ファウナの庭-外伝-

白武士道

第1話 月読の花(前編)

「ミラン君、あそこ! あそこに避難しましょ!」

「わかった!」

 ある夏の日のことである。

 生態多様性地域調査――その土地の植物分布状況を調べるため、森の中に入ったミランとフローラを驟雨しゅううが襲った。

 高温多湿である大平原では特段、珍しくもない光景。いわゆる夏の風物詩だ。

 すぐに降り止むと経験上の理解はあるものの、それでも瞬間的な降水量は馬鹿にできない。数分も佇んでいれば全身ずぶ濡れになってしまう勢い。

 二人が大慌てで雨宿りができそうな場所を探していると、雨宿りにはおあつらえ向きの一本の樹を見つけた。ひょろりとした細木ではあるが、それだけで傘として代用できそうな大きな葉っぱが何枚も噴水のように伸びている。

 その下にばたばたと逃げ込んだ二人は、その陰が外見通りに傘の役目を果たしてくれていると知ると、揃って安堵を息を吐いた。

「最短距離を走ったつもりだったけど、結構濡れちゃったわね」

 フローラは左右で束ねた綺麗な銀髪を鬱陶しげに絞った。毛先からぽたぽたと滴が垂れる。雨が降り始めたのと同時に走り出し、ここに辿り着くまで数分。たったそれだけの時間で、この有様だ。雨足の強さは推して知れる。

「だな。まあ、気温は高いし、雨が上がればすぐに乾くだろう」

「それに期待するわ……よっと」

 応えながら、フローラがおもむろに服を脱ぎだした。

 国家賢人に支給される法衣は上下一体型の貫頭衣に近い形状をしている。それを脱ぐということは、つまり――

「ちょ、お前!」

 ミランは泡食って顔を逸らした。大事な部分は下着で隠されているものの、いきなり裸になったようなものだ。

「なによ、こうして絞ったほうが早いでしょ」

 対するフローラは臆面もない。

「……恥じらいというものはないのか?」

「体を冷やすと風邪ひくでしょ。夏風邪は厄介よ」

「そうだけど、やり方ってもんがだな……」

「別に見られて恥ずかしい体はしてないつもりよ。それに、別に見られて困る相手でもないしね。だいたい、この程度で恥ずかしがっているようなら、あなたに下着なんか洗わせてないわよ……っと」

 淡々とした表情でフローラは法衣を絞り始める。

 フローラは合理性の女だとミランは常々思う。自身がすべきと感じた行動に私情を挟むことなく、効率だけを追求する。彼女の専門分野にしてもそうだ。植物学を専攻しているものの、それは彼女の目的と自身の適性が合致した結果でしかない。ファウナは研究することそのものが目的だが、フローラからすれば研究はあくまで成果をもたらすための手段に過ぎないのである。

 だが、感情が冷め切っているかというと、それも違う。でなければ、ファウナを連れ戻すために、わざわざこんな辺境くんだりまで足を運ばないだろう。あくまで思考の方向性の問題。

 とはいえ、こうも弄ばれては男の沽券に関わる。いいだろう、そこまで言うなら見てやろうじゃないか、とミランは意を決して視線を戻し――下着の中に窮屈そうに押し込められた豊満な双丘と交差する。

「あら、わかる? 実はまた胸が大きくなったのよ。ここでの食事は動物性蛋白質が多いからかしらね」

 女は視線に敏いもの。フローラはミランがどこを見ているのかを瞬時に把握し、真紅の光彩に悪戯っぽい輝きを浮かべた。

 やめておこう。張り合うだけ、こっちが疲れる。

「……早くしろよ」

 ミランは観念したように目を閉じた。いしし、と邪な声が聞こえる。

 暗い視界の中で水気を絞る音、皺を伸ばす音、衣擦れの音が響く。すぐそこで雨が地面を激しく叩いているというのに、どうして聞き取れてしまうのか。それだけ意識しているということなのだろうか。

