第23話 家出

 イクコとダチアはラブホテルに入っていた。同じ宿泊費用でもビジネスホテルに比べると広く、防音性も優れているため、県警から匿うにはうってつけの場所だという判断だった。

 シャワーの音を背景に、イクコはダブルベッドに腰掛けて傷の手当てをしていた。先ほどダチアに填めてもらった右肩が酷く痛むため、作業は遅々として進まない。

 すりむいた肘を消毒しながらふとテーブルの上の鏡を見ると、青あざをガーゼで覆い、額に包帯を巻いた痛々しい自分の姿があった。


「ひどい顔」

 姉妹喧嘩はこれまでも何度かしたが、能力を用いた殴り合いは初めてだった。

「……ばかなことしちゃったな」

 ダチアの言う通り愚かなことをしてしまった。イクコの能力は近接戦闘に向いていないが、そういう意味ではない。同じダチアを守るにせよ、もっと穏便な方法というものがあったはずだった。冷静さを欠いて戦闘行為に持ち掛けたのはイクコ本人だった。

「ぼくらしくないや」

「あいつらしくない な」

 バスタオル姿のダチアが出てきた。仄かに湯気が立っており、しっとりと塗れた前髪の下にくる頬は先ほどよりも血色がよくなっている。


「シャワー……先にいただいたぞ」

「それはいいけど、"あいつらしくない"って?」

「アケビのことだ」

 ダチアは冷蔵庫の中に入っていたミネラルウォーターを取り出し、一口つけてから続けた。

「わたしは既に二度 あ あいつと戦っている。戦闘技術は未熟……一般市民のそれと変わらないが 躊躇いのなさに関してはとても素人とは思えん」

 そう言うと彼女は何かをイクコの手元に放り投げてきた。受け取ると、それがつや消しされた黒い拳銃であることが分かる。


「な、なにこれ」

「トイガン だ」

「だよね……」

「うそ だ。ほ 本物の拳銃だ。脱獄する時にくすねてきた」

「ちょっとお!」

 思わずベッドの上に放り投げてしまった。ダチアは拳銃には目も呉れず、イクコを見つめていた。

「おまえ そ それを人に向けて撃てるか?」

「え、無理に決まってるでしょ」

「おまえやアケビの命を狙っている敵でもか?」

「それは……」

 逡巡した。命のやり取りを前提とするならば、悠長なことは言ってられない。だがそれを手に取り、構え、引き金を引く行為を想像すると、それだけで気持ちが竦んだ。答えられずにいるとおもむろにダチアが口を開く。


「そうだ 撃てない。撃てないのが当然だ。引き金は軽いが "それ"がもたらす結果はおそろしく重い。人に向けて撃つためには、いくつかのステップを超える訓練を要する」

 ダチアは無防備な姿のまま、ベッドの上にあがる。拳銃を拾い、両手に持ち、イクコに向けてきた。トリガーに指はかかっていないが、銃口が目の前にあるという事実がイクコを緊張させる。

「わたしは 撃てる。"そう"訓練されたからな。ここでおまえを亡き者にすることも 簡単にできる」

 無機質な目で見つめられ、冷や汗が滲む。彼女の言葉には説得力があった。初めて出会った時、ダチアは躊躇いなくアケビに引き金を引いたからだ。

「だが イクコ おまえには無理だ できなくて当然……"正しい"のだ」

 ダチアは銃口をおろした。安全装置をかけて、胸にきつく撒いているバスタオルに差し込む。"支え"が心もとないので重みでずり落ちそうなのが心配だった。


「だがあいつは アケビは違う。あいつは"撃てる" た 躊躇いなく撃つだろう。あれは化け物だ」

「…………」

 今となっては庇う言葉もなかった。イクコが仕掛けたこととは言え、あそこまで徹底的に痛めつけてくるとは思わなかったからだ。アケビにとってのイクコは何なのか、いよいよ分からなくなっていた。

