不表のもの

 黒猫は、病院の階段を駆け上がった。エレベーターを待つより、その方が早いと判断したのだ。斎藤も一緒に棟内に入ったが、無論追いつくことなど出来ない。

 六階。駆けながら病院内のネットワークに侵入し、その部屋を割り出した。

 扉に手をかけ、開く。

「——博士」

 そこには、呼吸器を着け、眠っている平賀博士の姿があった。

「お身内の方ですか」

 病室内にいた医師らしき男が、声をかけてきた。

「背中に、傷が。しかし、動脈を僅かに損傷しているほかは、主要な臓器には傷一つありませんでした。奇跡です」

 奇跡ではない。狙って、そうしたのだから。いや、黒猫が自らの意思で行ったことではない。無意識に行ったのだ。何故なのかは、彼女には分からないのだろう。平賀博士の生体反応を確認し、生存を確信する。

「この部屋から退避することを、強くお勧めします」

 平賀博士がまだ生きていて、室内には医師以外に誰もいないということは、それは来るということだ。だから、医師に出て行くよう勧めた。

「しかし、君——」

「出て行きなさい」

 平時服のポケットからハンドガンを取り出し、脅すようにして医師を退室させた。


 医師は半分廊下に出たところで、悲鳴を上げ、そのまま崩れ落ち、血溜まりを作った。

 それを踏み、びちゃりと音を立てるコンバットブーツ。

「黒猫、視認」

 火鼠である。九ミリハンドガンと、コンバットナイフで武装。服装も平時服ではなく、戦闘用のコートである。

「平賀博士、視認」

 どうやら、火鼠には、路上で特公行の職員四人を殺害した黒猫も、この場でよう指令が出ているらしい。そうでなければ、本来この場にいるはずのない黒猫の出現に戸惑い、本部に指示を仰ぐはずである。

「何故、平賀博士を守る」

 火鼠が、ナイフを抜きながら、質問した。

「何故、平賀博士を殺さなかった」

 答えない黒猫に向かって、別の質問を投げかけた。

「そうしなければならなかった」

 黒猫の回答は、端的である。

「そのような指示があったのか」

 彼女らの行動は、指示によって決定されなければならない。火鼠は、指示なくして行動を行うということがあることを想像出来ないらしい。

「ない。しかし、そうしなければならなかった」

 黒猫が、ハンドガンを二挺抜き、両手で構えた。

「黒猫の暴走を確認。これより、排除します」

 あり得ぬほどの速さで、距離を詰めてきた。二挺のハンドガンから三発ずつ放った弾丸は、四発が外れ、二発がケプラー繊維のコートに当たって止まった。

 そのまま火鼠はナイフを納め、身体をぶつけるようにして一挺の拳銃を払い落とし、銃床で殴ろうとするもう一挺を受け流す。

 姿勢の崩れた勢いを利用し、黒猫が下げた頭越しに足裏を放つ。同時に、もう一挺のハンドガンも自ら捨てている。その足裏も外れると機械関節を唸らせながら縦回転し、踵。

 交差した火鼠の両腕で、それが止まる。みし、と強化骨格の軋む音がした。

 心の宿らぬ眼同士が、一瞬、合った。

 火鼠が、高くから落ちた姿勢の黒猫の脚を流す。

 黒猫、再び崩れた姿勢から、拳打。それは火鼠の腹部に食い込み、その身体を僅かに浮かせた。しかし、体勢に無理があったから、致命傷にはなっていない。

「人に、なろうとしているのか、黒猫」

「いいえ、違う」

 互いに、排熱。人間で言うと、肩で息をしているといったところだろう。

「どれだけ望んでも、わたしたちは、機巧なのだ」

 火鼠は、ヴォストークとしての性質に従い、今目の前にある黒猫が、どういう状態にあるのかしようとしているらしく、会話を求めている。

「望む、望まぬじゃない」

 黒猫も、排熱の間、それに答えるつもりらしい。

「では、何だと」

「わたしじゃない。博士が、わたしに望んだのだ」


 排熱、完了。

 顔面に来る強烈な拳打を食らいながら、また腹。

 互いに、渾身の力で、殴り合った。頭部、腹、胸部に打撃は集中した。人間ならば、骨が粉々になり、内臓が破裂しているだろう。それくらいの威力の拳を、互いに与え合っている。

