俺は語るべき言葉を見つけられずに沈黙する

……それは水のように見えた。


どろどろとした黒い何かが、炎に包まれる屋敷の奥から……火の中から、ゆるゆると広がってくる。


まるで無尽蔵の貯水量を持つ水源を壊してしまったように、その流出には止め処がなかった。俺は一瞬、生き残った六郷家の誰かが消化を試みているのかと思った。だがそれにしては水の量が尋常ではなかったし、何よりその液体と炎はお互いに無関心を貫いていた。確かに両者ともにそこに存在するにも関わらず、液体と火の位相レイヤーが異なるために、干渉できていないようにも見えた。


(なんだ……?)


水が光源の具合で黒く見えているのではない。その液体のような何かは完全な黒であった。


俺が連想したのは、あらゆる物質を引き寄せて、何者も――光すらも――その重力から逃れられないがゆえに漆黒に映るブラックホールだ。ただ黒い質感が、静かに、滑るようにして侵食してくる。


現実世界が「何もない」に呑み込まれてゆく。


俺は直感する。これが隼人が恐れたもの、六郷の【完結】だ。


「……ゆかり、逃げるぞ。何かは知らんが、はまずい」

「……?」


ぼんやりとゆかりは顔を上げる。顔を上げて、火の中からするすると忍び寄る黒い何かを見る。


ゆかりが視線を向けた瞬間、黒い液体の侵食はと止まり、水面がゆらりと揺れた。俺は違和感を覚える。馬鹿馬鹿しいと吐き捨てられることを覚悟で言えば、黒い液体にを感じたのである。黒い液体が俺たちを品定めしているように思えたのだ。そいつは俺の腕の中の娘とゆかりを交互に見ているような気がした。ただの液体ではないと、直感が告げている。まるで、野生動物がこちらの様子を伺っているような――


次の瞬間、突如として黒い液体がと跳ね、黒の波がゆかりに襲いかかった。


「――ゆかり!」


俺は娘を片手に抱き、もう片方の手でゆかりを強く引き寄せた。


黒い波は、ゆかりがさっきまで居た場所にばしゃりと音を立てて落ちる。そうして……ゆかりの両親の死体を黒に染めながら飲み込んだ。巨大な牛がずぶずぶと流砂に沈み込んでいくように、黒い水面の中に二人の身体が飲まれていく。床から数センチほどの厚みしかない黒い液体もどきは、成人二人の体積をやすやすと無に帰した。質量保存の法則が聞いて呆れる。


屋敷の中から広がって来ていることを考えると、おそらく、縁側にいたこの二人の死体で「最後」だ。あとの六郷家の人間は既に飲まれているに違いない。これでは屋敷が燃え尽きようが途中で消し止められようが、死体はひとつも出ないだろう。


「いくぞ。あの黒いものは、たぶん六郷の人間に引き寄せられている。このままではお前と……この子も飲まれる」


俺は娘を抱いたまま、ゆかりの手を引く。俺たちが間に合わなかった以上、もうここに用はない。過ぎたことを悔いても仕方ない。明らかに【並行世界】と関係がありそうな黒いものの正体を知りたいのは確かだが、それよりも俺は、この場からいかに安全に脱出するかということだけを考えていた。



――その希望は、次の瞬間についえる。



黒い液体が、一瞬の間にその体積を爆発的に増大させた。眼前に立ちはだかり、地面を覆い尽くし、その黒は六郷の屋敷の敷地全体へと広がってゆく。ひたすらに沈みゆく無が地の底から噴出して地面を満たしている。


まるで獣が弱った獲物をいたぶるように、黒い液体は俺たちを取り囲んでしまったのだった。


(クソが、出口は……)


俺は敷地の入口を振り返る。だめだ。既に黒い液体に塞がれている。


あたりを見回すと、唯一、ゆかりたち六郷の分家が住んでいた離れの建物が、黒の侵食を免れていた。火の手はどうやら本家から上がったらしく、幸い離れは火災からも無事であった。俺は娘を抱え、ゆかりの手を引いてそちらに駆ける。


と、ゆかりはその途中で立ち止まった。手を引いていた俺の身体がガクンと揺れる。


「待って!あの黒いものの中に、誰かいる!」


ゆかりは今しがた逃げ出そうとしてきた方に戻っていく。


――おい。これ以上は俺たちの娘も、ゆかり自身の安全すらも危うい。俺は脳筋の山田と違って肉体労働は苦手なんだ。ここにあいつがいれば体力を使う面倒事は全部押し付けられたのに、と考えるが、文句を言っても仕方のないことだ。


黒い液体は俺たちを包囲したことで満足したのか、気味悪く沈黙していた。何故動かない? さっき飲み込んだゆかりの両親を消化しているのだとしたら、まるで蛇だ。俺は軽い吐き気をもよおした。


俺がゆかりの元に駆け寄ると、そこには、黒い液体の中に半身を漬けどっぷりと真っ黒に染まっている少年の身体があった。中学生くらいだろうか。ゆかりと二人で、その身体を黒い液体の中から引き上げる。


あたりの炎をものともしない、シンとした冷たさがその身体から漂っていた。


俺は、そいつの顔立ちを覚えていた。


――六郷夜介。


こいつも既にしまっているのか?


