第七話 出発

 筋肉が軋む。丸太のような太さに岩を連想させる頑強な肌――その腕から水平に構えた槍にかけて、闘気を具現化した黄金の魔力が覆う。その型と迫力から、いつしか彼は『龍の腕』という二つ名で呼ばれるようになった。


 そこから放たれる一撃で屠ってきた相手は数知れず。大気を震わせるほどの圧迫感とは相反して、その初動は驚く程に緩やかで、しかし尽くを飲み込む一撃と成る。まるで地を食いながら進む黄金の龍。


 それに相対するは紅蓮の激流。炎熱の束がうねりながら地を這い、砂塵を巻き込みながら龍へと押し寄せる。


 龍と激流が衝突する。御伽話で龍が溺れるなんてことは有り得ないことである。貪食の龍が紅蓮に顔を埋めると、激流は見る見るうちに勢いを無くし、やがて燃え尽きた。


 そして龍の猛追――とはならなかった。激流の力も負けず劣らず凄まじいもので、優勢に見えた龍も実際は激流に飲まれて力を失い、そして同じく霧消した。


 ――かつて少年が見た頂上決戦を彷彿とさせる光景。しかしこれは夢ではなく現実。その証拠に彼らを囲むように歓声が湧き上がった。誰も彼もが興奮し、目を奪われる。そう、ここは闘技場である。その人群れの中、二人の少年はいた。


 再び龍の腕が哮る。その巨体からは想像もできない程の速さで大槍を扱く。彼が放つ乱れ突きは点というよりも面。一発一発が視界を削る大技である。道理を超えたとも思えるその絶技。しかしそれを相手取る初老の剣士もまた道理を超えていた。


 超高密度な金属音が響き渡る。剣士はその乱撃を全て受けきっていた。




 マレスが剣道場に所属してからおよそ一年。相変わらずマレスはウィタに挑んでは負けてを繰り返す日々を過ごしていた。


 そんなある日、ウィタの父でもある師範から『武の栄典』を観戦しないかとの誘いを受けた。十年刻みで行われる武の栄典。今年でマレスらはちょうど十歳である。勇者を目指す彼らがそこに立つのは最も早くて二十の時だ。


 予習がてらその空気に触れておくべきだろう、と。勿論マレスは即答。ウィタはマレスが同伴することに憂慮しつつも拒否するわけがなかった。




 『龍の腕』が更に踏み込む。体をねじり、左薙ぎの斬撃。老剣士はバックステップで避けるが、『龍の腕』は遠心力を利用して追撃を重ねる。受ければ次の一撃、避けてもその風圧で動きを奪われ、防御をしくじれば龍の餌食。攻撃は最大の防御とはこのことだ。


 八方塞がりの状況、老剣士は驚くことに前に出た。小細工なしの正面衝突――勿論それを可能にするのは確かな技術の賜物である――で無理やり相手を弾き飛ばす。尋常ではない一撃。 


「さて、十分盛り上がったかのう」


 老剣士は剣先を下ろし笑みを浮かべる。卑屈でもない、挑発的でもない、決戦の場に不釣り合いな


 白熱しているように見えた試合。その実、両者には埋めることのできない実力差があった。


「あんた、本当に性格がわりぃよ」


 苦笑いが溢れる。この場にいること自体が戦士としての誉れ。しかし、英雄都市ラナーヘイロ軍団長『龍の腕』、その男が全力を賭してもなお届かないのだ。


 だがそれは分かっていた。なぜならば、この既に髪の毛の色も落ちている年寄りが最強の象徴――勇者という地位に三十年間君臨してきた化け物であることを知っていたから。


 だから、全力で戦いながらも奥の手は見せなかった。機を窺って、ここぞという時まで取っておくつもりだった。しかし「十分盛り上がった」という言葉が意味する仕舞いの合図に抗わざるを得ない。


