第27話 変質
例のUファクターとかいう薬物は、保健室の中でも鍵つきの保管庫に入っていた。人間の能力を引き出して強化する薬らしい。副作用は無いのだろうか。
「神崎先生、お茶にしませんか? 今日は縞猫屋の羊羮があるんですよ」
「お、いいですね」
斎藤の誘いに俺は安堵した。
薬剤の処方の仕方や、書類の書き方を覚えるのに疲れてきたところだ。
ガラステーブルの前のソファーに座ると、斎藤が古風な茶碗に熱々の抹茶を注いだ。羊羮は甘過ぎないちょうどいい味だ。
「はあー。普通の保健室の仕事はないんですか? 生徒の怪我を診たり、生徒をベッドに寝かせたり」
「普通ですかー。悪魔が現れて以来、普通が難しくなりましてねー」
俺に合わせたのか、斉藤は語尾を間延びさせて答える。
授業をさぼって保健室に寝に来る生徒はいないらしい。
「皆、強くなって戦場に出たいそうですよ」
「もの好きですね。自分から死にに行くなんて」
「その感覚、分かりますよ。私も神崎先生と同世代ですから。悪魔が現れる前の平和な世界を覚えています。今の子供たちは、平和を知らないのですよ。生き残ることに必死で、保健室で寝る暇もないほど忙しい」
CESTは高給な就職先で、一定年齢まで勤めて退職すれば、残りの人生は働かずに生きていける。イズモの子供の半数はCESTを目指すらしい。
「……と、生徒が来ましたね。もう少し休憩したかったのですが」
呼び鈴が鳴って、斎藤は残念そうに席を立った。
俺もテーブルに茶碗を置いて後に続く。
保健室に入ってきたのは、青白い顔をした男子生徒だった。
受付用紙には「小畑」とある。彼の名前らしい。
「抗EVEL鎮静剤を処方してください。クラウドタワーでもらったのを使いきってしまって」
「ふむ……」
斎藤はタブレットで小畑の情報を検索した。
患者のカルテを参照している。
「予定よりずいぶん早いですね。朝晩に一カプセルずつ飲む指示が出ていますが」
「それじゃ効かないんです!」
小畑は感情的に声を荒げた。
「イライラして、彼女に当たりそうになって……!」
「それはイービルウイルスに感染した際の初期症状です。薬で苦しみを和らげることは可能ですが、あなた自身が自覚して感情をコントロールする必要があります」
斎藤は注射の準備をしながら説明した。
「破壊的な衝動に負け、大切な誰かを傷つけ……
苦しそうにする男子生徒に、腕を差し出させると、薬剤を注射する。小畑の呼吸が穏やかになった。斎藤は、数個のカプセルを袋に入れて手渡す。
小畑は薬の入った袋を持って保健室を出ていった。
初日だからか、夕方には保健室から解放された。
同じく初日の授業が終わったハルと共に、俺は仮の住まいになったイズモCESTのマンションに帰ってきた。
「ふぃー、疲れた」
ベッドに身を投げ出すと、何故か腹の上にハルが乗ってくる。
華奢で色白な美少女に上に乗られると、思考がそっち方向に行きそうになるが、ハルはたぶんそういう目的で行動している訳ではない。
「重い。何をするんだよ」
「お前にくっつくと落ち着く。大人しく私の椅子になっていろ」
もうちょっと表現に色気があれば、例えば「こうしていると落ち着くんだ。動かないで」と耳元で囁かれでもしたら、俺も多少はどきどきすると思う。
しかしハルの行動は子供じみていて、そんな気持ちにはなれない。
とはいえハルの丸みを帯びた尻と滑らかな太ももは、それなりに見ごたえがあった。積極的に触りに行くほどの欲求は沸いてこないが、腹の上にいる彼女の体温は悪くない感触だ。言うほど重くもないし。
ハルの好きにさせながら、俺は天井を見上げる。
「なあハル、お前、人を殺したことはあるか?」
昼間に会った小畑のことが何となく気になっていた。
ハルの答えは予測できる。
「人を殺したこと……あるぞ。命令で感染者の処分をした」
「自分の意思で、殺したいと思って殺したことは?」
目を閉じて、続けて聞く。ハルは黙りこんだ。
「無い……」
だろうな。殺していれば完全な
ハルは身体こそ悪魔寄りだが、中身は人間だった。
なら、俺は?
「……優は、あるのか?」
少し沈黙した後、ためらいがちにハルが問いかけてくる。
「あるよ」
俺は疑問を肯定する。
それこそが同じ半魔でも、俺とハルを分ける決定的な違いだった。
仲間と別れ、放棄都市・東京で生活することを決断させた理由。
さて、俺は人間なのか、悪魔なのか。
……私を食べて、優くん。
思い出の中で、痩せぎみの黒髪の少女が、俺の頬に手を伸ばす。
俺は首を横に振る。
彼女と過ごす時間が大切だったから。
失いたくなかったから。
けれど俺の中の
今も俺の中にいるのか……
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