「だから 先ほどのあいつはあいつらしくなかった。ど ど、どうしてあんな 手加減を」

「え?」

 聞き返すと、ダチアは目を眇めた。そんなこともわからないのかと言いたげな顔だった。

「気づいてなかったのか?どこまでも"しあわせ"な頭だ。 あ あいつが本気だったら い、今頃おまえは死んでいるぞ」

 とてもそうは思えなかった。確かに最後はわざと外すような真似をしたが、それまでの攻撃はどれもフルパワーで振るわれていた。

「お 思い出せ。あいつはわたしに"現党首様の処刑映像"を流した。自分が見聞きしたことや、体験した物事を送り込めるなら……お おまえに"それ"をしない理由がない」

「あ……」

 指摘されたとおりだった。アケビのL.M.Hは思念を読んで殴るだけの能力ではない。思念波動を直接叩き込むことが、本来の使い方だった。


「最後にわたしを見逃したのも解せん あ あれではまるで臆したズブの素人だ。おまえのことを 大事な妹とか言っていたな」

「……双子なの。一応アケビがおねえちゃんで、ぼくが妹ってことになってる」

 そう告げると、ダチアはイクコの頭頂からつま先までまじまじと眺めてきた。

「に 似てないな。髪型と服を変えたらもう別人じゃないか」

「う、うるさいなあ!」

「だが そうか。ならばおまえは アケビにとっての"楔"なんだろうな」

「楔?」

 日常会話ではあまり聞き慣れない言葉を復唱する。

「"それ"があるから 奴のような化け物でも日常を送れるのだ "それ"がなくなれば たちどころに破綻するだろう。 わ わたしやき、桐生のように」

 イクコの存在がアケビを日常に繋ぎとめているということを言いたいようだった。満更でもないが、あまり実感を持てない言葉だった。


「な なあ イクコ。やはりわたしのことは 捨て置くべきだ。あいつがどうなろうとわたしは構わんが わたしのような破綻者になるのは おまえにとっては不本意だろう」

「……わからないの」

 最初はか細いつぶやきだった。

「ダチアはぼくに帰るべき場所があるって言ったけど……ぼくにはその実感がないの」

「実感 か」

「おねえちゃんがぼくをどう思っているのかとか……それ以前にぼく自身の気持ちもわからない。あの戦いでおねえちゃんが死にかけて……あんなこと二度ともう御免だって思っているはずなのに」

 目蓋を閉じれば、今でもすぐに浮かび上がってくる。"あの目"が自分に向けられる光景。

「あの目を見て、ぼくはすごく"嬉しかった"。でも同時に、すごく"寂しかった"」

 思えばあの売り言葉に買い言葉を仕掛けたのも、なるべくその時間を長引かせようとしていたのかもしれない。そう考えた時に、イクコはハッとした。またひとつ、暗闇からあふれ出た感情が照らされたのだ。


「──ぼくが"置いて行かれてる"。ぼくじゃなくて、居場所おねえちゃんがぼくから離れて行っているんだ」


 どこへ。という問いに対する答えは出ていない。だがそれに答えたのは意外なことにダチアだった。

「なるほど "極点"か」

「極点……って、サミュエルが言ってたあの?」

「わたしも あまり詳しくはない。が、行きつくところまで行った者が最後に見る景色。"決意"を貫き通した果てがそうだとすれば……あいつの異常性も 納得はできる」

 ダチアは髪を拭いていたタオルを放り投げた。

「しかしまさかとは思うが "そんなこと"とわたしを重ね合わせて た 助けようなどと思ったのか?」

 居場所のないダチアと、居場所が遠のいていくイクコ。確かに二人の立場は似ているともいえなくはなかった。自分と重ね合わせたダチアを見捨てることは、即ち自分もまたアケビのことを諦めるということに繋がると考えたのが、あの焦燥感の源泉なのかもしれない。

「……そうだとしたら、そうなんだと思う」

「あ 呆れたぞ。やはりおまえは 愚か者だ」


 ダチアはベッドの上に立ち上がり、身体に巻いていたバスタオルをするりと落とした。生まれたままの姿が眼前に広がる。

「──え」

 あちこちに火傷痕や手術痕が残る痛ましい身体だった。痩せていて、起伏はほとんどない。しかし透き通るような白い肌はきめ細かく、イクコは見惚れてしまっている自分に気づいて生唾を呑んだ。

「ダ、ダチア?」

「ど どうした?こんなところにつれてきたのは お お、おまえだ。わたしも人並みに 恩義を感じる心くらいは ある」

 ゆっくりと迫りくるダチアを前にたじろいでしまう。

「ま、待って!ぼくはそんなつもりで連れてきたんじゃ──」

「き きにするな。このからだは み 見た目よりもずっと年老いている わたしの の 能力は使っていると時の干渉すら受けなくなるからな だが "手ほどき"は受けているし "心得"もある。天国を見せて やれるぞ」


 ベッドから落ちてしまう。尻もちをついたまま後ろに下がろうとするが、背中に壁が当たった。

「違うの!ぼくはただダチアに生きていてほしくて!」

「生かしてどうする おまえの自己満足に生かされたわたしは "どこ"へ行けばいい?おまえと私を重ね合わせているのならば おまえがわたしの居場所になるのでは ないのか」