 『龍の腕』は槍を上段に構えて気を込める。空間が握り潰されるかのような圧力。黄金の闘気に混じって砂利が漂う。


「憤ッ!」


 龍の咆号。制御すら危ういその膨大なエネルギーの塊は、暴れ、地を食い散らかす。この試合で間違いなく最大の攻撃だ。


 龍が迫る。

 

 迎え撃つ老剣士は半身になって構え、ゆるりと剣を頭上に掲げた。灰色の炎が天を目指してゆらゆらと燃えている。


 恐ろしく静かだ。彼の周りだけが穏やかに、そして伝染するように闘技場全体までもが静寂に包まれた。


 剣先を龍の方へ合わせる。


「【一烟イツケムリ】」


 刹那、灰色の炎が水平方向に閃いた。順に龍が散り、男を貫く。


 決着。『龍の腕』は地に崩れた。


『勝者、アルドルト=ヘンリ!』


 審判とともに再び割れんばかりの歓声が飛び交うと、アルドルトはそれに答えるように慣れた風に観客へ手を振った。飄々としているがどこか威厳のある立ち居振る舞いはやはり三期も勇者を務めてきた者と言えよう。そしてまた十年間、勇者として世界を支えていくのだ。


 その勇姿を見て、ふたりの少年は口を揃えて言った。


「「僕(俺)は勇者になる!」」


 マレスは挑戦的に、ウィタは不満げに互いを睨み合った。


   *


「強く」


 海色の球体ガラスの中が眩い光が満ちる。


「次は弱く。もっと弱く」


 今度は消えかけの蝋燭のようにチラチラと瞬く。


「その中間くらいを維持して……まだ、まだよ」

「ぐぐ……」


 少年は難しそうな顔で魔力を込め、なんとか状態を保とうと光が揺れる。


「ど、どう!?」

「うん、いいんじゃないかしら。合格よ」

「っぷはぁー。やったー!」


 ガレミア家の庭園にふたりの少年少女は立っていた。


 道場がない時はこうしてガレミア家で魔法の特訓をするようになっていた。魔力が暴走して大切な人を傷つけそうになったあの日を繰り返さぬために、今まで魔力の出力をコントロールできるよう務めてきた。


 そして特訓を初めて一年。ようやく合格を貰うことができた。


 ちなみにマレスが支えているこの杖は魔力量を測るための道具である。柄のむき出しになっている部分に魔力を込めると、注がれた魔力量に応じて上部に付いている球体ガラスの中を変換された光が満たす仕組みだ。


「それじゃ、ようやく本格的に魔法の練習が出来るわね!」

「うげぇ……」


 ガレミアは無垢な笑顔で告げた。


   *


「ハァ……ハァ……やった」

「……っ」


 道着姿のマレスとウィタ。最早名物となった彼らの試合稽古がちょうど決着がつき、互いに剣を振り切った状態で膠着していた。片方の剣は相手の腹部で弛み、片方の剣は宙を彷徨う状態。


 ウィタや他の門下生、なによりマレスが一番驚いていた。決して「どうせ勝てないだろう」と諦めていたわけではない。しかしその力量差は毎日挑んで返り討ちにあっている彼が一番知っていた。だからこれは事件なのだ。ウィタの腹部を捉えている剣、つまりマレスの太刀が遂に届いた。剣の神童と呼ばれるウィタから一本とったのだ。


 入門してから四年、彼らは十三歳になった。何十、何百と剣を合わせ、結果はウィタの全勝。マレスは一度も勝つことができず、それでも挑戦し続けた。片側ばかりが更新され、数えることすら諦めた戦績の、そのもう片方のスコアを遂に塗り替えたのだ。


 マレスが好調でウィタが不調だったというのは事実。されど勝ちは勝ちだ。決戦はたったの一戦で決まるのだから


「くそ……こいつに負けるなんて……」


 悔しさで顔が歪む。着実に力をつけていく彼を間近で見続けてきて、いずれ負ける日が来るかもしれないと思ったこともある。だから、たった一回負けても大したことないだろうと。


