あなたのせいでこうなったの

前触れもなく壁が弾け飛んだ。水槽と少女を守っていた小さな部屋は、その内部を広い空間へと晒す。


「ふぅ……よかった。フレーバー自体は生きてますね」


声とともに崩れた壁から顔を覗かせたのは、隣の部屋に落下していたらしい百合崎ゆりざきはなだった。ユリはその【チャーム】を使って壁を崩し、定食屋ののれんをくぐるように、軽い足取りで水槽のある小さな部屋へと入ってくる。


僕は未練がましく、視界から入るその情報と異なる思考を回している。


水槽の中で半身を起こしている少女――メルト――は、僕の心にずっと影を落とし続けてきた「ゆかり姉ちゃん」と、何らかの関係があるのか。思わず漏れた僕の声に「否定」で答えた彼女は、いまや、壁を破って侵入してきたユリに視線を向けていた。


それ以上――問いかけることも、確かめることも許されない。彼女ユリがいる限り、いつでも彼女が事象の中心とならざるを得ない。舞台で踊るのではなく踊る場所が舞台となる、そのような在り方でユリは存在していた。


事象の中心はメルトを視界に捉えると、華やかな笑顔を浮かべた。


「わ、生身のメルトだ。……ここにいたのね」

「『……ユリ』」


メルトの声は震えている。

対してユリは、穏やかに笑みを浮かべながら、ゆっくりと水槽に近付いていく。


「ねぇ、メルト。わたしは……あなたが、人間だなんて知らなかった。夜中でもいつでも、センサーに反応があれば教えてくれたよね」

「『……』」

「わたしが連合に移った夜もそうだったね。あの頃のあなた、いったい何歳?」


ユリは水槽のそばで停止する。その足元にはアザレアが転がっていた。セーラー服を纏う傷だらけの少女は僕に背を向けて、ユリとメルトの方に向いて横たわっている。


アザレアの瞳は姉と水槽の少女を映しているのか、それとも閉じられているのか。僕の位置からは判別することができない。


ユリはいたずらっぽく笑いながら、ぴと、とメルトの白い頬に手を触れる。


「若いうちから夜更かしするとお肌に悪いよ? それとも――」


冗談交じりの口調でからかい、そして、一段低い声で水槽の中の少女に問いかける。


「――あなたは歳を取らないのかな?」


メルトは頬に触れるユリの手に、自分の手を重ねる。冷たい、と思う。


「『……』」


すべてを見てきた。見たくもないものを含めて、すべてを見てきた。すべてを見てきたメルトはどこまでも見るで、こうしてユリに触れたこともなかった。そしてあの夜、去っていく彼女を引き止めることもできなかった。


全知無能。


天才と呼ばれるユリは迷わない。揺るがない。由縁も動機もなく現れて、信じる真実を追い求め、そこにないと思えば去っていき、こうして戻ってきて、壊して、何ひとつ変わらないように優しく笑う。その自由を、躊躇なき未知への跳躍を、誰よりも自らを確信するが故の無我を。


「『……ユリ、が』」

「ん?」

「『』」


世界から隔離された、水槽という箱庭。そこから剥き出しになったメルトは、自覚することなくそのな心を吐露していた。メルトは自分自身でそれに驚く。そうか。ユリのことが、うらやましいのだ。


……でも。


「『ユリは、どうしてこんなことをするの?』」


それもまた、彼女の偽らざる本心であった。


やるべきことをやるだけのユリは、その目的を追い求める過程において何を壊そうとも、微塵も意に介さない。すべてに優しいということは、すべてに無関心であり、すべてに無慈悲であることをも意味する。


ひとの倫理。そうあるべきという期待。誰もが前提として理解していると仮定され、合意と恐怖と祈りのもとに蓋を閉じられた常識という箱。ユリはその箱を無慈悲に、無邪気に、無意味に……開け放ってしまう。


世界から祝福された天賦の才を持ちながら、ユリは世界を蹂躙する。


世間一般の常識をほとんど持たないメルトから見ても、ゆりの行動には一貫性や信念、そして自らの行動を制御するブレーキといったものが存在していないことがわかる。


「……ふふ。妹みたいなことを言うのね」


ユリはメルトの問いかけに、足元のアザレアいもうとに眼を向けないまま応える。


「でも、あなたは妹――小春こはるとは違う。あなたは、被害者じゃない」

「『……アザレアと……違っ……え?』」


問いかけるように目を見開いて、水槽の少女はユリを見上げる。


ユリは両手を広げて、瓦礫にまみれた部屋を示した。床に倒れたアザレアを示した。いとも簡単に失われた人間の血と命を示した。台無しにされた、ここにあった【ハイゼンベルク】のすべてを示した。


そのすべてをたったひとりで成し遂げた無我の天才は、身をかがめてメルトの瞳を真正面から覗き込み、告げる。


「あなたのせいでなったの、わかる?」



◆◆◆◆◆



「『私、の……? ちがう、私は何も……何もしてない』」

「そう。よ、メルト」


メルトの声は戸惑いと否定に震えている。それを受け入れながら、ユリはもがく昆虫に虫ピンを打つように、、と逃げ道に回り込む。


「それまでまるで力を発現していなかった六郷さんが、並行世界リバースに入った最初の夜。そこでたったひとつ、世界へのを行った――そうですよね、六郷さん」


こちらを振り返って、ユリは僕に同意を求める。


「か、……干渉?」


突如話題の中心に巻き込まれた僕は、人形のように、その単語をオウム返しに聞き返す。


「花です。六郷さん、あなたは最初の夜、一房の花を摘み取りました」

「――あ」

「それを組織が、いえ、組織のセンサーであるメルトが……検知しないわけがなかった」


六郷夜介が ATPI なしに「裏側」へ入る力を発現させたあと、ユリは固唾を呑んでその時を待った。しかし――【ハイゼンベルク】に動きはなかった。ユリは、とうぜん六郷夜介のフレーバーの発現を検知しているはずなのに、何も動こうとしない古巣を訝しんだ。


