リバースティック・エフェクト

「――――ッッ!!?」

「六郷さん、いつも言ってるでしょ? 失敗は繰り返さない。改善してリトライ。基本ですよ」


僕は、彼女の言葉に反応することが出来ない。

切断された両足が、本体ぼくとは無関係のような顔をしてそこに転がっている。思考は、身体を貫く衝撃に支配されていた。


ただひたすらに切実な混乱と喪失と恐怖とが、取り返しのつかない激痛を伴って身体を襲う。


意識の隅で僕は、二人の男たちが部屋に入って来ていることに気が付いた。


グレースーツの男と、片脚が義足の男。彼らは崩れ落ちた天井と壁を抜けて部屋に侵入したかと思うと、ユリを守るように、そして敬うように少し離れた場所に待機する。ハイゼンベルクの施設に侵入してきたという連合のメンバーはユリを含めて四人。一人足りない。そして、水仙はどうなった?


……それ以上の思考を巡らす余裕は、僕にない。


鼓動のたびに両足の付け根からと流れ出ていく血液を感じることしかできない。


「敵と対峙するときは、相手も経験から学んで工夫して来ることを想定しなきゃダメです」

「……!……!!」


僕は何かを叫ぶように口を大きく開いている。しかしそこから漏れ出るのはただの空気だけで、意味を成す言葉ではない。誰かに何かを伝える音ではない。


「それに、メルトちゃんに当たったら困るじゃないですか」


熱は血液を介して床に奪われていく。身体の温度がコンクリートへと近付いていく。


「あと……六郷さんは六郷さんで、死んだら困るんですよね。まだ、使い出はありますから……」


そこでユリは振り返り、後ろに控える男たちに声を掛けた。


「じゃ、元の予定よりなっちゃたっけど、持ってって」

「……了解した」


グレースーツはユリの呼びかけに応え、僕の方へと足を運ぶ。彼はその手から【アップ】のフレーバーで形成された白い紐をと二重、三重に延ばして、白い網を作り出した。僕がユリとの戦いの中で編み上げたものに近い。


ユリは、さて、と黒い棺桶に向き直る。その中にはアザレアと、メルトが格納されている。


気の遠くなるような痛み。痛みかどうかすら判別できない。これは……命に届いてしまう。


(……その前に)



◆◆◆◆◆



――あの男は【ストレンジ】。最も非力で、最も難解、そして――最も厄介なフレーバーだ。


頭の中に、いつの日か確かに聞いた父親の声が響く。


――お前には、ある種の時限催眠が仕掛けられていたのだろう。


時限催眠。いまならば飲み込める。ここに至れば実感できる。僕にも父の語る言葉が理解できる。

六郷の血筋は、すべてのフレーバーを扱うことができる。その利用可能なフレーバーには【ストレンジ】、すなわち「奪取」も含まれているのだから。


(僕がやるべきことは――)


自分自身から――脳から、痛みを



◆◆◆◆◆



自分自身から「痛み」の認識を消し去ること。


その方法は、メルトから僕の脳へと流し込まれた【ハイゼンベルク】の最も古い記録――比良坂聡せんせいの操るフレーバーが教えてくれた。


歯を食いしばり、なけなしの理性を振り絞って、僕は極小の【ストレンジ】を体内に生成する。決して目視することのできないそれは、認識のうちで黒に染まる粒子の形をしていた。


【ストレンジ】を作用させる対象は、痛みの伝達路である神経。ただし、神経活動そのものを奪ってはいけない。侵害受容器Noticeptorと呼ばれる組織は、身体の組織が損傷を受けていること、あるいは損傷の危険にあることを伝える。侵害受容と「痛み」は決して同じではない。侵害受容は現象であり、痛みとは主観的な知覚である。1960 年代に Ronald Melzack らによって提唱された "Gate control theory of Pain" によれば、脊髄後角に痛み信号の流入をコントロールするゲートが存在する、らしい。このゲートの存在は、強い意志によって拷問に耐えたり、体表への電気的な刺激で痛みを抑制する TENS と呼ばれる療法の根拠となっている。


僕は【ストレンジ】を使って、ゲートに作用している痛覚刺激のみを「奪う」。


――身体の上げる痛覚アラートの嵐が、ぴたりと止む。


(……成功……した?)


眼の前を真っ暗に覆っていた闇がすうっと引いていくような。冷える身体に呼応するように、頭が冴えていく感覚。


――ある種のオペレーティングシステムには、Out of Memory Killer と呼ばれる機能がある。それは許容量を超えてメモリを食いつぶすプロセスを強制終了することで、真に重要なものごとを行う余裕メモリを確保しようとする。


僕は気が狂いそうな「痛み」をすることで、思考力に割り振るだけのリソースを確保したのである。


肺に残る空気を押し出して叫んだ。


「――花さん!」


黒い棺桶に向かい合っていたユリは、正気を取り戻した僕の声に振り返る。その表情は驚きを隠しもしない。今日は、珍しい日だ。何度あの彼女を驚かせただろうか。僕は少しのおかしさを覚えるとともに、冷静な思考を走らせるだけの余裕を取り戻したことを自覚する。

