花と小春

じゃあ、はじめましょうか

血のように赤い夕焼けが、六郷家の広い庭を照らしている。


ゆったりとした空間に点在する庭木からは、十四年という年月の経過は微塵も感じられない。つい今朝も熟練の庭師によって手入れされたかのように、生き生きとした植物の生命力と緑の匂いが溢れていた。

自然石と見紛う庭石は、見る角度によって与える印象が異なった。縁側から眺めれば庭の奥行きを深めるオブジェクトとして機能する。門をくぐり入口から見れば、その石たちは来客を整然と迎え、あたかも六郷の威厳を示しているようである。


夕日を反射する庭池のほとりに、一本の松の木がある。その高い枝にひとりの女性が腰掛けていた。


女性は、ロングスカートを風になびかせて遠くの山々を眺めている。薄暗い地下施設で瓦礫の中を歩いているよりも、こうしている方がずっと似合う。細い髪と白い肌が、地球をかすめて奔る夕日に染め上げられている。


それは一枚の絵画のような光景であった。


「――いいお家ですね、六郷さん」

「花さん……」


百合崎花は、銀の腕輪――ATPI を人差し指にひっかけて、くるくると弄んでいた。白黒の並行世界リバースへと入らなければ、彼女も【フレーバー】を使うことはできない。破壊をもたらすことのない彼女は、ただの美しい天才に過ぎない。


「わたし、こういうの大好きなんです。確かスタバでも言いましたけど」

「この家は……十四年前に無くなっていたはずです。……花さんたちが?」

「ええ。正確にはメルトちゃんの【創造】で、ね」


あるべきものをかたちづくる――それが【アップ】系列フレーバーの第三世代、【トップ】の司る力である。


「並行世界の起源。された世界。わたしはずっと不思議でした。比良坂先生はって、わたしをここに連れてきました。すべての始まりであり答えである、六郷の家へと」

「……」

「で――わかっちゃいました。わかってしまったら、何だかとっても……どうでもよくなって」


夕日が逆光となって、百合崎花の表情を窺い知ることは出来ない。


「先生の研究によって、これまで理論上の存在でしかなかった並行世界への干渉が可能になったこと。それはサトシ・ヒラサカでなければならなかったこと。その干渉は、六郷夜介あなたの脳波をベースとする ATPI でのみ可能であること。色彩を持たない、白黒の世界であること。すべてに理由があり、そのすべてが……だったんです」


百合崎花はため息をつく。


「わたしにとっては、ね」


呟くその瞳は目の前の人間たちを見ているようでいて、何も映していない。


「理解できても共感できない。解釈できても再現できない。その先に到達できない。なんにもできない、どこにも行けない」

「……」

「おもしろいかなぁ、と思ったんですけどね」


僕は彼女の独白を聞きながら、どこにも行けない天才を想った。彼女はどこにでも行ける力を持ちながら、すっかり迷子になってしまっている。

しん、と静まり返る僕たち三人の中で、最初に沈黙を破ったのは小春アザレアだった。


「……お姉ちゃん。もう、いいでしょ? ……お願い」

「小春、あなたも懲りないのね――でも、生きてて嬉しいわ」


笑みを浮かべて優しく告げる。それはもちろん、百合崎花の心からの言葉であった。


――強い風が吹いて、庭の木々が揺れる。


「あたしは怒ってるの」

「あら」


瞳に硬い意志を宿す妹と、それを受け止めて、くすくすと柔らかく笑う姉。その間には、天地よりも深い断絶がある。妹の怒りはきちんと受け止められているようでいて、決して姉の心に届いていない。


百合崎花は木の枝の上で立ち上がる。その細い身体は危なげなく天に伸び、神が下界を見下ろすようにゆっくりと僕たちを見渡している。その瞳は、僕の顔で停止した。


「最後に、世界のボトムにあるを抜く必要がある。六郷さん。あなたが、世界は次へ進めるんです」

「――次?」

「好きにしろって、先生はそう言ってたわ」


彼女はそう呟いて枝から飛び降りる。


とん。


軽い着地の音はあれど、既に百合崎花の姿はこの世界に存在しない。並行世界リバースへと、その位相を移している。


――僕たちから聞こえない声だけが、どこかに響く。


「じゃあ、はじめましょうか」

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