情報がないことが情報になる。何もしないことが、きっかけとなる。


「蓋然性が高いのはふたつ。ひとつめ、六郷夜介が使う力は、何らかの理由でセンサーによる検知が不可能である。ふたつめ、ハイゼンベルクの監視システム【メルト】にはファジーな揺らぎがある――

「『……』」

「ひとつめの可能性は、わたしが古本屋で六郷さんを襲撃させた際に棄却されることになります。襲撃に対する水仙おじいちゃんの対応は、あまりに早すぎました。きっと近くで待機させていたんでしょう?」

「『それは……』」

「つまり、あなたは六郷さんのフレーバーの発現を検知することができていた。六郷の血による並行世界リバースへの移動も、決して【メルト】センサーの例外ではなかった」


そこでユリは、残るふたつめの可能性を採択する。ハイゼンベルクの誇るセンサー【メルト】が、人間であると確信する。


その仮定に基づけば、ひとつのロジックが意味を持つことになる。


「小春が、さっきあなたの呼んだ……【アザレア】という名を持つように。あのおじいちゃんが【水仙】と、そしてわたしが【ユリ】と呼ばれていたように……この組織では、エージェントに有毒花の名前を与えるよね」

「『じゃあ、ユリは、私の名前が……』」

「ええ。【ジギタリスDigitalisメルトネンシスMertonensis】――最初の夜、六郷さんが摘んだ紫の花の名前。そして、あなたに与えられた名前」


彼女自身の名を持つ花が、優しく摘み取られる。それを検知したメルトは湧きあがる好奇心を抑えることができなかった。システムは好奇心を抱かない。それはゼロイチで作用して、同じ入力に対して同じ出力を行うことが期待される。だからメルトネンシスと名付けられたその存在は……


人間らしいシステムではなく、システムであろうとする人間なのだと。

やるべきことをやっているだけの、生身の少女であるのだと。


「メルトがシステムではなく人間だと気付いた時、わたしの頭の中で、分断されていたドットが接続された感覚がありました」


ユリの独白を聞きながら、六郷夜介は 14 年前の出来事を思い出していた。ファイナルファンタジーのデータが「先生」の残した水準を超えた時。頭の中でと、鍵が空いたような音がしたのだ。


ユリが「先生」――つまり比良坂ひらさかさとしの【ストレンジ】による忘却を打ち破ることができたのも、ほとんど僥倖に近かった。打破のトリガーが引かれたのは、組織の【メルト】はシステムではなく異能を持つ生身の人間である、とユリが確信したその瞬間であった。


フレーバーの「時空間的な影響範囲」と「与える影響の強さ」はトレードオフの関係にある。何のリスクも制約もなく全人類の思考を操作することができるのなら、比良坂という男は既にそうしているだろう。

比良坂の【ストレンジ】は、人間の認識をよりアグレッシブに操作しようとすればするほど、その影響範囲を制限するとともに、影響の継続を担保するために「制約」を課さねばならない。


比良坂がユリに仕掛けた【ストレンジ】は、ほとんど発狂しそうなほど細かなに支えられていた。


「比良坂先生がわたしに仕掛けた認識操作。その前提条件のひとつが、メルト、あなたという監視システムが十全に機能して、その役割を果たし続けていることだった。そのためには【メルト】が無謬むびゅうの監視システムであると、わたしが信じ続けている必要があったの」


天から異才を与えられた人間は、その使命を十全に果たす限りにおいて存在を許されている。


ユリはそう信じる。


「やるべきことをやらないから、こうなるのよ」

「『……う……あ……』」


ユリは、どんな口調で何を喋って、何をしてあげればその人に好意を抱かれるか、よく理解していた。裏を返せば、彼女がそう意図しさえすれば、相手の心を効果的に折ることもできる。ユリは優しい残虐性を以て、メルトネンシスの過ちを白日の下に晒していた。


コンクリートの匂いがする。砕けた壁が舞い上がらせていた粉塵は、既に着席を終えている。ヴン――と響く蛍光灯の鳴動と、半壊した黒い機器の立てる耳障りなノイズがその空間を満たしていた。


メルトはその瞳を揺らす。どこかに向けて伸ばされかけた手は力なく垂れ、水槽にぱしゃんと落ちた。粉塵が濡れた肌にまとわりつく、不愉快な感覚。洗いたい。洗い流してしまいたい。いまも間違いも流してしまって、やり直したい。


「『だって……私、敵以外からの干渉なんて初めてで……報告しなくても、大丈夫かもって』」

「うん。わかるよ」


ユリはメルトの揺らぎを肯定する。


監視システムとして長い年月を過ごしてきたメルトは、秘められた好奇心の赴くままに、その生涯ではじめてセンサーとしての役割を怠った。


そこにあるのは、これをやったらどうなっちゃうんだろう? という、背徳に彩られた好奇心。捕らえた羽虫を分解する、幼い子供の瞳が映すもの。


「予測できないこと、おもしろいことに飢えていたんでしょう? だから――」


一を聞いて十を知り、頭脳が遂行する高精度のシミュレーションを駆使しながら、ただやるべきことをやる。そうして生き続けてきたユリは、ユリ自身がが故に、メルトのを誰よりも理解できた。


まるで彼女ユリ自身の胸がじわりと針で刺し貫かれていくように、全知の孤独をありありと感じ取ることができた。


だからこそ、ユリはメルトに囁きかける。


「――あなたが悪いのよ、メルト」

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