 だが、いざ負けるとそれはどうしようもなく胸に込み上げてきた。当たり前だ。ほかの門下生に負けるのとは訳が違うのだ。彼は自分と同じ夢――ひとり分しかない地位を目指している競争相手なのだから。


「違うでしょウィタ君」


 勝利の余韻も程々に、マレスは意地の悪そうな顔でウィタに語りかけた。


「約束忘れちゃった?」

「は?」


 今回の敗因を考えるのに忙しいウィタはややキレ気味に答える。こんな奴と交わした約束なんて……


「僕が勝ったら名前で呼ぶって約束したよね?」

「はあ!? そんな前の話……」

「恥ずかしがらずにほらほらー」


 普通なら有効期限切れの約束だ。しかし、何年も同じ道場で修行をして、そして確実に努力を積み重ねてきた元愚か者を認めていないわけではなかった。いつまでもお前呼ばわりはあんまりだろうと思っていたところだ。


「くだらない」

「えぇー!」


 しかしこうも煽られると腹が立つ。ウィタは背を向ける。だが――


「……次は負けないからな、マレス」


 やっぱり筋を通さないのも癪なのだ。


「ふっふっふ、じゃあ僕も呼び捨てにしようかな」

「勝手にしろ」

「次も負けないよ! ウィタ!」


 後日、マレスは数十連敗を喫するのであった。


   *


 十四歳。遂に学校を卒業し、それぞれの道を歩む時が来た。学者、鍛冶屋、服飾、家業……進む道は様々である。そしてマレスとウィタは予定通り冒険家の養成学校へ入学するのだった。


 養成学校では三年間、仕事内容や魔物の情報、地理など冒険家としてのノウハウや実戦経験を積むことになる。


「ごめん! 遅れちゃったわ!」


 養成所前で待ち合わせをしていたマレスとウィタ。そしてもう一人、養成学校に入る者がいた。


「遅れるなんて珍しいね、エル」

「あ、あまり眠れなかったのよ」


 恥ずかしそうに顔を赤らめるのはエル=ガレミア。ガレミア家を継ぐつもりだった彼女もいつしか冒険家を目指すようになっていた。


「じゃ、入ろっか」


 三人は養成学校の門をくぐると、他の入学者や在校生のような人群れがいくつか見える。そしてその群れの中から見覚えのある人物がこちらに向かってきた。


「やっほーマレス」

「エトナ姉ちゃん!? ど、どうしてここに!?」


 それはマレスの同郷で幼馴染かつ姉的存在のエトナ=シトシーだった。


「いやあ、マレスが頑張ってるの見てたら私も冒険家やってみたくなっちゃってね」

「姉ちゃんが冒険家!?」

「あら、悪い?」

「いや……悪くはないんだけど……どうして言ってくれなかったのさ」

「それはもちろんあなたを驚かせるためよ!」

「は、はあ……」


 どんなもんだと言わんばかりに胸を貼るエトナ。彼女はマレスに何も言わずにこっそりこの養成学校に入学し、一年間バレないように過ごしてきたのだ。


「でもよかったー。よそよそしいから嫌われちゃったのかと思ってたよ」

「ふふ、それはごめんね」


 一年かけたドッキリを成功させたエトナは謝りながらも満足げだ。


「あれ、エルちゃんだ! 久しぶりー!」

「エトナさん、お久し……きゃっ」


 エルが挨拶しかけたところに飛び込むエトナ。出会った当初はエトナがエルをからかったせいで微妙な距離感だった彼女らもいつの間にやら仲良くなっていた。誰とでも仲良くなれるこの距離の近さがエトナの魅力だ。