「……あのガキか。ゆかり、こいつも駄目だ。捨てていけ」

「ううん、まだ助かる」


ゆかりは――自身の眼が届く限りの存在を、救おうとしてしまう。


「――馬鹿言うな。俺はこいつよりもお前たちを」

「お願い」


すがるような紫の瞳の奥に、何があろうと決して折れることのない強固な意志を認めて、俺は舌打ちする。いつもこうだ。こいつらは兄妹揃って一度言い出したら何も聞きやしない。


そしてそれが、俺には心地よかったのだ。


俺はため息を付いて首を横に振る。ゆかりは「ありがとう」と微笑み、六郷夜介の身体に手をかざす。


(……?)


疑問符を浮かべる俺に反して、ゆかりの動作には何の迷いもなかった。


ゆかりの手に、白い光が宿る。ゆかりが適正を持つ【トップ】のフレーバーだ。


白い光は夜介の身体を包み、まとわりつく黒い何かをまるで浄化するみたいに溶かしていって――あとには、命の張りを取り戻した少年が、すうすうと呑気な寝息を立てていた。


……生きている。


「ゆかり、それは……」

「へへ……できたみたい。できそうな気はしたんですけど」


と、ゆかりは笑った。


どうやらギリギリの土壇場になって、ゆかりはしたらしかった。【フレーバー】を扱えるようになれば、ゆかりは六郷の【神隠し】によって、隼人のように消え去ることはない。


俺は六郷夜介の安否よりも、ゆかりの【呪い】が解消されたことに言い知れぬ喜びと安堵を感じていた。それの何が悪い?命には序列がある。俺にとっての序列だ。何人なんぴとたりとも、異論を唱えることは出来ないだろう。



◆◆◆◆◆



俺たちは、六郷の屋敷の離れに避難した。ゆかりの部屋は火の手が回っておらず静かなものだった。本館と離れを繋ぐ廊下は木製だったので、ここに来る前にざっと打ち崩して延焼えんしょうしないようにしておいた。もしかすると、このまま火事が収まるまで逃げ切ることが出来るかも知れない。


あの黒いものがそれを許せば、だが。


ゆかりは夜介の身体をベッドに寝かして、身体の傷を治すためか心配そうに【トップ】フレーバーを発動させている。俺はその横で娘を抱いて、ベッドに背を預けている。


「とりあえず……火は大丈夫そうだな」

「ですね。先生、ありがとうございます」


ゆかりは額の汗を拭って俺に笑いかける。俺は、溶けそうに柔らかな娘の頬をつついている。事態の異常性を認識できない赤子の娘は、うきゃうきゃと喜んでいる。


俺は、馬鹿みたいに爆睡を続ける夜介を振り返り、吐き捨てた。


「支払いが遅くなったが、これはあの夏のバイト代ということにしてやろう。その命を大事に使え、クソガキ」


ゆかりはそれを聞いてくすくすと笑った。


「……何だ?」

「ううん。何だかいいなって」


わからないことを言う。


「いいことがあるか」

「だって、やっくん、何だか先生と似てるから」

「――このガキと?俺が?」


不愉快かつ不名誉な類似性の指摘に、俺の顔が歪む。しかし、ゆかりはそれをおかしそうに受け止めるだけだった。


と、俺の腕の中で、娘がか細い寝息を立て始めた。ゆかりは手を伸ばして、そっと娘の髪を撫でる。


「寝ちゃったね」

「……ああ」


その小さな生命は、俺の腕の中で静かに眠っていた。窓の外で屋敷の本館を蹂躙する炎がなければ、幸せな夜のひとときに錯覚しそうだった。


(だが、の驚異は消えていないはずだ)


俺はわずかに身体を持ち上げて、ゆかりの部屋の窓から外を覗く。やはり黒い液体は未だそこにあり、ゆらゆらと揺れている。今のところは大人しいように見えるが、いつ先程のような凶暴性を取り戻して襲いかかってこないとも限らなかった。