時限催眠。いまこの瞬間だけは痛みへの対処を先送りして、思考をクリアにする必要がある。


それでも僕には時間がない。


ユリは一瞬の驚愕から立ち直ると、と瞳孔を細めて、得心がいったように呟く。


「ああ、そっか。神経伝達をて……そういうこともできるのね」


ユリは【フレーバー】の操作における思考のフラットさ、冷静さ、精神の集中がいかに重要であるかを理解していた。だから、僕がダメージによる思考の混濁から立ち直ったことで危険性を再評価したのだろう。心持ち身構えて僕から距離を取ろうとする。


しかしグレースーツは、根本から両足を失っている僕の回収を荷物運び程度に考えていたらしい。彼は白い紐で編み上げた網を構えて、僕をその中に捉えようとする。

ユリは一瞬それを引き止めるような素振りを見せたが、それよりも自身の安全を優先した。いや、どちらかと言えば、おそらくはグレースーツのした。


僕はグレースーツに向けて、明確な攻撃の意思を以て【ボトム】を発動する。


(――



◆◆◆◆◆



……それは、地面から黒い噴水が吹き上がったように見えた。高く高く、水ではなく黒い質感が鋭く突き上がる。モノクロの世界を突き破り、その奥底ボトムから、ただの黒色が吹き上がってくる。


灰色の地面を突き破って現れた黒い波は、グレースーツの身体に直撃した。


……高く吹き上がった黒の波は重力に従い、そのまま波がゆるやかに引いていくようにと落ちる。白黒の世界の波面を揺らして、どこかの暗い奥底へと帰っていく。


その波形はと呼ばれていた。


ジゴキシンDigoxinはジギタリス系の植物から採取される薬物であり、すべての薬がそうであるように毒物としても作用する。人体がジゴキシンを摂取すると、心筋細胞内のカルシウムイオン濃度を上昇させ、しかるのちに急速な収縮を促す。結果として、心電図には鋭い電位ピークと、その後のゆるやかな電位の減少が観測される。


これをジゴキシン・エフェクト、ジギタリス・エフェクト、インバーティドティック・エフェクト、あるいは――と呼ぶ。


「……何ですか、それ」


ユリは呟く。その眼は僕を見ていない。彼女の視線は【ボトム】の黒い波――リバースティック・エフェクトの直撃を受けたグレースーツの身体であったものに向けられていた。


「……」


グレースーツの全身は、頭からつま先まで、真っ黒に塗り潰されていた。墨やインクが立体に色を付けたのではない。グレースーツの身体というオブジェクトに対して、世界のドット抜けが起こったように、のっぺりとした黒い質感が人間のシルエットを作り出していた。


ごとん、と、身体であった黒い立体が倒れる。


確認する間でもなく、黒く塗り潰されたその生命が、活動停止していることを理解した。


「――ッ!!」


その効果に呆然とするユリの影から、義足の男が飛び出してくる。


「――お前ら……どいつもこいつもバケモンか!」


彼も【アップ】の力を持つらしく、パイプか何かに白い光を纏わせたのであろう、ライトセイバーのようなものを振りかざしてこちらに接近していた。まるでどこかのゲームの、光属性を帯びた魔法剣、のように見える。


僕は盛大に血を流している。僕の頭上には、命のカウントダウンを示す数値が見えていたりするだろうか。もはや地面に這いつくばる死にぞこないの上半身でしかない僕は、判断の時間すら惜しむように義足の男に手のひらを向けた。


瞬間、男の足元から黒い衝撃波が突き上がる。――死で以て存在を塗りつぶす黒色の、その軌道上に男はいない。


男は横飛びに跳ねて【ボトム】の斬撃を回避している。たったそれだけの動きが、異常に速い。


横に飛んだ男の身体は部屋の壁に水平に着地する。コンクリート壁を踏みしめた両足は白く光っている。脚力を【アップ】で強化することで速度を向上させているのだ。


弾けるような音を上げ、壁を破壊しながらの跳躍は一瞬で僕の眼前へと男の白い聖剣を運んだ。


そして――それまでだった。


「……あーあ」


ユリの声。


僕が地面からいくつもの黒い【ボトム】波を突き上げて、男の身体を塗り潰していた。狙いは乱雑ではあったが、それでも黒く鋭い波は男の身体の各所に刺さり、その加速を止めるだけの効果を有していた。


どぷん、と、高く天井を衝く黒の質感が地面へと落ちる。黒の波、リバースティック・エフェクトは白黒の世界の奥へと帰っていった。


男の身体はその場に、ごとりと落ちた。


胴体の大部分が黒いオブジェクトと化した彼は、それでも頭部が黒のを逃れていたことで、意識を保っていた。男は怒りと恐怖と悲壮さを綯い交ぜにした瞳で僕を睨んでいる。


その視線を受け止めることができない僕は、目を閉じて、さらに【ボトム】の黒い斬撃を彼の頭部に食らわせることしかできなかった。


――男は、生命活動を静止する。


黒の侵食を免れたパイプの先端が、からん、と僕の目の前の床を転がった。

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