「あれ、この子は?」

「エトナさん……離してください」

「ウィタだよ。ウィタ=ティーゼス」

「君がウィタ君かあ。私はエトナ=シトシー。よろしくね」

「あ、あぁ」

「エトナさん……」


 エトナはエルに抱きつきながらウィタへ笑みを送る。


「マレスはあれから強くなった?」

「強くなったよ! ウィタにも十回戦って二回くらいは勝てるようにはなったし!」

「そ、それは成長したということなのかな……?」


 低い戦績を自信満々に言うマレスに困惑するエトナ。おそらくこのウィタという少年が強くて、それに対抗できるくらいには強くなったと言いたいのだろうとエトナは結論付ける。


「エトナ姉ちゃんも戦ったりするの?」

「まあ冒険家になるからね」


 冒険家は強ければいいというわけではないが、やはり戦闘能力というのは重要なファクターだ。危険な職業ゆえに、ある程度の強さがなければ資格は与えられないし、卒業もできない。


「そうだ。式まで時間あるし軽く手合わせする?」


 エトナは提案する。姉として先輩としてマレスの成長を見てみたいのだ。


「え~エトナ姉ちゃん大丈夫~? 剣って当たると痛いんだよー?」


 手持ちの木剣は魔力に触れて軟化する練習用の剣とは違う。当たれば痛いし痣だってできる。


「そんなの養成学校ここなら当たり前よ。とりあえず移動しよっか」


 エトナは意地悪く言うマレスを軽くいなし、三人の先頭を歩き出した。




 養成学校に備えられている練習場に移動してきた四人。マレスとエトナは中央に、エルとウィタはそれを少し離れた場所から見守っている。


「ちなみにエトナ姉ちゃんは何の武器使うの?」

「私は素手だよ」

「え?」


 腰を落として拳を構えるエトナ。


「エトナ姉ちゃん本当に大丈夫なの? 僕、手加減できるかわからないよ?」

「私だって一年間ここに通ってきたんだから安心しなさい」

「……わかった」


 これ以上聞くのはエトナと言えども失礼だと考えたマレスは剣を構えた。


 エトナがちょいちょいと右手で煽るのを合図にマレスが地を蹴った。この五年間でマレスの実力は相当なものになった。ウィタの剣技にエルの魔法、それらを吸収し続けてきた自身の執着心が今の彼を形作る。


 あっという間に間合いまで近づいていた。


「あ、言い忘れてたけど」


 右斜め下に構えた剣を切り上げ、エトナの左脇腹を捉――


「お姉ちゃん、結構強いらしいんだよね」


 えたはずの太刀は空を切り、代わりに鈍い衝撃がマレスの胸を抉る。


「かっ、ハ……ッ」


 息ができなくなるほどの衝撃に思わず剣を離しそうになったがなんとか堪える。揺らぐ意識の中で垂れる二本の赤色の髪。それが逆さまの状態で浮くエトナのものだと認識すると、その体勢から彼女の掌底を食らったのだと理解した。


「お、これで倒れないんだ。強くなったんだね」


 器用に着地したエトナは弟の成長を喜び、しくしくと泣いたフリをしてみせる。当のマレスはあまりに深い打撃に動くこともままならなかった。


「じゃあ、続きしよっか!」

「ちょっ待――」




「ふぅーっ……すごく強くなっててお姉ちゃん感激しちゃった。強さだけなら上の世代にも負けてないよ」


 マレスをボコボコにしばき倒したエトナは彼を褒めちぎる。全く説得力がない。ちなみにマレスはうつ伏せの状態で死体のように地面に転がっている。


「つ、強い……」


 エルは驚く。実はエルとエトナはたまに会って遊んでいたため彼女が養成学校に通っている事を知っていた。しかし彼女が戦っている姿など見たことはなく、ただの陽気なお姉さんかと思っていたのだからあまりの強さに目を疑わざるを得なかった。