――この中で、六郷の血を引いていないのは俺だけだ。だから、俺が突破口を開かなければならない。


寝入ってしまった娘を起こさないように、俺はゆかりにそっと小さな体を手渡した。


「俺は、外への脱出経路がないか見てくる。……この子を頼む」

「うん、わかった」


ゆかりは微笑みをたたえてそれを受け取る。


――刹那。


床を貫通して伸びる黒い斬撃が、俺とゆかりの真ん中で、


赤子は驚いたように目を見開いて、ぱくぱくと口を開閉させる。その瞳が、俺と、ゆかりを、交互に見た。


そして――そこまでだった。


娘の身体は黒い液体になってと溶け、弾ける。


「――っ!」


俺は、手の間からこぼれ落ちる、娘であった黒い液体を拾い集めようとした。それはとっさの行動であって、戦略も計画性も持たない無意味な反応であった。だが、そうしなくてはいられない本能が俺を突き動かしていた。


じゅうたんの上に広がる液体を手でかき集めようとする俺の手に、ゆかりの手が重ねられる。


「先生!あたしが……!」


ゆかりの身体が、ひときわ白く輝いて――俺たちは、並行世界へと転移した。



◆◆◆◆◆



そこはいつもどおり何もない空間である。黒。まったくの無。そうだ。あの黒い液体は、やはり並行世界が俺たちの現実世界へと溢れ出たに違いなかった。俺が ATPI など開発しなければ、こんなことにはならなかった。娘は黒に塗り潰されてしまうこともなかったのだ。俺はいつもクソのような選択しかできない。せっかく掴みかけた幸福は、ぜんぶまやかしに……


「先生」


なにもない空間の中、優しい声に呼びかけられて俺は顔を上げる。そこにはゆかりがいる。


ゆかりが、娘を抱いていた。


娘は小さく寝息を立てている。俺は、おそるおそる……その小さな生命に手を伸ばす。


「生きている……のか?」

「大丈夫。ちゃんと溶けちゃう前に【創造】したから」


ゆかりは笑顔で俺に応える。


「でも、あたしはもう戻れないかも」

「戻れない?」

「ごめんなさい」

「……何を謝ることがある。おい、もういいだろう。とっとと帰るぞ」

「あの黒は【六郷】そのもの――あたしたちが片を付けるべきもので、先生を、この子を巻き込んでしまった」

「……」

「あたしが今できるのは、このどろどろの【並行世界】の上に、あたしの【トップ】で世界をぜんぶ【創造】することだけ。そうすれば、もうこの子も……」

「……ゆかり。頼む。一緒に帰るんだろ?」

「ごめん……なさい、先生」


ゆかりの姿は今や半ば白い光となって、真っ黒な世界に溶け込もうとしていた。ゆかりの白は黒い世界に光を投げかけて、並行世界に新たな形をもたらそうとしていた。それは娘を守るためであり、俺を守るためでもあった。


ゆかりは、ゆかり自身の意志によって、俺の前から消えようとしている。俺は……


「……ゆかり。お前は……どうして」


その続きは言葉に出したわけではない。俺は、どうしても今まで聞けなかったことがあった。最後にそれを口にしようとしたのだ。


どうして、俺と生きてくれたのか。


ゆかりはあの夏、六郷の家から立ち去ろうとする俺に着いてきた。それは単に、ゆかりが兄の面影を俺に重ねていて、ただ再び失うことを恐れていただけではなかったか。単に道端の雑草を、何か価値に在るものと錯覚しただけではないのか。俺は、お前の弱みを利用していなかったか。俺はお前の未来を奪いやしなかったか。俺は、お前を幸福にすることができただろうか。


この期に及んでも、俺はゆかりの口から答えを聞くことを恐れた。たまらなく怖かった。


それでも、ゆかりは俺の心の内がずっと前からわかっていたように、俺に応える。


「家族っていいものだな、って……思って欲しくて」


白い光の塊となったゆかりは、腕の中の娘を俺に差し出す。俺は、光からそれを受け取る。


並行世界は、ゆかりの【創造】による白い光で満たされた。


「……先生、この子を頼みます」


そうしてゆかりは、ただそこにあるだけの世界と化した。



◆◆◆◆◆



気が付くと、俺は六郷の屋敷の外にいた。敷地の中では炎が荒れ狂っている。熱い空気が身体を打ち据える。


俺はもう、炎の中に駆け込んだところで、何一つ取り戻すことが出来ないことを理解していた。いま俺の手にある一個の生命を除いて。両手の中には、熱くて重くて柔らかい、俺とゆかりの娘が美しい寝顔でその存在を主張していた。


どうしてどいつもこいつも、俺に大切なものを託して消えやがるのか。


「俺は主人公じゃない、つってるだろ……クソが」


俺は語るべき言葉を見つけられずに沈黙する。それでも俺の心は表現すべき感情を理解して、目から不愉快な熱いものが溢れ出る。俺は脳が語り得るものを見つけ出すまで、涙にその役目を譲ることにした。

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