「そ、それは……」

 イクコは自己嫌悪に陥った。仮にダチアが生きることを選択したとして、イクコに取れる責任は何ひとつなかった。

 いつまでもこのホテルに留まるわけにもいかない。生涯を通して県警から匿えるかといえば、それは不可能だ。それどころか彼女に生きがいを与える事すら叶わないだろう。

 全てはイクコの自己満足でしかなかった。イクコは、自分がダチアの居場所にはなれないのだと思い知らされた。


「…………そういうことだ。わたしを見殺しにすることが おまえの居場所を手放すことには 繋がらない。それはおまえの"勘違い"だ」

「で、でも、ぼくは」

『ぶっはー!もうがまんできないねい!ああがまんできねえさ!』

 イクコの胸が喋った。正確には、イクコの胸の谷間に隠れている何者かが喋った。乳房をかきわけるように這い出てきたのは、ブラッドストーン型の喋るネクタイト。セペットだった。

「すり潰して《ジェミナイ・シーカー》!」

『ステイステーイ!やってる場合かよオイ!』

 シーカーが繰り出した手刀を全て躱したセペットは、ダチアの後ろに隠れた。

「な、なんであなたが此処に!」

『ふっふーん、アンタらが物騒な姉妹喧嘩してる間に、アケビからイクコに移ったんだぜ』

 得意げに飛び回るセペットを、ダチアは不思議そうに観察している。

「イ、イクコ こいつは」

「あ……ごめんね驚かせて。こいつはセペット。訳があってうちに匿ってたんだけど……」

「セ セペット?」

『ヒュウ、もしかして濡れ場だったかな?』

「とにかく服着て!」

 にわかに騒がしくなってきた。最早話し合いどころではない。


「セペット だと?ま まさか Z部の……《フル・ムーン》のセペットなの か」

『アーハン?アンタなんでオイラの能力を知ってんだ?』

 ダチアは動揺しているようだった。信じられないという気持ちと、微かな期待が入り混じったような薄笑みを湛えて、飛び回るセペットを目で追っていた。

「し しし信じられない。息災……ではないな なんだその有様は」

『アンタ誰だ?オイラは確かに女泣かせなナイスガイだがよう、生憎だがあんたのことは──』

「待ってセペット。もしかしたら、ダチアは」

 セペットのことを知っているかもしれない。イクコはなるべく言葉を選んで、諭すようにダチアへ語りかけた。

「聞いてダチア。セペットがどうしてこんな姿になっているかは、ぼくもセペット本人も知らない。セペットは記憶がないの。気が付いたらネクタイトになってたの」

『そういうことだぜ。ま、この身体も悪いことばっかじゃねいけどよう』

 セペットが速度を緩めた途端、ダチアは石の姿の彼をわしづかみにした。


「わ わたしだセペット!セセ セクリシュティのダチアだ!ティミショアラの犬ども相手に最後まで粘っただろう!」

『ぐ、ぐるじい……!なんだってんだよアンタはよう!オイラはあんたなんか知らねえぞ!』

 ダチアの手が緩んだ。その隙にセペットは抜けだし、イクコの髪に身を隠す。

「……そ そうか。……そう だな われわれの故郷は もう」

「ちょっとセペット、あなたねえ!」

『なんだよう!オイラが悪いってのかよう!』

 目線を彷徨わせるダチア。ショックを受けているのは目に見えていた。恐らくダチアはセペットのことを知っている。日本まで来て久々に出会えた旧友と過去を分かち合えなかった落胆は計り知れない。

 だが、イクコにはかける言葉がなかった。

「ダ、ダチア。とりあえず今日はもう寝よう?セペットもダチアと一緒に居たら思い出すかもしれないしさ。明日は早くから動かないと、県警もあちこち張り込んでるだろうし」

「…………」

 動かないダチアをなんとかベッドに寝かせる。


「それでセペット。どうしてあなたこっちに来たの?」

『どうしてはこっちの台詞だぜ!何喧嘩なんかしてんだよう!』

 イクコの目の前でセペットは怒りを表現するかのように小刻みに振動する。

『どうかしてるぜ、あの仲良し姉妹が能力使ってまでよう!アケビ今頃きっと泣いてるぜ!』

「……ああ、要はあなた、ぼくを連れ戻しにきたわけね」

 セペットにしては気が利いていると思った。だが、今それに応じるわけにはいかなかった。

「悪いけどぼくはまだ帰れないから」

『聞いてたよ!アンタ馬鹿だろ!見ず知らずの女のために命張って何になるんだ?』

「ちょっとセペット!」

 ダチアを一瞥する。横になったまま動かないダチアの表情を窺い知ることはできない。

「……とにかく、これはぼくの意志だから。邪魔する気なら本当にこの場ですり潰すからね」

『ご、強情なやつだぜ……』

 このホテルも明日には引き払う必要がある。イクコにはプランがあった。今、ダチアを追っているのは茨城県警。脱獄とあれば当然県警はその事実を隠蔽しているだろう。したがって他の管轄には頼れないはずだった。


 ダチアを県外に逃がす。それと同時に、セペットの過去も明らかにする。そのふたつを同時にこなせば、まだ活路はあるような気がした。

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