「もう良いわよ」

「……本当か?」

「本当よ。なに疑っているのよ」

 ことあるごとにからかわれれば疑いたくもなる。そう内心で呟きながら、ミランは瞼を開いた。

 宣言通り、フローラはちゃんと法衣を身に着けている。だが、湿り気の残る法衣は彼女の肌に張り付き、体の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。加えて、もともとが生地が白いせいか、肌に触れている部分がうっすらと透けており、かえって煽情的に見える。はっきり言って、全然良くなかった。

「しょうがないでしょ。これくらい我慢しなさいな」

 手作業で完全に脱水するのは不可能というもの。責めるのはお門違いだ。ミランもそこは口を噤む。

「あ、ミラン君。肩が濡れてるじゃない。ほら、もっとこっちに来なさいよ」

「……ここでいいよ」

「いいから、来なさいって」

 ぐい、フローラがミランの腕を引っ張った。二人の距離が詰まる。肩が触れるか触れないかの絶妙さで。生活を共にしていても、これほど近くに寄り添ったことはない。ミランはなんともむず痒い気持ちを抱く。

 会話がなくなると、途端に雨の音が大きくなった気がした。

 無言の時間が続くのはどうにも座りが悪い。こういう時、世の男たちはどんな話をするのだろう。ミランは特殊な出自故にそういった常識を持たなかった。

「……ファウナは洗濯物を取り込んでくれているだろうか」

 どうにか捻り出した話題が、それだ。

「筋金入りの主夫ね」

 もうちょっと気の利いた話題はないのか、と不満そうなフローラの声。

「大丈夫でしょ。ざあざあ降りだもの。さすがに気づく……あ、そうでもないか。あの子、集中すると周りが見えなくなることあるし」

「そうなのか?」

「大図書館で文献を調べてた時だったかな。本を積み立てて壁を作ったり、下着の留め具を外したり、いろいろ悪戯したんだけど全然気づかなくて。まあ、その後で烈火のごとく怒られたけど。まあ、あの件で喧嘩する前までは、そんな感じでよくじゃれ合ってたのよ」

「……お前のせいかもな」

「は? なにが?」

 急な話題転換に、フローラが眉をひそめる。

「この雨だよ。暑さに弱いお前が、珍しく生態調査に乗り出すから」

「失礼ね。理由ならちゃんとあるわよ。ほら、この間の渡り竜。あれよ、あれ」

 少し前、納涼のために湖へ行った時、渡り竜と遭遇する事件があった。ミランにとっては事件と呼べるほどのものではなかったが。

「それが、お前のやる気とどう繋がるんだ?」

 生き物大好きのファウナじゃあるまいし、とミランの瞳が告げる。

「んー、ちょっと長いけど、聞く?」

 長いなら聞きたくない……と言いたいが、このまま雨が上がるまで無言で過ごすのを回避できるなら大歓迎だ。ミランは頷いた。



◆◇◇◇



「現行の博物学において、大平原の植物の半分くらいは渡り鳥によって海の外からもたらされたものだと考えられているの」

「へえ、そうなのか」

「渡り鳥が食べた向こうの植物の種子が、糞と一緒に排泄されて、この地で芽吹いたってことね。それで、竜も渡りを行う以上、何らかの種子を運んでいる可能性がある。ここまでは大丈夫?」

 おう、と相槌。

 竜は生粋の肉食で、木の実を食べることはないのだが、肉食動物というのは往々にして獲物の内臓から食べるもの。獲物である草食動物の内臓から竜の腹の中に種が混入する可能性もゼロではないだろう。

