この家の呪いから救ってやる

十年近い年月が経過した。


俺は量子物理学の理論を専攻して、他世界の存在立証と干渉方法についての研究を進めていた。眼の前に存在する現実とは異なる、もうひとつの世界。隼人はそこに飲み込まれた、と考えたのだ。だから俺は昼も夜もなく、あの事象を説明する理論を研究した。


あまりに平凡で鈍重だろうか?


まぁ、勇気を奮い起こせば大抵の困難を乗り越えられる素晴らしい世界であれば、他にやりようもあっただろう。俺はそうした美しい世界をいくつもゲームの中に見てきた。同時に、現実との絶望的な差も。あるいは俺にゲームの主人公のような特別な力があれば、あの場で隼人を救うため、異世界に飛び込むような真似ができたのかも知れない。

転送魔法。時間操作能力。空間破壊武器。たちどころに世界の仕組みがわかり、眼の前にパラメータ表示が浮かび上がる解析スキル。

そんな便利なものは、俺の生きる現実世界には見当たらなかった。顔の上に乗っている、何も特別ではないありふれた銀の眼鏡の位置を片手で直す。あれほど異常な事態に直面しても、俺は、いま使える人類の知識を使って対処する他に手段がなかったのだ。


なぜなら、俺には科学これしかなかった。俺という人間を、人生を、人格を構築するものは、科学だけだったのだ。科学だけが俺の使える武器であり、魔法であった。


隼人が最後に頼ったこの不完全な道具を、俺も信じることに決めたのだった。


数ある科学分野の中から量子物理学を選択したのは、幼い頃から両親の蔵書に埋もれ、入れ替わり立ち替わり何人もの家庭教師に教育を受けてきた俺に、とある信念があったためだ。すなわち、学術というフィールドはあまりに広がり過ぎていて、世界の全体像を見渡せる個人など存在しない――という信念だ。俺自身も含めて人間どもは揃いも揃って象を撫でる群盲であり、触った尻尾の手触りだけから象の形を語っているに過ぎない。


だから俺はひとつの賭けとして「もうひとつの世界」というテーマにもっとも適していた分野を専攻した。結果的には、ある程度は成功であったと言える。


博士課程を終えて振り返ると、どう見てもファンタジー崩れでしかない「並行世界」という分野を、科学としてクソ真面目に研究する人間が世界にこれほど存在することが一番の驚きだった。


何よりも研究を続ける中で起こった大きな変化の一つは、軍が俺に接触してきたことだろう。


、という表現は適切ではないかも知れない。何しろこの国に正式な軍隊は存在しないし、俺に接触してきた男自身も、そう名乗ったわけではない。国防を担う役割を持っていながら、それでいて看板を表に掲げていない非公式の組織――その話を聞いて俺が安直に「軍」と理解し、俺に接触してきた男自身もそれを否定しなかった、というだけの話だ。


男は山田と名乗った。本名なのか偽名なのかはどうでもいいだろう。そいつは平々凡々といった顔立ちの中年男で、俺に対して慇懃無礼な姿勢を崩さず、何も持たない俺を「先生」と呼んだ。


「比良坂先生。あなたの論文――特に補遺に掲載されていた、家系 "R" における "familial incidence" は――我々にとって注目に値するものでした」


聞けば、そいつは「軍」で並行世界に関する研究を長年続けてきたという。その風貌はことごとく「普通」の中年男だったが、唯一そいつの語る内容のみが、世間一般の常識から外れている。


とはいえ俺の思考も、長年の研究漬けでとうに常識という道を外れていた。つまるところ、俺にとってそいつはクソ以下の平凡であり、一挙手一投足が苛立ちの種でしかなかった。新たなコネクションという餌がなければ、即座にあらん限りの罵倒を浴びせて研究室から叩き出していたところだ。


山田が語るところによると、並行世界の研究は理論として進んできたものの、並行世界自体への干渉は今に至っても実現できていないらしい。ある意味で、そいつらも行き詰まっていた。だからこそ俺に接触するという最後の手段を採ったのだろう。


並行世界への干渉という高いハードルを、その血筋に特有の【神隠し】によって越えたのが【六郷】である。


俺はその極めて非科学的な情報を、論文の本筋から外れる補遺の部分に「家系 "R" における "familial incidence"」として載せておいたのだ。あくまで、あり得る並行世界の現れ方の一事例として。一度査読で弾かれたが、必要な情報であるとゴリ押しした。それはある種の撒き餌であり、こうして実際に、俺よりも広く深い情報網と歴史を持つ連中を釣り上げることができた。


山田は、実際に六郷の家に出向いて調査することを提案した。


「理論としての研究はもう十分でしょう。実際に、彼らを観測してデータを収集するべきです」

「……ああ、俺もいい頃合いだと考えていた」


そう答えたのは嘘ではない。隼人の年の離れた妹――六郷ゆかりは、今年で16歳になる。タイムリミットが迫っていた。



◆◆◆◆◆



あの夏、俺と山田は六郷の屋敷を訪ねた。招かれた先の広間で、眼の前には大柄で静かな男が佇んでいる。男は和装に身を包み、俺たちが話をする間、じっと無言でこちらを見ていた。威厳。粛然。荘厳。そういった言葉では表し切れない、絶対的な――存在自体の重さが、身体にのしかかって来るようだ。その瞳の底は黒く濁っていて、俺は、人間の眼ではない何かを覗き込んでいるような心持ちになった。