 黒猫が、断絶ブラックアウトを迎えかけている。それは火鼠も同じらしく、段々、運動が鈍くなってゆく。

 互いに、最後の一撃。

「お前は、狂っている」

 火鼠の声。

「狂っていようとも——」

 黒猫は拳を繰り出さず、火鼠の腕を捉えた。そのまま激しく捻り上げ、肘の機械関節を壊す。痛みは感じないが、火鼠の眼が、黒猫を流し見た。

「——わたしは、守る」

 火鼠のコートの内側のコンバットナイフ。それに黒猫が手をかけ、逆手に抜いた。抜いて、喉を斬った。音を立てて白い血を吹き出しながら、ぐらりと火鼠の姿勢が傾く。そのまま、肩を入れ、突き飛ばす。

 よろめきながら後退する、火鼠。

 それに、握ったナイフを投げ付けた。

 強化骨格を貫通し、眉間に、それは突き立った。

 対象、沈黙。


「博士」

 黒猫は、眠る平賀博士に、声をかけた。

「くろねこ——」

 麻酔が切れ、意識が戻りつつあるらしい。どのみち、この騒ぎだ。ここには、いられない。黒猫は、寝言のように自らの名を呼び続ける平賀博士を背負い、病院を後にした。

 四名の、特公行職員。そして、自らと同じように作られた火鼠。それらを屠り、黒猫は、平賀博士を守った。守るならば、何故自ら傷付けたのだろうと自問をしているのだろうか。


 病院の前で待機していた斎藤の車に、平賀博士を載せる。

「おい、この人、確か」

 斎藤は、一度、特公行の本部で平賀博士と会話をしたことがある。

「どこか、身を隠すところが、欲しい」

 黒猫は、そう呟いた。

「大丈夫か。ひどい怪我だぞ」

 答えはない。一点を見つめ、静止している。斎藤は車に発進の指示を与え、黒猫の肩を軽くゆすった。死んだかと思ったようだ。

「——何か」

 急に黒猫が活動を再開し始めたから、斎藤は驚いて離れた。肩をゆすっていたから、顔と顔がすぐ近くにあったのだ。

「いや、何ともないのか、と思って」

「人工筋肉、皮膚の損傷、中程度。機械関節、強化骨格に重度の異常は無し」

「大丈夫なのかよ」

「再起動をすれば、時間はかかっても、回復します」

「そうか。ぴくりともしなくなったから、焦ったぜ」

「ネットワーク接続を、遮断していました。本来、これは決して行ってはならぬことなのですが」

「そうなのか」

「自分からは、行えないのです」

「でも、遮断したんだろう?」

「わたしは、もはや、特公行に所属するヴォストークではないと考えます。ゆえに、あらゆる指示、指令は、効力を失効しています」

「黒猫が飼い主に噛み付いて、逃げ出したわけだ」

 黒猫はその例えがよく分からないらしく、口から白い血を流したまま、小首を傾げた。



 前方に、人。急に飛び出して来た。自動制御のブレーキが作動し、車内には猛烈な荷重がかかった。

「今度は、何なんだ」

 斎藤が、ほとんど泣きそうになりながら、叫び声を上げた。

「身を、低く。動かぬように。四分以内に、戻ります」

 飛び出してきた人間は、そのまま動こうとしない。

 歩道からも、人。複数いる。黒猫は、それを七体と数えた。

「おい、黒猫」

 斎藤の叫びを残し、黒猫がドアを開く。

「未知の機巧です。これより、排除します」

 先ほどまでに比べて、ほんの僅かに損傷は回復している。しかし、今の自らの状態ならば、再起動直後のパフォーマンスの六〇パーセントも出ないと算じた。それと、過去の戦闘データから導き出される敵の戦力とを秤にかけた。

 極めて、危ない。しかし、黒猫は、自ら進んで未知の機巧の群れに向き合った。

 たとえば強化骨格の拳や弾丸などの、強い衝撃や損傷をひとつ食らえば、断絶ブラックアウトという機能停止状態に陥る。それでも、彼女は、地を踏みしめた。

 戦闘モード、起動。


 火鼠と、黒猫。

 戦闘力は、ほとんど同じ。

 しかし、火鼠は沈黙し、黒猫は活動を続けている。

 その差が何によるものなのか、黒猫はこうしている間も演算している。

 ただ、それが文字や数字では表せぬものであるということまでは、分からないらしい。

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