「結構。で、あの子の排泄物を直接調べることができれば、どの種が海外からもたらされたものか特定できると思ったわけよ」

「……お前、あいつの糞を探してたのか?」

「糞も、よ。ちゃんと植物の分布調査もしてたってば。それで、もたらされた植物の種類がわかれば、本来の生息圏――海の外の環境がある程度予測できる。どんな気候なのか、どんな生物が棲んでいるのかとかね。生態系の根幹は植物相だから。ほら、食草ってあるでしょ。蝶は決められた種類の葉っぱしか食べないっていう、あれ。まあ、そのあたりはファウナの専門だけど」

 そこまで聞いて、ミランの脳裏に一つ疑問が生じた。

「だが、渡ってきた植物がここで育つなら、海の向こうとやらはここと似たような環境なんじゃないのか。そうじゃなければ芽吹かないだろう?」

「そうとも言い切れなのよ。なぜなら、生き物は環境に適応しようとするからね。ミラン君の言うとおり、運ばれた種の中には芽吹かずに死に絶えるものもあったと思う。でも、それと同じくらいこの土地に適応して芽吹いた種もある。そうやって生き残った種同士が掛け合わさって、よりこの大地に適応した子孫を残していく。すると結局、現代まで生き残ったものはもはや原種とは違う植物なっちゃっているわけ。だから、海の外の陸地の環境が大平原と同じとは限らないの」

 自然選択ってやつね、とフローラは呟く。

「なるほどな。それで、海の外の世界を知ってどうするんだ?」

 ミランが尋ねると、フローラの顔がわずかに曇った。

「……〈大戦〉が終わった今、次に備えるべきは人口増よ。人口が増えれば、それに比例した食糧を確保する必要がある。そのためには農地はどんどん広げなくちゃならないし、住居のための土地も必要。最終的に土地が足りなくなれば、海外進出も視野に入れる必要があるわけ。ま、私たちの世代では杞憂でしょうけど、未来のための情報的な備えってこと」

 ミランはフローラの意図を理解した。

 彼女の理想は戦争の根絶。恒久的な平和の実現だ。〈大戦〉という人類史未曽有の大戦争を終え、もたらされた泰平の世を維持し続ける。そして、『来るその後』に備えるのは国家賢人としての高い自負の表れだ。

 それにしても、海の外の世界ときた。内陸地であるレスニア王国の、さらに辺境に縛られたミランでは想像することさえ困難だ。ましてや、この広い大平原が人間で溢れ返るなど。国家賢人たちはどれだけ先のことを見越しているのだろうか。

「いいのよ、ミラン君はそんなこと考えなくて」

 難しい顔をしているミランに、フローラが告げる。

「……どうせ、俺は読み書きもできない馬鹿だよ」

 ふてくされたような返事に、あ、とフローラは声を漏らした。

「違うの。気に障ったのならごめんなさい。あなたは、あなたのままでいてほしいのよ。あなたの生き方はとても尊いものだから、それを失ってほしくないだけ」

 フローラは今でも覚えている。

 ミランという少年の在り方に触れた、蛍舞う一夜。

 人間は自然の理から大きく外れた存在。自然と決別する代わりに地上での支配権を手に入れ繁栄した、本来の在り様を失った生き物だ。

 でも、ミランは違った。文明の波に飲み込まれることなく、現代まで生き残った古の狩人。自然と合一を果たすことのできる数少ない『原初の人間』。

 誰もが彼のように在った時代はとうの昔に終わった。だが、それは彼らのような生き方が間違っていたからではない。文明の発展によって、強く在れなくとも生き残れるようになっただけだ。

 しかし、文明の輝きが強ければ強いほど、彼らのように自然側に属する人々は影に飲み込まれていく。そして、文明側に属する人々は彼らのような存在がいたことさえ忘れ去ってしまう。

 それでもいいと、彼は言うだろう。そんなものだと、彼は笑うだろう。

 フローラは過去も、憎悪も、全てを受け止めて、なお今を在りのままに生きる彼の姿を尊いと感じてしまった。それが本当の人間の強さなのだと、忘れていた大切なものを思い出させてくれた。

