まった様子の夫に、妻は一瞬、戸惑ったようだった。しかし、満面の笑みを作り、

「とても、幸せよ。あなたが何をしているのか、わたしには難しくて分からない。だけど、あなたのその顔も身体も含めて、わたしは誇りに思うわ」

 そのときは、随分、喧嘩もした。だが、投げ出したりはせず、根気よく話をし、納得させた。夫を信じる心の強い妻であった。学生の頃のような若い美貌はもうないが、それでも構わない。

 この世で最上で、唯一の女である。そして、二人の間に産まれた拓のことも、心から愛している。

「あなたは、あなたの思うままに生きて。わたしは、それを信じてるわ」

 これほど美しい笑顔は、見たことがない。夜の暗がりのために縁取られた影すら愛おしかった。



 守らなければならないものを守るため、戦わなければならない。

 全ての束縛から、人は解放されなければならない。

 力とは、そのための手段であるべきであった。

 帰宅したとき、自宅の表札を、何となく見た。

「村田晋作」

 と書かれていた。

 未だに他人の名のようにしか思えぬが、名などどうでも良かった。

 名や、顔や、その他のものを引き換えにして今の力を得られたのであれば、安いものである。



 強化人間を、使う。

 特公行の休暇期間を利用して密かに性能試験にかけていた五十体ものそれを黒猫にされたのは痛手であった。

 だが、換えならいくらでも効く。彼らには戸籍も親も故郷も名も人生も記憶も、自我もない。

 そして、強襲型生体機巧ほどの戦闘力や思考の複雑さを持たぬ代わりに、安上がりであった。

 戦闘力など、それほど必要はない。なにせ、まだ緒方と名乗っていた頃、貧弱な両の腕で、平賀博士の妻と子を殺したのだ。それは、ただの人でも、人のいのちを奪うことが出来るということの、何よりの証明である。ゆえに、戦闘力など、それほど必要ないのだ。

 見られたのだから、致し方なかった。どのみち、人の数は多過ぎるのだ。そして、放っておいても、人はいつか死ぬのだ。

 だから、大きな流れの中においては、些事に過ぎないのだ。


 あれが逆の立場であったら、とは思う。自分も、恐らく、平賀博士を一生許すことはなかっただろう。その骨を剥ぎ、肉を喰ってもまだ足りぬ憎悪と怒りに身を染めていたに違いない。

 だが、それも、心という曖昧なものがもたらす反作用リアクションに過ぎない。



 守るべきもののため、戦う。

 政府も、企業も要らぬ。

 そのため、敵対関係にあるはずのサクマミレニアムと特公行を表面的には繋いだ。部長が殺害されたのは計算外であったが、サクマにとっての最大の仮想敵である特公行が沈黙したのは、単純に好都合である。

 誰がその跡を引き継ぐのかは知らぬが、丸ごと取り込んでしまえばよい。


 やはり、力である。

 屋内に戻り、眠る前にシャワーを浴びるため、浴室へ。

 昔の自分とは比べ物にならぬような、隆々とした筋肉に覆われた、村田という男が鏡の中に立っていた。

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