「シトシーさん」


 ウィタが口を開く。


「エトナでいいよ」

「……エトナさんはどこかで武術を習っていたんですか」


 剣道場と言えども道場の息子として近辺の武術道場の話は耳に入ってくる。実力者、しかもここまで強い者なら噂を聞いていてもおかしくないのだ。しかし聞いたことがない。それはつまり……


「独学だよ」


 ウィタは愕然とした。剣術や武術に限らず、何かを学ぶ上で指導者のいない練習は効率が悪い。しかもマレスに影響されて、と言っていることから特訓し始めたのはここ二、三年だろう。その短期間に独学でこの強さ。それはウィタやマレスを否定する強さだ。到底許せることではない。


「エトナさん、俺とも手合わせしてくれませんか」

「ん、いいよ。君はマレスより強いね」


 加護は修錬や契機があって発現するが、稀に生まれながらにして加護を持つ者が現れる。それが彼女エトナ=シトシーである。彼女はその異能に気付かないまま日々を送り、結局それを自覚したのは養成学校に入ってからだった。


 異常なまでのバランス感覚。そしてそれを支える体幹と柔軟性で、どんな体勢でもあらゆる攻撃を避け、常人とは掛け離れた体裁きで相手の意識の外から攻撃する。


 躍動に合わせて自身の赤髪が騒がしく揺れる様子になぞらえて彼女はその力に『踊り火』と名付けたが、そのあまりの強さが祟り、やがて付けられた二つ名は『劫火』。誰をもして勝てることができず、誰からも恐れられ、彼女は誰よりも強かった。


 エトナ=シトシーは天才だった。


「これからが楽しみね」


 二つに並んだボロ雑巾を眺めて彼女は微笑む。


   *


 ――時の流れというのは単純なもので、日常も事件も、退屈も劇的も、一分一秒を平等に消費する。頭を抱えた試験やエトナのレバーブローだっていつの間にか過去になる。勝手に訪れて、気付けば去っていて、そして彼らは当たり前のように卒業を迎えていた。


 ディラ街の門の前に小さな人だかり。マレス、ウィタ、エルとその身内、それと先に卒業したはずのエトナもそこにいた。


「お父さんったら今日くらいお仕事休めばいいのに」

「ねー」


 トゥーリットが愚痴を漏らす。娘の旅立ちの場に顔を出さない夫に眉を下げていた。相槌を打つミアは頬を膨らませている。


「まあ、しょうがないよ。お父さんだし」


 苦笑いを零すのはエル。この三年間で少し大人びたエルは新調した服に身を包んでいた。トレードマークである蒼色のとんがり帽子とローブは残したまま、冒険用に頑丈で動きやすく作り直されている。ちなみに昔来ていたものはミアが今着ている。


「ウィタ、頑張れよ」

「はい」


 親子であり師弟でもある彼らが交わす言葉は少ない。


 順調に逞しく育った肉体は鋼の如く、子供の頃の柔らかさは面影を残していない。相変わらずクールで鋭利な目つきだが、どこか角が取れた感じがする。


「まさかウィタがエトナ姉ちゃんとパーティを組むなんてね」

「私もびっくりした。それはもう熱い誘いだったわ」


 エトナはわざとらしく体をくねらせ悶えて見せる。


 四人の中で一番代わり映えのしないのはエトナだ。武闘家らしい格好をしてはいるが、幼少時はマレスより大きかった身体も養成学校に入ってからは成長が止まり、エルにすら身長を越されてしまったのだ。