 だから、彼を嘲ることだけは決して――。

「――冗談だよ。俺の器は、俺が一番知っているさ」

 そう言って、ミランは笑った。優しい笑みだった。

「……反則よ」

 フローラは頬をうっすらと赤く染めた。

 普段は無愛想なのに、笑うと不思議な愛嬌が出るのだ、この少年は。

「なにが?」

「反則だって言っているの、そういうの。まったく、なんで私ばっかり……」

 ぷいとそっぽを向いて、背後の樹に寄りかかる。

「――お?」

 すると、樹木がぐうっと後ろに傾いた。じゃーと勢いよく水が零れ落ちる。葉に貯まった雨水が傾斜で一気に落ちたのだろう。

 まさかの事態に、慌ててフローラが体勢を起こす。

「……お前、まさか」

「その先は言わせないわよ」

 フローラは半眼でミランを黙らせる。

「お前でも体重を気にするのか」

「でもってなによ、でもって。私だって乙女なんですからね。それにしても……」

 フローラは天然のをしげしげと観察する。

 高さは三間ほど。直径は二尺もない。全体的にひょろ長い印象を受けるが、通常の樹木であれば、このくらいの太さであっても小柄なフローラが寄りかかった程度ではびくともしないはずだ。

 特徴的なのは、やはり大きすぎる葉身か。改めて測ってみると、一枚あたり半畳ほどの面積がある。これほど巨大な葉をつける植物はあまり見かけない。

 さらにフローラはその中に楕円状に膨らんだ葉身が混じっているのを見つけた。形状から察するに蕾だろう。開花時期が近いのかもしれない。

「ふむ」

 フローラが両手でぐっと力を加えると、幹がわずかに傾いた。釣られた蕾がゆらゆら揺れる。

「ずいぶんしなるわね。竹みたいに中が空洞になっているのかしら。ということは形成層が存在しない? 幹じゃなくて茎ってこと? だとすると、これは樹木じゃなくて草本、つまり、草ね」

「これが草だって?」

 ミランが目を剥く。太さといい、形状といい、どこをどう見ても樹だ。少なくとも彼の常識の範疇においては。

「草って……こんな感じで、小さくて、細くて、一年ちょっとで枯れるやつのことなんじゃないのか?」

 ミランは足元に茂っている雑草を指さす。

「その認識でも間違ってないけど、私たちは大きさでは区別しないわね。だって、独活うどや竹だって樹に負けないくらい高く伸びるけど、それでも樹って感じじゃないでしょ?」

「あ、そうか」

「樹と草の線引きは曖昧だけど、現行の植物学では、形成層があって、年々増えていくものを樹と定義しているわ。ほら、樹には年輪があるでしょ。あの模様は形成層が重なっていったものなの。逆に形成層がなくて、ある程度成長するとそれ以上太くならないのが草。樹は年々成長して大きくなるけど、草は数年で成長を終えて枯れるという印象の大元は、形成層の有無なのよ」

「じゃあ、こいつはこの間のカネオトシみたいな異常成長じゃなくて……」

「もともとこの大きさまで育つ草ってこと」

「――すごいな」

 ミラン自身、何かすごいのかよく分かっていなかった。だが、その言葉には自然に対する純粋な敬意が込められている。それは信仰だ。現代人が失いつつある古の信仰の残滓。

 を嬉しげに見上げるその横顔を、フローラは眩しいと感じた。

「あなた今、ファウナみたいな顔しているわよ」

「そ、そうか?」

「そうよ」

 本当に似た者同士ね、と小さく呟く。

「それにしても、、どっかで見たことがある気がするのよね……さて、なんだったかしら……」

 胸裏に生じた小さな疎外感を隠すように、フローラは腕を組んで思索に耽った。雨が上がった後も、変わらぬ姿勢のまま時が過ぎる。

 集中すると周りが見えなくなるのは、フローラも同じのようだった。


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