――六郷宗弦そうげん


六郷家の現当主であり、俺たちの「交渉」の相手である。交渉とはすなわち、六郷一族の持つ特別な力を調査することを認めさせ、並行世界研究に協力させること。


俺たちの提示する見返りは、六郷ゆかりに起こり得る【神隠し】を事前に防止することと、研究成果の提供である。隼人の話によれば、六郷家自体も己の一族の【呪い】を自覚して、長年何かに取り組んでいる。その「何か」に新たな視点と情報を提供することは、六郷家にとっても益となるはずであった。隼人によれば六郷家の目指すものは「神隠しの解決ではない」という話であるが……。


(――完結、か。俺自身、真相は対峙してみないとわからないと思っていた。だが、これは……)


隼人と旧知であるという事実は伏せて、俺は六郷宗弦に来訪の目的を告げる。実のところ、この取引は山田を通じて六郷家の側から持ちかけられたものである。だからこそ俺は、十年ものあいだ念頭には置きつつも決行に至らなかった六郷家本体への調査に踏み切ったのであり、したがって、断られるという筋がほぼ考えられない提案ではあった。


六郷ゆかりの神隠しを事前に防止する、という俺たちの計画を話した時、六郷宗弦はわずかにその暗い目を細めた。


「あの離れの娘、ゆかりの兄は……十年ほど前に。それ以来、娘もその可能性があると見てきた。実際、あれは未だに【香】を操ることが出来ない」


俺は可能な限り表情筋を動かさないようにして、宗弦の話を聞いている。

確かに隼人の懸念したとおり、隼人が神隠しに遭ったことであいつの妹も予備軍として考えられていたようだ。俺は、どうやら間に合ったらしいことに安堵する。


「ただ、あれのこうへの適性自体は高い。制御手段を研究する材料としては妥当だろう。好きにしろ」

「願ってもないが……あんたらの目的とは競合しないのか?」


交渉が順調に進んでいると見て、俺は一歩踏み込んだ質問を投げかける。この質問はいくつかの情報を宗弦に伝えることになる。俺が、六郷家にもともと別の研究目的があると認識していること。そして、俺の目的と六郷の目的は、同時に成立しない可能性を想定していること。


六郷宗弦は俺の質問に動じる様子もなく、重々しく頷いて口を開いた。


「才能にらぬ【こう】の操作は、我々ろくごうの悲願の礎ともなる。私の代で完成させるために、貴様の頭脳は役に立つ」


完成。それはつまり、六郷は何かの途中であることを意味する。【神隠し】の制御・解決とは異なる何かを目的として、何代にも渡って計画を進めている――。それは確かに、六郷隼人がかつて語った六郷の【完結】を示唆するものであると理解して相違ないだろう。


(隼人、お前は一体何を恐れていたんだ? そして、最後に何を見た……?)


「……オーケー、相互に利益があるってことだ。そういうことなら勝手にやらせてもらう」


口調や表情、素振りから何かを読み取られる前に、俺は振り返って部屋を後にする。六郷宗弦の重い存在感は、無言の圧力を伴って俺の背中にずっしりと覆いかぶさっていた。



◆◆◆◆◆



その夜ひとりで廊下を歩いていると、後ろから不意に声をかけられた。


「こんばんは、白衣のお兄さん。ウチに泊まるっていうですよね?」


俺は振り返り、そこに立つ制服の少女を視界に収める。健康的に日に焼けた肌と、丁寧に櫛の通ったなめらかな黒髪。その瞳はあまりに黒いため、紫に輝いているように見えた。こちらを見上げて、人好きのする笑みを浮かべている。


六郷ゆかり。


一目でわかる。隼人に顔立ちがよく似ていたからだ。その笑顔も、俺という人間にこうして柔らかく話しかけることができる、その図太い神経も。俺は懐かしさに、眩しいようなこそばゆいような感情が湧き上がり、目を細める。そうすると俺の目付きは悪くなることを知っていたが、止めることはできなかった。


案の定、ゆかりは俺の表情に面食らい、愛想笑いを浮かべて少し身を引く。


「えっ、と……。あたし、あなたに協力するよう……言われて……」

「お前が隼人の妹だな」


俺の確認の言葉を受けて、ゆかりの眼が驚きに見開かれる。そこに映るものは驚愕と疑問と、わずかな警戒。


「お兄ちゃんのこと、知ってるんですか。……どうして」

「あいつは唯一の友人だった。俺は隼人の最後の頼みを果たすため、ここに来た」

「頼み……ですか?」


その時の俺は平静ではなかった。この女に警戒心を持たれたくないという根拠の不明な一心で、俺の口は六郷宗弦にも伏せていた事実をべらべらと漏らしていた。そして俺の唇が次に吐き出したのは、隼人が消えてから何度も何度も繰り返してきたために、もはや俺のものか隼人のものか区別ができなくなった意志の結晶だった。


「お前を、この家の【呪い】から救ってやる」


雲間から差し込んだ月明かりは廊下を照らし、さあっと六郷ゆかりの紫色の瞳を撫でた。

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