「うるさいな……負けっぱなしは癪なんだよ」


 ウィタは煩わしそうに彼女から顔を背けると、気を取り直して言葉を続けた。


「それじゃあ俺たちは先に行く」

「マレス、エルちゃん、頑張ってね」

「エトナさんもお元気で!」


 別れの挨拶を済ませた二人は各々視線を送ったり手を振った後、街の外へ向かって歩き出した。


「ウィタ!」


 ピクリ、ウィタが歩を止め、振り返る。


「ありがとう!」


 突拍子もないマレスの言葉に目を丸くするウィタ。


 ほかに言うことがあるだろう。俺はこんなにもお前との決着を楽しみにしているのに、最後まで調子の抜ける奴だ。クク、と笑いが零れる。


「勇者になるのは俺だ!」

「なっ」


 返事の代わりに宣戦布告をしたウィタはマレスに言い返す暇も与えず、すぐに切り返して去っていった。


 その堂々としたライバルの背中はマレスにとって憧れで目標のひとつでもあった。自信家で、しかし努力家な彼は今のように恐れることなく前へ進み、余所見をすればすぐに背中は遠くにある。それに追いついてやると自身も必死に歩み続けた。たまに見下してくるあの表情は嫌いだったが、彼との戦いはマレスにとって強さの指標で、それがなければきっと強くなれなかっただろう。だから感謝をした。


 しかし彼にだってそれだけは譲れない。


「いいや、勇者になるのは僕だ!」


 すでに小さくなってしまったその背中に彼は拳を突き立てた。




 ウィタたちの姿が見えなくなるのを確認してからユシアが口を開いた。


「さ、そろそろあなた達も行きなさい」

「う、うん!」


 ユシアは何度も決意と挫折を繰り返してその覚悟を受け止め、息子の門出を祝えるほどに強くなっていた。ユシアの表情に不安はない。むしろ不安を浮かべていたのはマレスの方だった。


「もしかして緊張してる?」

「ちょっと不安かも」


 にへらとだらしなく笑って取り繕うマレス。


 十七歳になった彼は背もユシアよりも大きく、体つきも良くなった。ごつい装備にも見劣りしていない。


 変化したのは外見だけではない。感じるままに突っ走ってきた子供の頃とは違い、周りが見えるようになって悩みも増えた。転ぶことなく歩んでこれたこの道を拓いてくれていたのは誰なのか。今までとは違うその道の先。旅立ちの直前になってそれらが彼の足を縛る。


「何言ってんの。能天気なのがあなたの取り柄でしょう」

「酷くない!?」


 ユシアは罵倒のような励ましでマレスを容赦なく刺す。


「とにかくやってみなさい。これからたくさんあなたの知らないことと出会うことになるんだから、そんなことにいちいち気を取られてたらキリがないわ」

「……でも失敗するのは怖いよ」

「そうね。でも死ななければ失敗なんて案外大したことないものよ」

「そうなのかなあ」

「大体、二回も死にかけてるくせして今更怖いだなんてどの口が言えるのかしら」

「あはは、それもそっか」


 当時は大事件だったことも今になっては笑い話。確かに死ぬより恐ろしい失敗なんてそうあるものじゃないか、とマレスは納得した。


「だから頑張りなさい。挑んで、挑んで、馬鹿みたいに挑んで……きっと失敗して疲れて立ち止まりたくなる時があるから、そしたら一度帰ってくればいいわ。私はあなたのこと、いつでも待ってるから」

「帰るだけでも疲れちゃうけどね」

「そこは気合よ」

「なにそれ」


 二人は含み笑いをして互いに顔を見合わせる。


「なんか全然解決してない気がするけど元気出た! よし、いってくる!」

「ええ、いってらっしゃい」


 マレスは駆け出した。ちょっと待ちなさいよと文句を言いながらそれに続くエル。門を潜った辺りで歩調を合わせて何やら楽しげに話し始めた。


 彼は一人ではない。私がいなくてもあの子の支えになる人がいる。ならば大丈夫。なぜならあの子は既に幸せだ。


「ねえ、トゥーリット」


 段々遠ざかる息子を見送りながら、隣にいる友人に語りかけた。


「なあにユシア」

「このあと家に行ってもいいかしら」

「ふふ、私も誘おうと思っていたところよ」


 途中、彼らは振り向いて、大きく大きく手を振った。

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